「白熊の三段論法」というのは1930年代に旧ソ連のウズベク地方で、心理学者のルリヤが現地人の推論法を調べるために提示した質問です。
旧ソ連の辺境であったウズベク地方は、住民のほとんどが文盲であったため、知覚やものの考え方が文字の文化のものといかに隔たっているかが示されています。
上の質問に対して読み書きの出来ない村民の答えの例は
「それはわからないな、黒い熊なら見たことがあるが、他のは見たことがないし、、、それぞれの土地にはそれぞれの動物がいるよ」(文盲者)
「60歳とか80歳の人で、その人が白熊を見たことがあって喋るならば信用できるが、私は白熊を見たことがないんだよ、だから話すことは出来ないんだ。」(文盲者)
「熊が寒さで白くなるというのならそこでは白いに違いない。おそらくはそこでは熊はロシアのよりももっと白いだろう」(識字者)
「きみの言葉に従うならば、みな白色でなくちゃいけないね」(識字者)
などといったものです。
これらの答えを見ると、いわゆる三段論法の問題に対する現代人の答えとはまるで違います。
現代人のように「熊は白い」などと論理的にまともな答え方をしないで「分からない」といったり、「白い」ということを認めたとしても質問者がそういうならばとわざわざ断りを入れています。
要するに彼らは経験に基づいて考え、架空の問題でなくて現実の問題として考えようとしているのです。
抽象的な問題のとらえ方をせず、具体的、経験的に考えるのですからこれはまさに右脳の考え方です。
現代人から見れば未開拓地方の文盲者は、三段論法が通じないで、わけのわからない答え方をすると感じるかもしれませんが、彼らの答え方は常識的でまともです。
「雪の降る極北では熊はすべて白い」というのは常識的には「どうしてそんなことが言えるんだ」と疑問視されて当然で、よく調査すればそうでない可能性だってあります。
だから「わからない」というのが論理的に正しい答えでもあるのです。
これがもし仮定の話だというならば、その論理的な答えは分かりきっているけれども、事実としては真でないとすれば、それは仮定した人の責任です。
文盲であれ、識字者であれ、村の人々は常識的に答え、内容的には馬鹿げた質問に対しても感情的にならず応対しているのです。
現代人は論理学的な問題などを出題されると、何の抵抗もなく論理的な答えを出すのですが、この問題にどんな意義があるのだとか、論理的な答えがどんな意味を持っているかということは考えません。
言葉の理屈だけで答えてしまうという左脳の働きを当然と考えて、それ以外は非論理的で遅れているとか、アタマが悪いとか思い込んでしまいがちなのです。