60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

前頭葉による補完

2007-02-27 22:53:57 | 視角と判断

 たいていの人は、上の図は三角形の一部分が正方形で遮蔽されているというふうに思うでしょう。
 前頭葉の働きで遮蔽されている部分を推測して、正三角形をイメージすることが出来るのです。
 ところがハトはこのような図を見ると、真ん中の図のように正方形と凹型の図形としか見ることが出来ないといいます。
 右側の図のように三角形の覆われている部分を補完して見ることが出来ないのです。
 人間の場合でも幼児のうちは、隠されている部分を補完してみることは出来ないそうですからハトは知能が足りないのだなと、つい思ってしまいがちです。
 
 しかしハトが図形を人間のように補完して見ることができないからと言って、補完能力そのものを持っていないということにはなりません。
 ハトの天敵であるカラスがブロックの向こうに見えれば、図形の場合のようにブロックと腹部のえぐられたカラスだと思うわけではありません。
 やはりカラスの隠れている部分を瞬間的に補完してイメージし、カラスだと判断して用心するでしょう。
 隠れている部分を補完してイメージする能力がなければ生きていくことは出来ないのですから、補完能力がないのではなく、人工的な図形に対する知識がないので補完能力がないのです。

 もちろん下の図のような場合でも、人間がカラスの模型を作ったりすれば、ハトがイメージするカラスとは違うという場合もあります。
 見かけから隠れた部分を推測しても正しいとは限らないのですが、見えない部分を補完して行動するでしょう。

 文字を読むときも、読むことに習熟してくれば、単語や文章の一部分が隠されていても補完作業をして読み取ることが出来ます。
 「キ□ネうどん」とあれば「キツネうどん」、「□理大臣」なら「総理大臣」と欠けている部分を補って意味を読み取ることが出来るのです。
 これが幼児や、日本語を習い始めの外国人であれば、□の部分をどう補完してよいかわからないで欠けている部分をジッと見つめてしまうかもしれません。
 単語や文章を読むときすべての文字に注意が向けられているわけではなく、部分的には意識に上らない部分があります。
 読むことに慣れてくれば補完能力が発達してくるので、細かい部分に注意を向けなくても意味を把握することができるようになるからです。
 
 


支持されやすい説明

2007-02-26 23:54:57 | 視角と判断

 A図の場合は折れ曲がった紙に上から光が当たっているように見えます。
 同じ濃さの部分なのに上のほうが薄く見えるのは、白い色が影になってはいい色に見えると脳が判断するからだというのが心理学の説明でした。
 ところが同じように曲がった紙を描いて配色を変えたB図では、上から光が当たっていると考えれば薄く見えるほうの部分は元は白でなく灰色であったと解釈せざるを得ません。
 そうするとB図では、同じ濃さである二つの部分が違った濃さに見える理由を、影によって説明することはできなくなります。

 A図を平面でなく立体的に見て、白い部分は日が当たっていると見て、薄い灰色の部分が陰になって見えるというのは、そのように解釈することもできると言うことに過ぎません。
 B図もA図とおなじようなに日が当たっていると解釈すれば、白い部分は陰になっているはずですから、白い部分は発光しているとでも解釈しなければなりません。
 こうした解釈は不自然ですから、誰でもが無意識のうちにこのように脳が解釈しているとは思えません。
 二つの部分が違った濃さに見えるのは、そのような脳による解釈が原因なのではなく、解釈以前にそのように見えるからです。

 A図の場合は図が立体的に見えることから説明が考えられたのでしょうが、C図のような例を見ればそのような説明はしなかったでしょう
 C図は直方体が並べられているように見えますが、直方体のひし形に見える上面はすべて同じ濃さの色なのに、真ん中のものは、上下のものよりも薄く見えます。
 この場合はなぜそのように見えるかということを、光と影のような日常的な経験を利用して説明することは出来ません。
 説明できなくてもともかく、真ん中のひし形は上下のひし形より薄く見えるのです。
 A図の場合でも、光と影のような説明がなくても、同じ色が違って見えるのですが、光と影という説明がスマートなので広く支持されたのでしょう。

 


結果論的な解釈

2007-02-25 22:35:18 | 視角と判断

 上の図の方は心理学者のエーでルソンの考案したもので、「同じ」と記されているのは線で示している部分が同じ濃さの色であるという意味です。
 普通に見ればずいぶん色が違うと感じるはずです。
 物理的には光度計のようなものを使えば、二つの部分はそれぞれ同じ濃さの灰色だとわかるのですが、人間の眼で見ると同じには見えないのです。
 同じ濃さの灰色なのになぜ濃さが違って見えるかという疑問に対し、紙が折れ曲がった形に見え、真ん中の部分が影になっていると脳が判断するからだというのが心理学の一般的な説明です。

 図が三次元的に見え、光が当たっているように見えるので、影の部分と光の当たっている部分とに分けて判断するというのです。
 左上の図の例で言えばいちばん左の列といちばん右の列に光が当たり、真ん中の列が影になって見えます。
 真ん中の列は左の列と同じ色なのに影になっているため、白い部分が灰色に、黒い部分がさらに黒く見えると脳が解釈すると言うのです。
 真ん中の列の下の部分は白い部分が影になっている状態、右の列の真ん中は黒い部分に光が当たった状態と解釈するので、右の列の真ん中のほうが黒く見えるという説明です。

 ところで下の図のように真ん中の部分が灰色になるとどうでしょうか。
 形は上の図形とまったく同じで、真ん中の部分の色が違うだけなのですが、先ほど濃さがずいぶん違って見えた二つの部分はいずれも同じ濃さに見えるようになっています。
 紙が折れ曲がっているように見え、光が当たっているように見えるという点では上の図も下の図も同じです。
 光が当たっているように見える列と、影になって見える列とで同じ色が違った濃さに見えるという説明は成り立っていないのです。

 「光が当たって影が出来たと考えるためにこのように見える」というのはあとから考えられて解釈です。
 図形の部分の元の色がどのようなものであり、どの程度の光が当たっているのかということは上の図からではわからないのです。
 真ん中の列は本当はもっと濃い色で、両脇の列より光が強く当たっているために薄く見えていると解釈することだって出来るのです。
 図形の見え方から元の色と光の強さを決めることは出来ないのですが、図形の色と光の強さが決まれば見え方は決まります。
 心理学的解釈は結果から原因を説明しようとする、いわゆる結果論なのです。
 


見られるように出来た眼

2007-02-24 23:00:48 | 視角と判断

 図の左上にある円と正方形はその下の円と正方形と同じものです。
 下の図では放射線が描かれていますが、その影響で円も正方形もゆがんで見えます。
 そのゆがみ方を見ると、円も正方形も放射線の中心に近い部分が大きく、中心から遠い部分が小さくなっています。

 普通にこの図を見るときは放射線の中心に主として注意を向けて見ています。
 ここで見方を変えて放射線のすべての先端部分を意識するように図形全体を見ます。
 そうすると図形全体ははじめに見たときに比べ、小さく見えます。
 普通に見たときは主に中心部分を見ていたので、狭い範囲を見ようとするので焦点距離が短く、中心部分は大きく見えたのです。
 これに対し、放射線の外側に注意を向け、全体を見ようとしたときは広い範囲を見ようとするので焦点距離が長く、全体が小さく見えるのです。
 このときは円も正方形もゆがんでは見えなくなります。

 このような結果から、線が集中して密度の濃くなっている部分を見るときは焦点距離が短くなり、像は大きく見えるというふうに考えられます。
 左の図を見る場合でも、円形の場合であれば、円の左側つまり放射線の中心からはなれたほうに注意を向けて見ればゆがみは消えます。
 正方形のほうは右側、つまり放射線の中心から離れたほうの辺に注意を向けて見ればゆがみは消え、正方形に見えます。

 線が集まっているほうに自然に注意が向けられ、その部分が相対的に大きく見えるということは右の図の例でも確かめられます。
 右上の図では二つの同じ正方形ですが、下の方が大きく見えます。
 またその下の図の例では、二つの同じ大きさの円のうち、左側のほうが大きく見えます。
 いずれも線が集中しているほうに自然に注意が向けられるため、そちらのほうが大きく見えるのです。

 右下には眉毛のある目と、眉毛のない目が描かれていますがなんとなく見た場合は眉毛のある眼のほうが大きく見えます。
 人間の眼は白目があるので目立ち、表情がわかりやすいのですが、眉毛があることでさらに眼だって注意をひきつけやすくなっています。
 人間の眼はものを見るだけでなく、見られるようにも出来ているのです。
 人間は群れをつくる動物ですが、コミュニケーションの手段は音声だけでなく合いコンタクトが重要な役割をもっているように思われます。


無意識のうちに見方を変える

2007-02-20 22:51:28 | 視角と判断

 A図とB図では真ん中の円は同じ大きさなのですが、A図の円のほうが大きく見えます。
 心理学の本ではこれを対比効果による錯視だと説明しています。
 A図では周りの小さな円に比べ大きく感じ、B図では周りの大きな円に比べ小さく感じるのA図の場合のほうが大きく感じるというのです。
 
 そういわれればナルホドと思うのですが、ただ比べるのなら周りを囲まなくてもひとつずつ並べるだけでもよいのに、なぜ囲むのでしょうか。
 そう考えてC図のように同じ大きさの円の内側に小さな円を入れて見ました。
 円の中に入っている小さな円はA図の場合よりやや小さな円ですから、対比効果を考えればA図の場合より大きく見えるはずです。
 ところが実際は大きく見えるどころか逆にA図の場合より小さく見えます。
 実は、小さな円がそばにあるから対比効果で大きく見えるということはないということのようです。

 さらにD図のように小さな円を真ん中から離して見るとどうでしょうか。
 D図の小さな円の中心は、B図の大きな円の中心と真ん中の円からの距離を同じにしてあります。
 この場合はB図のほうがD図の場合に比べ、真ん中の円が小さく見えるという感じはしません。
 周りの円はB図の場合もD図の場合も真ん中の円からの距離は同じです。
 こうしてみると、やはり小さな円と対比して大きく見え、大きな円と対比して小さく見えるということはいえないのです。

 それでは、対比効果でないとすればA図の円がなぜ大きく見えるのかというのが問題です。
 それはA図を見るときと他の図を見るときとでは焦点距離を変えて見ているからです。
 A図では背景が周囲の小さな円で限定されているので狭い範囲に注意が向けられることになります。
 そのためA図を見るときは無意識のうちに焦点距離は短くなり、図は大きく見えます。
 B図では周りの円が大きく、離れているのでAの場合より視野が広がり、焦点距離は長くなります。
 C図は背景が限定されず、D図は周囲が小さな円でも離れているので視野が広げられますから、結局Aだけが大きく見えるのです。。

 ここで一つ一つの図を見るのでなく上の図全体を見るとA,B,C,D,Eは同じ大きさの円に見えます(同じ大きさなので)。
 一つ一つを見ていくのではなく同時にすべての円を見れば、同じ焦点距離で見ているので近くの図形と関係なく同じ大きさに見えるのです。
 大きさが違って見えるのは、無意識のうちに焦点距離を変え、違った見方をしていたためなのです。
 

 


注意の向け方で見え方が変る

2007-02-19 23:16:24 | 視角と判断

 左上の絵は若い女の顔に見えたり、老婆の横顔に見えることもあるという多義図形です。
 どちらに見えるかは見る人の関心のあり方によるという説明がありますが、それはあとから考えた理由付けです。
 例えば真ん中の図の赤丸をつけた部分に眼を向けると、たいていにひとにはこれは老婆の顔に見えるでしょう。
 これに対して、右の図の赤丸部分に眼を向けた場合は、今度は若い女の横顔に見えるでしょう。
 つまり眼を向けた場所によって全体の見え方が変わるのであって、見る側の心理状態とか、関心のあり方で見え方が決まるわけではないのです。
 見る側の心理が見え方を決めると言う説明のほうが面白いので説得力があるのですが、関心のありかたがどうであれ、眼を向けた場所によって見え方が変わっているのです。
 といえば、眼を向けた場所というのがそもそも、見る側の関心のあり方や心理状態によって変るのだ、というふうに反論されるかもしれません。
 しかし、はじめから関心のあるところに眼が向けられるとは限りませんし、関心がどうであれ、眼を向ける場所によって見え方は変わるのです。
 
 下の図ではAの場合は二本の斜線はつながっていないように見えますが、B図ではつながっているように見えます。
 A図の場合は長方形と斜線とが接している部分に注意が自然に向かいますが、B図の場合は斜線の両端に丸印が加わりそこに注意が向けられるので、長方形と斜線の接する部分に注意が向かわなくなるためです。

 長方形と斜線が接する部分が問題なのだということは、C図のように接する部分をとった図形を見るとよりハッキリします。
 C図の場合は線が切れているにもかかわらず、かえってこの方が上の斜線と下の斜線がつながって見えるのだから不思議です。
 C図とは別にD図のように斜線を縮めて長方形と接する部分だけにすれば、かえって二本の斜線は食い違って見えます。
 この場合は斜線が短いため、長方形と接する部分に自然と眼むけられてしまい、二本の斜めの線は著しく食い違って見えるのです。
 
 上の例は図形が絵画的なので、つい心理学的な解釈のようなものが説得力を持つのですが、下の図の場合は幾何学的な図形であるため、心理学的解釈出なく、図形自体の見え方の性質で説明するほうが説得力を持つのです。

 


視野を広げる練習

2007-02-18 22:36:51 | 視角と判断

 A図で斜めの線は垂直線のちょうど中点で接しているのですが、中点より上のほうで接しているように見えます。
 垂直線と斜めの線との角度をやや広げたB図の場合でも、接点は垂直線の中点より上にあるように見えます。
 C図のように直角であれば中点で接しているように見えるのですが、斜めになっている場合は、鋭角になっているほうに中点がずれて見えるのです。
 つまり垂直線と斜めの線が接しているとき、斜めの線は鋭角の側にずれて見えるのです。
 その結果D図のような場合、左下の斜めの線と右上の斜めの線はつながっているように見えなくなります。

 ところで、E図のように斜めの線の色を赤にするとD図の場合ほど二つの斜めの線はズレては見えません。
 ちょっと注意して見れば一直線であるように見えるようになります。
 垂直線と斜めの線が色が違うため、接点がはっきりとして、鋭角のほうにずれて見える度合いが減るためです。

 D図で左側の斜線と右側の斜線がずれて見える原因は、直線と斜線の接点の見え方に問題があると見当がついたわけですが、このことはF図のように斜線を短くして接点付近だけにするとよりハッキリします。
 F図では二つの斜線は一直線上にあるのですが、D図の場合よりもなお一層ズレて見えます。
 逆に斜線を長くしてG図のようにした場合、今度は斜線は一直線に見え、ずれているようには見えなくなります。
 線が長くなって視野が広げられ、接点から離れた部分に注意が向けられるため、接点での見え方の影響力が弱まるからです。

 D図やF図のような場合は、注意は線が集まっている部分、つまり垂直線と斜線の接点に自然に向けられるのですが、斜線が短いので接点付近での見え方の影響が強くなってしまうのです。
 そこでD図の場合は斜線の両先端に注意を向けて見れば、視野が広がるので錯視の度合いが減り、二つの斜線はほぼ一直線に見えるようになります。
 高齢者のほうがこの図形での錯視度合いが大きいのは、青壮年より視野が狭くなっているためです。
 しかし、意識的に練習すれば高齢者でも斜線が一直線上に見えるようになりますから、視野は広げることが出来るのです。


原因と結果の取り違え

2007-02-17 22:43:28 | 視角と判断
 図Aでは斜めの線は同一直線状にあるのにつながっていないように見えます。 右上の線は左下の線の延長上より上にあるように見えるのです。 そのように見える原因について、心理学には鋭角を見ると角度を広げて見ようとする体という説があります。 尖ったものを嫌う尖端恐怖症とか、鋭角恐怖症のようなものによって、鋭角を押し広げて見ようとする心理が働くからというのです。  ためしにB図のようにもとの線を赤線のように角度を広げれば、はっきりと上の線と下の線が離れているのが見えるので、尖端恐怖症説は当たっているように感じます。 ところが本当に鋭角を見たら実際より大きな角度に感じるのかどうか、ということは説明されてはいません。 むしろ、二本の斜めの線が離れて見えることから、角度が広がっていると推測されるので、原因と結果が逆になっているのです。  A図では斜めの線を垂直の帯が覆っているのですが、同じ関係で、C図のように垂直線を斜めの帯で覆って見るとどうでしょう。 この場合は上の線も下の線も垂直に見えますから、鋭角を押し広げるような見方はしていないことがわかります。 もし鋭角を押し広げて見るとすればD図のように帯は相当広く見えるようになってしまいますから、鋭角は拡大されてはいないのです。  同じ角度で交差しながら、A図では直線がつながって見えないのに、C図ではつながって見えるのはなぜでしょうか。 鋭角を押し広げてみてしまうという予測はD図を見れば引っ込めざるを得ないでしょう。 そこでもう一度A図とC図について、交差している部分を見ると、直線は帯と接する部分で帯に吸着するように曲がって見えます。 その結果A図では右上の線の場合は接点が実際より少し上に、左下の線では接点が実際より少し下に見えます。  その結果をよりわかりやすくしたのがE図で、右上の線は少し上の赤線に近づいて見え、左下の線はすぐ下の赤線に近づいて見えるため、二本の直線はつながって見えず、平行に見えるのです。 C図についても同じように直線がずれて見えたとしても、上下の二本の線が垂直であることは変わらないので矛盾はありません。  この錯視図は、線が交差している部分に注目することから起きるもので、船の両端を同時に注視すれば解消されます。 C図のように垂直線であれば線の両端を注視するのは易しいのですが、A図のように斜めの線だと難しく、どうしても交差する部分のほうに眼が行ってしまい、錯視するのです。 見るときに顔を直線と同じ向きに傾ければ、C図のように直線に斜めの帯が覆う形となるので錯視を解消することが出来ます。

枠や角度で変わる見え方

2007-02-13 23:13:17 | 視角と判断

 図Aは同じ大きさの白縁中黒のタイルと、黒縁中白のタイルを交互に並べたものですがが、整然と並べてあるのに、ガタガタに見えます。
 そればかりか、しばらく見ていると図は動いているように見えます。
 動いて見えるのは視線が動くためですが、単に視線が動くということではなく見え方が視線を動かしたとき見え方が変わるためです。
 タイルは同じ大きさなのに、白縁と黒縁では大きさが違って見えるため、視線を動かしたとき動く前に見た像と動いた後に見えた像がピタリと重ならないのです。

 下に一部分の拡大図がありますが、白縁の法が大きく見え、中は黒のほうが白よりも大きく見えます。
 単純に同じ大きさの白い四角と黒い四角を並べた場合は、白い四角のほうが大きく見えるのですが、縁取りをした場合は黒い四角のほうが大きく見えます。
 白い縁取りのタイルばかりとか、黒い縁取りのタイルばかりを並べれば見え方が安定するので、動いては見えないのですが、同じ大きさで違う大きさに見えるものを交互に並べるので見え方が動揺するのです。

 B図はA図を45度回転させたものですが、この方がA図よりも安定した見え方をします。
 このばあいも、しばらく見ているうちに図は動いて見えますが、A図の場合に比べれば動揺は少なくなっています。
 これは白縁のタイル、黒縁のタイルともに縦横に整然と並んでいるためです。
 個々のタイルは45度回転しているのですが、45度回転した状態でそれぞれ垂直、水平につながって並んでいるのでA図の場合より整然として見えるのです。
 それでも全体の枠はひし形になっているので、視線が斜めに動くと同じタイルのつながりでなく、白縁と黒縁が交互に並んでいる様子が眼に入るので、見え方が動揺するのです。

 そこでC図のように枠を長方形にしてB図の様子を切り抜いてみると、こちらは全部がが安定して見え、見え方が動揺しません。
 このばあいも視線を斜めに移動させれば、配置がガタガタに見え、図形が動いているように見えたりします。
 同じ図形でも、角度や枠によって安定して見えたり、あるいは逆に動揺して見えたりするのです。
 つまり、状況によって見え方が変わるのですから、見るときに環境や状況の影響を考慮して見ることが必要となるのです。


 


枠が変わると見え方が変わる

2007-02-12 23:37:52 | 視角と判断

 図Aはいわゆる「ツェルナーの錯視」で水平線が斜めに交錯する線のために傾いて見えます。
 B図はこれを45度回転させ、正方形の枠に収まる部分を表示したものです。
 こうして見ると45度回転させたB図のほうが錯視の度合いが激しく、6本の軸線の隣同士の線は並行には見えません。
 見え方がかなり違ったのは、45度回転させたからではないか、というのが普通の考え方で、心理学の本などでもそのように説明しています。

 ところがA図を45度回転した図というのはD図なのですが、この場合はA図に比べ錯視効果が大きくなるどころかむしろ小さくなっています。
 D図のほうが6本の軸線は隣同士がほぼ平行に見えるのです。
 したがって、図を回転させれば錯視の度合いが激しくなるということはないのです。
 そうすると、B図のほうが錯視効果が大きい原因というのは、軸線が傾いているということだけでなく、枠線に対して傾いているからです。
 図形を45度回転させたとき、枠も45度回転しているのですが、枠は回転させず正方形の枠に収めているのです。
 枠を変えたのが意識的であるならば、これはトリックだということになるのですが、おそらく無意識だろうと思います。
 傾いた枠でなく、傾いていない枠に収めるのが当たり前という常識的感覚が無意識のうちに働いたのでしょう。
 枠を変えたことが無意識的に行われたのに、図形を回転させたのは意識的ですから、錯視効果が大きくなったのは図形を回転させたためだと思ってしまうのです。
 
 C図は図形を回転させるのではなく、枠だけを45度回転させたものです。
 この場合はD図に比べると錯視効果が大きく、枠に対して軸線が傾いているほうが錯視の度合いが激しいことがわかります。
 こうして見るとB図の錯視効果が大きくなった原因は軸線が傾いたからではなく、枠と軸線の角度が変わっためだということなのです。
 どの図形も枠が見える形では示されていないので、枠が意識されにくいのですが、枠を意識すれば、枠によって見え方が変わることに気付くのです。