60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

漢字のまちがい

2007-05-29 23:30:43 | 文字を読む

 漢字は見れば意味が分かると思っている人がいますが、そう思えるのは学習の結果、漢字の形と意味が記憶の中で結びついているからです。
 四角い形を見れば四角いと思うのは学習と関係ないので、日本人が見てもインド人が見ても同じですが漢字はそうはいきません。
 たとえば鮎という字は本来は「なまず」のことですが、日本ではなぜか「あゆ」の意味となっています。
 鮎の文字の旁は占で粘土のようにねばねばしている意味で、「なまず」なら分かりますが、「あゆ」は分かりません。
 犬と狼は実際は形が似ているのに文字の形は似ていません。
 絵で虎を書いたつもりが猫に見えるということがありますが、文字ではそのようなことはありませんから、虎という漢字は「とら」と覚えない限り「虎」とは読めないのです。

 「檄を飛ばす」というコトバは意味のまちがいの例でよくあげられますが、今でも新聞などでよく見かけます。
 「激励する」と同じような意味で使っているのですが、「檄」は「触れ文」という意味なので意味が違います。
 「檄」という文字を見ても意味が分からず、「げき」という音読みからの連想で「激励」の意味と信じ込んで記憶されているのでしょう。
 「慙愧に堪えない」ということばも「ざんき」という音読みからの連想で「残念」と同じような意味と思い込んで記憶しているのでしょう。
 「痛恨の極み」という場合も、「痛」はひどくという意味で、主体は「恨み」で、怨恨あるいは後悔の意味なのですが、痛を主体にして「いたむ」という意味で使ったりします。
 (痛恨のエラーは悔いが残るエラーで、痛ましいエラーではない)

 図の「切」、「達」という字は書きまちがいの字で、正岡子規とか、島崎藤村はこんな下記違いをしていたそうです。 
 昔の人は楷書できちんと書く習慣がなかったので、書字はかなりいい加減で現在の小学校教育の基準からすればまちがいがかなりあったようです。
 江戸時代の寺子屋で覚える字も草書でしたから、楷書の文字の形とは違った文字を覚えたわけで、見れば意味が分かるというわけはありません。
 
 相図とか興味深々といった例は合図、興味津々の誤用例ですが、これは最近の中学生のまちがいではなく、文豪の島崎藤村のものです。
 藤村といえば「夜明け前」などを読めば難しい漢字をたくさん使っていて、現代人には到底及ぶことができない知識の持ち主です。
 それにもかかわらず、いい加減な文字を書いたり、間違った漢字の使い方をしているのはどういうことかというと、当時は細かいまちがいというのは無視されて、通用すればよいという感覚だったのでしょう。
 漢字の使い方はあまり厳密でなく、全体として意味が通じればよかったのでしょう。

 


漢字かな交じり文

2007-05-28 23:10:42 | 文字を読む

 文章は長さが短いほうが意味をつかみやすくなります。
 文章が長ければ一目で見渡せる部分の割合が小さくなるので、文全体の構造が頭に入りにくくなるからです。
 ローマ字や平仮名だけの文の場合は、分かち書きをしなければ意味が分かりにくくなるので、空白の分が加わり、漢字と仮名の文字数の差以上に文が長くなります。
 こうしたことからも、漢字かな混じり文のほうがカナ分かち書きやローマ字文よりも分かりやすいし、分かりやすければ読む速度が速くなるということになります。

 樺島忠夫「日本語探」によると、漢字かな混じり文は漢字が30%から35%程度混じって分かち書き効果をあげ、それによっても読みやすさを作っているといいます。 
 もし漢字の比率が10%以下になると分かち書きをしなければ読みにくくなり、逆に漢字の比率が高くなりすぎると拾い読みがしにくくなって読みにくくなるそうです。
 また漢字を拾って重要な部分に注意を向けて読んでいくというやり方は、漢字によってのみ実現されるのではなく、カタカナで書かれている語を拾っていくことでも可能だといいます。
 
 カタカナで書かれている語といえば、普通は外国語由来のいわゆるカタカナ語なのですが、ふつう漢字で書かれている語をカタカナにしてもある程度の効果はあります。
 図の例では漢字かな混じり文が文章の長さが短く、ポイントになる単語に注意を向けやすいのですばやく意味を理解できます。
 平仮名やローマ字の分かち書きは、音読はしやすいのですが、重点となる単語を一目では選びにくく、文章が長くなって全体の見通しが悪く、そのため漢字かな混じり文よりも意味が理解しにくくなっています。
 漢字の代わりにカタカナで書いた4番目の文は、分かち書きをしなくても分かち書き効果があり、5番目の平仮名文と比べれば長さは同じでもはるかに読みやすくなっています。

 漢字が混じっているほうがわかりやすいというのは、それだけ漢字を長期間の学習で身に着けているからですが。
 しかし漢字かな混じり文が分かりやすくなっているというのは、このような表面的な文字数の差だけではありません。
 平仮名文やローマ字文は単に音声を表現しているだけです。
 これを日本語の意味に置き換えると「有能」は「はたらきがあって役に立つこと」ですし、「慙愧」は「恥じ入ること」で「慙愧に堪えない」は「恥ずかしくてたまらない」という意味です。
 したがって平仮名で表すなら「はたらきが あり やくにたつ だいじん だった。はずかしくて たまらない」とでも書くべきところで、そうすると意味は分かりやすくなっても最初の文よりもかなり長くなってしまいます。

 漢字語を使わないで文章を書こうとすると、表現がどうしても長たらしくなり、その上文字列自体が長くなって全体の見通しが悪くなって読みにくくなるのです。
 漢字をある程度使えるようになるには漢字の学習時間が長くなるのですが、そうした犠牲を払っても文章を能率的に読むことを日本人は選択しているのです。


縦書きと横書き

2007-05-27 23:22:19 | 文字を読む

 「左横書きの日本語は非常に読みづらい」という意見があります。
 読みづらければ読む速度は当然遅くなるうえに疲れるし、構成等をやると2ワイは能率が落ちるともいいます(山本七平「漢字文化を考える」)。
 確かに横書きの日本語をが読みづらく、疲れると感じる人がいるのは事実です。
 読むスピードについては、戦後に行われた調査では小学生から中学生にかけては縦書きのほうが読む速度は速かったそうです。 
 ところが学年が進むにつれ速度の差がなくなり、大学生になると横書きを読むスピードは縦書きの場合と同じだという結果になっています。
 
 子供は最初は縦書きで文字を習いますから、縦書きに慣れていて横書きの文字を読むスピードが落ちるのは当然です。
 大学生になると縦書きも横書きも読む速度に差がなくなるということは、大学生になる頃には横書きの文を読む経験をつんできているということです。
 要するに慣れの問題ではなかろうかと推測できます。

 英語などアルファベットの場合は、字の形からして縦書きにすると非常に読みづらく、慣れの問題ではないと思われます(英語の本の背はやはり横書きになっています)。
 そうしたところからの連想で、日本語の場合も文字の形が横書きに向いていないのではないかとも考えられますが、本の表表紙は横書きのものが多く、字形は縦書きでも横書きでもどちらにも適応するようです。

 疲れるという点については、横書きのほうが疲れやすい要素があります。
 上の図は縦横同じ間隔で文字を並べてありますが、横に並んだ9文字をいっぺんに見るほうが、縦に並んだ9文字を見るより楽に見ることができます。
 目が二つ横に並んでいるので横のほうの視野が広く、横に並んでいる文字をとらえるほうが楽なのです。
 それなら横書きの文字を読むほうが楽なはずで、横書き文字を読むほうが疲れやすいというのはおかしいのではないかと思うことでしょう。

 ところが横書きの文字を読むと、文字が楽に目に入るので、目をあまり動かさずにすみ、焦点距離も固定したままの状態が続きます。
 同じ姿勢を続けると筋肉がこわばり非常に疲れるのと同じように、目も同じように動かさないで見続ければ疲れるのです。
 縦に並んだ場文字列を見る場合は、目を動かしたり、目を見開いたりするようになるので目の筋肉はこわばり難くなります。
 つまり縦書きのほうが疲れにくいということになります。
 といっても現代の文章はアルファベットやアラビヤ数字などが入ってくるので、横書きのほうが表記しやすい場合が多く、横書きを読む機会が多くなりますから横書きの文章を読んでも疲れない工夫をする必要があります。
 
 


漢字と仮名

2007-05-26 22:37:20 | 文字を読む

 図の5行の文字列はいずれも14文字です。
 最初の2行は左右両端が漢字になっていて、次の2行は両端が平仮名になっています。
 真ん中の星印に視線を向けて見ると、両端の漢字部分がはっきり認識しにくいので視線を動かさないで1行を丸ごと読み取るのはなかなか難しいでしょう。
 行の真ん中に視線を向けた場合、左右両端は周辺視野で見ることになるのでぼやけて見えるのですが、複雑な漢字があれば読み取れないからです。
 本とか山のように、形が単純で見慣れている漢字であれば、周辺視でも読み取れますが漢字が続いているとほかの字が読み取れません。
 
 これに対して3行目と4行目のように、漢字が中心視野にあって、左右両端が平仮名であれば視線を真ん中に向けたままで、なんとか1行全体を読み取れるのではないでしょうか(すくなくても全体の文字が見えた感じがするでしょう)。
 平仮名は48種類しかなく、形が単純な上に見慣れているので、周辺視野にあっても漢字よりもはるかに読み取りやすいためです。
 とはいえ、5行目のように平仮名ばかりになると、一つ一つの文字は見えているような感じがするのに、同じような文字が並んでいるために区切りが見えず文の意味はつかみにくくなります。

 漢字かな混じり文が速く読めるというのは、漢字に注目しながら読むと文章の区切りが自然に分かり、平仮名部分は特に注視しなくてもついでに周辺視で読み取れるからです。
 漢字にルビが振ってある場合、ルビは漢字よりズット小さいのにじっと目を凝らしてみなくても読み取れます。
 不如帰のような当て字は本来なら平仮名で表記して、漢字を小さく上に表記すべきなのですが、それでは極端に読みにくくなるので、当て字のほうを大きく本来の和語のほうを小さく表示しています。
 じっさい、「きつつき」とか「ろくろくび」に当て字を振るととても読みにくくなってしまいます。
 
 昔は新聞とか子供やいわゆる大衆向けの本には、振り仮名が振ってありましたが、これは小学校教育だけでは漢字の多い文章を読むことはできなかったためです。
 昔の日本が文盲率が低かったといっても、平仮名が読めたということで、現在のようにルビなしでほとんどの人が新聞を読めたわけではありません。
 振り仮名なしでもほとんどの人が新聞を読めるということからすれば、現代のほうが識字率はかなり高くなっているといえます。
 戦前は現代に比べれば平均的教育期間がズット短かったので、漢字がまともに読めない人が多くても当然ですが、それでも多くの人が文字を読むことができたのは、振り仮名があったためです。
 振り仮名は目の負担になり、目を悪くするという意見もありますが、昔のように総振り仮名にしたりしなければ思うほど目の負担にはなりません。
 意味の分からない単語の意味を調べるにしても、かなが振ってあれば簡単に調べられるのですから、もっと振り仮名を増やしたほうが良いと思います。


漢字の拾い読み

2007-05-22 23:11:07 | 言葉と文字

 漢字かな混じり文は、漢字を拾い読みすればヒラガナの部分を読まなくても意味が分かるので自然に速読ができるという説があります。
 上の図は、和辻哲郎「風土」の中の一説です。
 ひらがなの部分をすべて伏字にしてしまうと、なんについて述べられているかは冒頭の家族制度という単語で分かりますが、論旨は分かりません。
 現代の日本人が家から離れているというのか、離れていないというのか、伏字をされた状態ではどちらともいえません。
 
 ひらがなの部分は文章の骨組みを作っているので、これを無視してしまうと論理がなくなってしまいます。
 「明日は天気になるだろう」という文と「明日は天気にはならない」は漢字の部分だけ拾い読みすれば同じでも、意味はまったく違います。
 文字どおり漢字だけを拾い読みした場合は、なんについて書かれた文章か分かっても、どのような主張がなされているか分かりません。
 文章の論理の組み立てが分からないので、結局意味がわからないということになり、無駄な読みをしたことになります。
 
 漢字かな混じり文を読んでいるとき、ひとつひとつの文字をなぞるように読んでいるわけではなく、視線は飛び飛びに動いているので、実感的には拾い読みをしていると思い込みがちです。
 漢字かな混じり文の場合は、漢字の方が目立ちますから、視線が跳ぶように動く感じから漢字を拾い読みするように考えてしまうのでしょう。

 実際に文字を読んでいるときの視線の動きは、英語熟達者が英語を読む場合でも、一文字づつあるいは一単語づつなぞり読みをするのではなく、視線を跳ばして拾い読みのように読むそうです。
 なぞり読みをしないで跳ばし読みをするというとき、間の文字は目に入らないかというと、中心視野には入らなくても、周辺視野には入っています。
 周辺視野ははっきり見えないのですが、かな文字の場合は漢字に比べはっきり見えなくても把握しやすく、また良く使われる単語なので周辺視野にあって自動的に理解しやすいのです。
 つまり、漢字だけ拾い読みしているようなつもりでも、実際はかな部分が周辺視野でとらえられ、意味の理解を助けているのです。

 二番目の文は上の文と同じ文なのですが、漢語の部分だけを伏字にしたものです。
 この場合は文章の骨組みはわかるのですが、これだけ見てはなんについての文章なのかさっぱり分かりません。
 漢語の部分は、内容を限定する「何」や「どのように」、「どうする」のほとんどを占めていて、和語(日本語)は「徳川、何人、仕方、離れ」と三分の一程度です。
 漢語のほうが数が多いから伏字にすると内容が分からなくなると考えがちですが、漢語のほうが使用頻度が低いので、伏字にされたとき予想がつきにくいからです。
 漢字かな混じり文を読むとき漢語に視線が向かうのは、漢語の方が形が複雑なだけでなく内容もなじみが少なく予想しにくいためなのです。
 


ストループ効果と慣れ

2007-05-21 23:10:04 | 言葉と文字

 一番上の行の文字を読む場合、文字の色と文字の示す意味は一致しませんが、「赤、青、白、、、」と、つかえずに読むことができるでしょう。
 つぎに二行目の四角の部分の色を言う場合、これもつかえずに「青、茶、赤、、、」とスムーズに言うことができます。
 ところが、1行目の文字の色を答えるという課題になると、途中でつかえたり間違ったりします。
 文字の色を答えようとするとき、文字を自動的に読んでしまいそうになるので、ブレーキをかけようとして掛け損なったりするためです。
 いわゆるストループ効果というものですが、文字の色を答えるのが課題なのに、つい文字を読んでしまいそうになるので、間違ったりつかえたりするのです。

 文字を読むというのは大人の場合、かなり自動化されているので、意識的に文字の色を答えようとしても、つい文字を読んでしまいがちです。
 そのため自動的に文字を読もうとする衝動を、前頭葉の働きで押さえられれば、文字の色を間違えずに言えるということで、文字の色を言うことが前頭葉の訓練になると考える人もいます。
 こうなると文字を自動的に読むというのはマイナスイメージでとらえられがちですが、せっかく長期の文字学習で得たの能力なのですからプラスに評価すべきものです。
 
 英語でのストループ効果で分かることは、英語話者もredとかgreenといった文字列を見たとき「r,e,d」とか「g,r,e,e,n」という風に一文字づつ読んでいくのではなく、全体をひとかたまりでとらえ、見た瞬間に意味を理解しているということです。
 瞬間的に文字の意味を理解してしまうので、文字の色を判断して言う前に文字の意味する色を言ってしまうのです。
 日本人が「赤」とか「青」という文字を見て、自動的に読んでしまうというのも、単に音読するということでなく、意味が自動的に呼び起こされているからです。

 どうしても文字を読まずに、色の名前を言うことができるようになりたいという場合は、色の名前を言う訓練をして、それを自動化すれば可能です(そのようなことをすることに価値があるかどうか分かりませんが)。
 図の3行目から5行目にかけては色名でない文字をいろんな色で示してあります。
 これらの文字の色の名前を言う練習をしてみると、2行目の四角形の色をいう場合よりスムーズにできません。
 人間の視覚は色よりも形をとらえることを優先させるので、決まった四角形の色を判断するより、漢字の色を判断するほうが遅くなるためです。
 
 それでも、文字が色の名前を示していなければ、色をいうという課題から外れないですむため、一行目の場合よりはスムーズに色の名前を言うことができます。
 これをしばらく続けると、文字を見てその色をいうことに慣れてきて、半自動化しますからその勢いで、最後の行の色名を言ってみれば、スムーズに色名がいえるようになります。
 十分練習した後で最初の行の文字を読んでみると、ついうっかり文字の色をいってしまうケースが出てきます。つまり逆ストループ効果が出てきやすくなるのです。


文字の形と意味

2007-05-20 23:23:45 | 言葉と文字

 漢字の起源は象形文字ですが、それはズット昔のことで、現在の漢字の形がズバリものの形を現しているということではありません。
 山、川、日、月、子。女、目、耳、手、羊、魚、馬などといった漢字をアルファベットしか知らない外国人に見せたところで意味が判るわけではありません。
 日本人でもこれらの文字が象形文字だと感覚的に分かる人は少ないでしょう。
 こうした象形文字が、ものの形に似せるということが目的だったとすれば、率直に言って似せ方がとても下手だからです。
 これらの文字が象形文字だと感じることのできる人は、象形文字について学習した人で、文字の形の変化を学習したからそう感じることができるのです。
 普通の人は単に「川」は水の流れる「かわ」という意味を持った文字だと習い覚えているに過ぎません。
 

 「川」という字を見ると直ちに意味が分かるというのは、「川」という字が川の形をしているからではなく、習い覚えて繰り返し読んだり、書いたりしたためです。
 英語なら「river」という単語は象形性はまったくありませんが、英語を読みなれている人なら見ただけで、綴りを一文字たどらなくても意味がすぐに分かります。
 
 「木」という字は「立ち木」という意味と同時に「木材」という意味がありますが、「立ち木」の象形文字だと意識しすぎれば「木材」という意味は頭に浮かびにくくなります。
 英語なら「立ち木」は「tree」で、「木材」は「wood」となり、分類系統を示す「ツリー状」のイメージは図の右上のようになります。
 ツリー状というコトバを「木状」と訳すことはなく「系統樹」と「樹」をつかうのは「木」が「立ち木」の象形性を失ったためです。

 漢字は作られる過程では象形性をはじめとして、いろいろな根拠があったのでしょうが、複雑な字は簡略化されて使われている例が多くあります。
 図にあげた例はほんの一部ですが、現在ではもっぱら略字のほうが使われていて、元の形を知らない(さらに読めない)人が多くなっています。
 漢字が形を見て意味が分かる仕組みであったとすれば、略字はその形を崩しているわけですから、略字は見てすぐには意味の分からない文字だということになります。
 ところが実際は現在通用している略字は見ればすぐに意味が分かります。
 
 略字となっている漢字は大体基本漢字なので、子供のときに反復練習して覚えている文字です。
 ほとんどの人はすでに略字のほうに慣れているので、本字(旧字体、舊字體)よりも略字のほうがすばやく分かるようになっています。
 漢字の本来の形よりも、見慣れた略字のほうがパット見て分かるようになってきているのです。
 


多義語とルビ

2007-05-19 23:45:00 | 言葉と文字

 日本語は同音多義語が多いので漢字で書き分けないと意味が通じないなどとよく言われます。
 たとえば「ゆく(いく)」というようなコトバはいろんな意味で使われます。
 国語辞典を引くと「行く、往く、逝く」などという具合に、いくつかの漢字が当てられていますから、これらの漢字で書き分けるのかなと思います。
 ところが用例を見ると、すべてが漢字で書き分けられているわけではないということが分かります。
 「こころゆくまで楽しむ」とか、「その案でゆく」などといった例では漢字は示されていません。
 つまり、適当な漢字がスット当てはめられるというわけには「ゆかない」場合もあるのです。
 日本語の同音多義語を使うとき、漢字が頭に思い浮かぶと言われても、合点が「いかない」のです。
 また「嫁にゆく」「養子にゆく」というばあいに、「適く」と書くのが適当なのですが、「行く」と書くのが一般的になっていて、意味によって書き分けるというのもそう厳格なものではないようです。

 一方で漢字の「行」を引くと実はこれも多義的で、「ゆく」という意味だけではありません。
 良く知られている「おこなう」という意味のほかにも、「行脚」「行列」「銀行」などに使われるように、いくつもの意味があります。
 漢語も多義的なのですが、漢語の場合はほかの字で書き分けるということはできません。
 これは英語の場合でも同じで、「go」という単語は「行く」という意味のほかにたくさんの意味がありますが、ほかの文字で書き分けるというようなことはありません。
 
 英語の場合、中学生の暗記用単語カードなら、ひとつの単語について2,3種の意味しか記されていませんが、ちょっとした英和辞典で見れば、go,comeなどの基本語はとても覚えきれないほどの意味が載っています。
 アメリカ人やイギリス人なら、辞書など引かなくても、意味が分かるのかといえば必ずしもそうではないでしょう。
 英英辞典でもうんざりするほどの用例がありますし、幼児のうちからいろんな意味が分かるわけではないのですから、アメリカ人などにも正しい使い分けは難しいのでしょう。

 日本語で「行く」と書いて「ゆ」とルビを振るのは、漢字の読み方(音声化)を示しただけでなく、日本語の「ゆく」と漢語の「行」の意味の共通点を示す結果になっています。
 そのため単に「ゆく」とか「行」と書くよりも意味が分かりやすくなっています。
 英語の場合も「go」の上にルビのように、訳語を振れば日本人の学習者には分かりやすく、覚えやすくなります。
 おろかといわれたり、邪道といわれても二つの言語を並列表示すれば意味が頭に入りやすいのです。
 振り仮名とか訳語を添えるのは記憶しようとしないので、記憶の妨げになるという説もありますが、同時に見ることで自動的に理解することができるので、逆に記憶にプラスとなります。


漢字の当てはめ

2007-05-15 23:37:36 | 言葉と文字

 日本語(和語)は意味が大ざっぱで良くいえば抽象的で、たとえば「かたい」は「外力を受けても変化しにくい」というような意味で、「固、堅、硬、難、、」など漢字を思い浮かべれば具体的に意味がはっきりする、というような説があります。
 しかし「かたい」というコトバヲ聞いて、適当な漢字をすぐに思い浮かべられるというような人は学者か何かで、普通の人は「ハテナ」と戸惑うのではないでしょうか。

 日常会話では「頭がかたい」とか「口がかたい」、「かたい職業」、「かたい表情」などといったコトバを使っても漢字を意識しないのではないでしょうか。
 漢字を当てはめなくとも意味が通じていて、それぞれ意味が違うことは承知しているでしょう。
 逆にこの場合はどんな漢字を書いたらよいのかと聞かれても、すぐに漢字が思い浮かばなかったり、漢字を思い浮かべても迷ったりします。

 高島俊男「漢字と日本人」によれば和語に漢字を当てはめることはおろかなことで、漢字をどう使い分けたらよいかなどと聞いてくる人はかならずおろかな人だとしています。
 日本人が日本語で話すとき、あるいは書くときは「かたい」と書けばよいといいます。
 「かたい」といって別に漢字を思い浮かべなくても意味が分かるし、漢字で書かなくても意味がわかるというのです。
 たしかに、英語でhardというコトバもいくつもの意味がありますが、hardはhardと書くだけで特別に書き分けたりしません。

 たとえばtakeという単語はいくつも意味があるので、図のように漢字をくっつけて書けば、「アホじゃないだろうか」と思われるというのですが、それはどうでしょうか。
 英語の話者であればそんなことはもちろんしないでしょうが、日本人が英語を習っている途中であればこれも便法です。
 takeという言葉の意味が全面的に頭にしみこんでいない段階では、個別の訳をくっつけておいたほうが理解しやすいのです。
 
 また、おなじ「かたい」というコトバでありながら、どういう風に意味が違うのか、と改めて聞かれれば説明に窮するかもしれません。
 漢字をうまく当てはめることができれば、かえって意味がはっきりするということもあります。
 たとえば「紐でかたく縛る」という場合「緊く縛る」ほうが意味が通じ、「15勝はかたい」というとき「かたい」「堅い」というより「確実」としたほうが近い意味となります。
 国語辞書のように堅、硬、固、難の4字ですべての「固い」を書き分けようとすれば、なんとなく合わない部分が出てきますが、漢字を当てはめてみようとすること自体は、意味を整理する上で役立つのです。
 和語の部分を尊重するのであれば、漢字を当てはめたとき必ずルビを振るようにして、和語が意識に残るようにすれば良いのです。


ルビと振り漢字

2007-05-14 23:05:22 | 言葉と文字

 一番上の例は日本書紀にあるヤマトタケルの歌の一部で、いわゆる万葉仮名ですが、まるで暴走族が「夜露死苦」とかいて「よろしく」と読ませようとしたのと同じです。
 名前に麻利とか亜紀とか美嘉、爽良などという字を当てるのも同じです。
 一つ一つの音節に好き勝手に漢字を当てはめていて、漢字の意味にはこだわってはいません(感覚的な対応はあるかもしれませんが)。
 万葉仮名として使われる漢字は九百数十種あるそうで、いろは四十八文字からすれば、一音に対して一字を対応させるという意識はありません。

 二番目の例は柿本人麻呂の歌の一部で、この場合は漢字の音読みをあてるよりも、訓読みのほうを主として当てていますが、鴨のように訓読みではあるけれども意味は関係ないものも含まれています。
 万葉集の漢字の使い方の中には冗談のようなものもあり、「丸雪」と書いて「あられ」と読ませたり、「小熱」と書いて「ぬる」と読ませる、あるいは「母乳」とかいて「もち(持ち」と読ませたりするものがあるそうです。
 有名なのは「十八」と書いて「にく」と読ませ、「出」という字の代わりに「山上復有山」つまり「山の上にまた山あり」という字を当てたりしたものもあります。
 小学生のなぞがけあるいはクイズみたいなこともやっていたので、漢字を玩具にしたりするのは今に始まったことではないのです。

 日本語をあらわすのに漢字を使うもうひとつのやり方は、言葉の意味を漢字で表すもので、この場合は漢字だけを示すと意味はなんとなく分かるけれども、何という言葉を指しているのか分かりにくかったりします。
 相撲は漢字だけ見れば「撲りあい」のことだともとれますし、足袋だって「くつした」と思うほうが自然かもしれないのです。
 一つ一つの漢字の読みから、単語の読み方を推測できればよいのですが、読み方を考慮しない意訳法の場合は読み方が自明ではなくなるのです。
 
 誤解を避けるために振り仮名(ルビ)をふるというのがひとつの解決法ですが、本来ならヒラガナが発明されているのですから、ヒラガナで書けばそれですむことなのです。
 「おまわり」とか「うるさい」など別に漢字で表さなくても普通の日本人なら意味は自動的に分かります。
 「へたくそ」などは「ヘタクソ」だとなんとなくきつい感じになりますが、意味は同じように感じます。
 「へた」というのはどんな意味だといわれたとき「下手」と漢字を当てると「上手く」説明できた感じがしたりします。
 これはある程度漢字に習熟した日本人の場合で、日本語習いたての外国人ならかえって混乱するかもしれないのです。
 「下手」は下の手なのか、手を下すのか考えすぎるとますます分からなくなったりします。
 
 ヒラガナでの表記ができるのですから、ヒラガナで表記した上で漢字の意訳を同時に示したいなら、ひらがなの上に漢字を振ればよいので、本来なら振り漢字が正当です。
 漢字を上に振ったのでは読みにくく、バランスが悪いので漢字を書いてその上にヒラガナを振ったのですが、本体はヒラガナのほうです。
 ヒラガナが本体であればこれを省くというのは間違いで、いわゆる熟字を使う場合にはルビは省くわけにはいかないのです。