カラーストループ効果というのは、色の情報を答えるときに文字の情報が干渉するためにおきます。
文字の意味に邪魔されないで色の情報をスムースに答えることを要求されるのですが、うまくできるということは、集中力があるとか、抑制がきくとか、適応力があるとかいった能力があると推測されがちです。
どのような能力がテストされるのか、きちんと実証されているわけではないのですが、いつの間にか能力テストのような扱われるようになっているのが不思議です。
このテストで、つい文字を読んでしまったり、読みそうになってつかえたりするのは、テストの仕方にも原因があります。
人間は言葉が使えるので、答えを言葉で要求するのですが、文字が示されていると、つい読んでしまうのです。
たとえば、図のように赤い色と、赤という字を①、青い色と青という字を②、黄色い色と黄という字を③、緑の色と緑という字を④と決めておいて、答えを数字でしめしてもらうようにします。
最初の例では文字の背景の色の番号を答えてもらうのですが、実際やってみてどうでしょうか。
声で色を答えるより間違えにくいのではないでしょうか。
この場合は、色を見て対応する番号を答えるので、文字を見て「あお」という風に声を出してしまわずにすむので間違えにくいのです。
背景色でなく文字が色で示されている場合でも、番号で答えるというのであれば間違えにくくなります(一番下の例)。
結局文字の色を答えるように言われても、文字に注目した場合つい文字を読んでしまうというのは、それだけ文字を読むことが自動化されているということで、学習訓練の結果です。
文字を読む習慣のない人とか、読めない人(幼児や外国人)ならそうした事が起きにくいのですから、単純に能力の問題にできないことはハッキリわかると思います。
文字の意味に邪魔されないで色の情報をスムースに答えることを要求されるのですが、うまくできるということは、集中力があるとか、抑制がきくとか、適応力があるとかいった能力があると推測されがちです。
どのような能力がテストされるのか、きちんと実証されているわけではないのですが、いつの間にか能力テストのような扱われるようになっているのが不思議です。
このテストで、つい文字を読んでしまったり、読みそうになってつかえたりするのは、テストの仕方にも原因があります。
人間は言葉が使えるので、答えを言葉で要求するのですが、文字が示されていると、つい読んでしまうのです。
たとえば、図のように赤い色と、赤という字を①、青い色と青という字を②、黄色い色と黄という字を③、緑の色と緑という字を④と決めておいて、答えを数字でしめしてもらうようにします。
最初の例では文字の背景の色の番号を答えてもらうのですが、実際やってみてどうでしょうか。
声で色を答えるより間違えにくいのではないでしょうか。
この場合は、色を見て対応する番号を答えるので、文字を見て「あお」という風に声を出してしまわずにすむので間違えにくいのです。
背景色でなく文字が色で示されている場合でも、番号で答えるというのであれば間違えにくくなります(一番下の例)。
結局文字の色を答えるように言われても、文字に注目した場合つい文字を読んでしまうというのは、それだけ文字を読むことが自動化されているということで、学習訓練の結果です。
文字を読む習慣のない人とか、読めない人(幼児や外国人)ならそうした事が起きにくいのですから、単純に能力の問題にできないことはハッキリわかると思います。
ストループ効果が発生するのは、文字を見たとき意味がわかるからですが、見た瞬間に自動的に分かる必要があります。
はじめの例は色を表す漢字を音読みにして、カタカナで表示しています。
この場合はたいていの人は文字の色をスムーズに間違えないで言うことができるのではないでしょうか。
青い色で「セキ」と書いてあれば、文字の色は「あお」と言うはずです。
ところが青い色で「赤」と書いてあると、文字の色はと問われて、うっかり「あか」と答えてしまうのです。
「セキ」→「赤」→「あか」は自動的ではないので、文字の色を「あお」と指示通りに答えられます。
3行目は色の名前を漢字で書いていますが、書体が普通の活字体ではないので、多少読みにくくなっています。
この場合、背景の色を「あか、き、あお、あか、みどり、あお」と大体スムーズに言うことができるのではないでしょうか。
背景の色の刺激が十分なことと、文字の書体が読みにくい書体であることで、文字の意味のほうに引き寄せられないですんでいます。
一番下の行は普通のストループテストと同じで、文字が漢字で、文字の色が文字の意味と異なっています。
ただ、書体が普通の活字体でなく読みにくい書体になっています。
明朝体とかゴシック体のように見慣れた書体でないので、瞬間的に読めず、ブレーキが利くのでゴシック体など見慣れた字体のようについうっかり口に乗せなくてすみます。
日本人の場合は英米人とは違って、表記法がひらがな、カタカナ、ローマ字、漢字と4種類あるだけでなく、漢字にはオンと訓の2種類があるので、文字表記の方法は多彩です。
ストループ効果が顕著に現れるのは、文字表記の形態がなじみがあって意味が自動的に分かり、自動的に声になる場合なのだということなのです。
最近、ストループ効果を使ったテストのようなものを使って、何か脳のテストをしたり、脳の訓練をするような例があります。
基準がはっきりしないので、脳のどんな機能をテストするのかあいまいなのですが、漠然と速くできるのがよいと思って一所懸命やっている人々がいるようです。
このテストの成績が悪ければ前頭葉が機能不全だなどと脅されれば、不安になって練習したりするようになるのかもしれません。
はじめの例は色を表す漢字を音読みにして、カタカナで表示しています。
この場合はたいていの人は文字の色をスムーズに間違えないで言うことができるのではないでしょうか。
青い色で「セキ」と書いてあれば、文字の色は「あお」と言うはずです。
ところが青い色で「赤」と書いてあると、文字の色はと問われて、うっかり「あか」と答えてしまうのです。
「セキ」→「赤」→「あか」は自動的ではないので、文字の色を「あお」と指示通りに答えられます。
3行目は色の名前を漢字で書いていますが、書体が普通の活字体ではないので、多少読みにくくなっています。
この場合、背景の色を「あか、き、あお、あか、みどり、あお」と大体スムーズに言うことができるのではないでしょうか。
背景の色の刺激が十分なことと、文字の書体が読みにくい書体であることで、文字の意味のほうに引き寄せられないですんでいます。
一番下の行は普通のストループテストと同じで、文字が漢字で、文字の色が文字の意味と異なっています。
ただ、書体が普通の活字体でなく読みにくい書体になっています。
明朝体とかゴシック体のように見慣れた書体でないので、瞬間的に読めず、ブレーキが利くのでゴシック体など見慣れた字体のようについうっかり口に乗せなくてすみます。
日本人の場合は英米人とは違って、表記法がひらがな、カタカナ、ローマ字、漢字と4種類あるだけでなく、漢字にはオンと訓の2種類があるので、文字表記の方法は多彩です。
ストループ効果が顕著に現れるのは、文字表記の形態がなじみがあって意味が自動的に分かり、自動的に声になる場合なのだということなのです。
最近、ストループ効果を使ったテストのようなものを使って、何か脳のテストをしたり、脳の訓練をするような例があります。
基準がはっきりしないので、脳のどんな機能をテストするのかあいまいなのですが、漠然と速くできるのがよいと思って一所懸命やっている人々がいるようです。
このテストの成績が悪ければ前頭葉が機能不全だなどと脅されれば、不安になって練習したりするようになるのかもしれません。
心理学でカラー・ストループ効果というのがあります。
図の一番上の行の四角い部分の色を左から順に読み上げてください。
「赤、みどり、あお、あか、みどり、き」とスムーズに読み上げられたはずです。
ところが、二行目の文字の部分の色を読み上げようとすると、つっかえたり、間違えたり、あるいは読み上げ速度がゆっくりになったりします。
これは文字の色を読み上げようとしているのに、つい文字を読んでしまおうとするからです。
文字と文字の色が違っていると、お互いに干渉しあうため色だけ示された場合に比べ、スムーズに読み上げられないというものです。
松沢哲郎「進化の隣人ヒトとチンパンジー」によれば、チンパンジーにもストループ効果はあるそうです。
チンパンジーは声が出せないので、色を漢字と図形の二通りで覚えさせておき、黄色で書いた赤という漢字の色を図形で答えさせるというやり方です。
そうすると黒で赤と書いた漢字の色を答えるより、あるいは赤い札の色を答えるより時間がかかるのだそうです。
答えが遅れるのは文字の意味を知っているからで、意味の情報と色の情報が拮抗するからだとしています。
漢字を知らない幼児や、外国人であればスムーズに答えられるのに、日本人の大人がつかえたりするのは漢字の意味がわかるからだとしています。
文字の色を言うように指定されているにもかかわらず、つい文字を文字の意味のほうを言おうとしてしまうのは、文字を見ると自動的に読んでしまおうとするからです。
高齢者になるほどつかえたり、文字を読んでしまったりするのは、長い間文字を見れば読むという習慣が身にしみこんでいるためです。
街で看板を見ると高齢者ほど文字への注目率が高いというのも、文字を読むことに過剰適応しているためです。
文字を読むのでなく、文字の色を答えよとされても切り替えがうまくいかないのは、単に老化によって柔軟性が失われたというだけではないのです。
2行目の例では文字の線が細いので色に刺激が少ないので、文字の色に注意をひきつける力が少ないのですが、3行目のように文字の背景の色を答える課題にすれば、色の面積が大きくなるのでスムーズに答えやすくなります。
ストループ効果は文字の提示の仕方や、テストを受ける人の経験などによっても違うので、つかえたりすることがあるからといって脳の働きが悪いと単純に極めつけるのは間違いです。
図の一番上の行の四角い部分の色を左から順に読み上げてください。
「赤、みどり、あお、あか、みどり、き」とスムーズに読み上げられたはずです。
ところが、二行目の文字の部分の色を読み上げようとすると、つっかえたり、間違えたり、あるいは読み上げ速度がゆっくりになったりします。
これは文字の色を読み上げようとしているのに、つい文字を読んでしまおうとするからです。
文字と文字の色が違っていると、お互いに干渉しあうため色だけ示された場合に比べ、スムーズに読み上げられないというものです。
松沢哲郎「進化の隣人ヒトとチンパンジー」によれば、チンパンジーにもストループ効果はあるそうです。
チンパンジーは声が出せないので、色を漢字と図形の二通りで覚えさせておき、黄色で書いた赤という漢字の色を図形で答えさせるというやり方です。
そうすると黒で赤と書いた漢字の色を答えるより、あるいは赤い札の色を答えるより時間がかかるのだそうです。
答えが遅れるのは文字の意味を知っているからで、意味の情報と色の情報が拮抗するからだとしています。
漢字を知らない幼児や、外国人であればスムーズに答えられるのに、日本人の大人がつかえたりするのは漢字の意味がわかるからだとしています。
文字の色を言うように指定されているにもかかわらず、つい文字を文字の意味のほうを言おうとしてしまうのは、文字を見ると自動的に読んでしまおうとするからです。
高齢者になるほどつかえたり、文字を読んでしまったりするのは、長い間文字を見れば読むという習慣が身にしみこんでいるためです。
街で看板を見ると高齢者ほど文字への注目率が高いというのも、文字を読むことに過剰適応しているためです。
文字を読むのでなく、文字の色を答えよとされても切り替えがうまくいかないのは、単に老化によって柔軟性が失われたというだけではないのです。
2行目の例では文字の線が細いので色に刺激が少ないので、文字の色に注意をひきつける力が少ないのですが、3行目のように文字の背景の色を答える課題にすれば、色の面積が大きくなるのでスムーズに答えやすくなります。
ストループ効果は文字の提示の仕方や、テストを受ける人の経験などによっても違うので、つかえたりすることがあるからといって脳の働きが悪いと単純に極めつけるのは間違いです。
方言をできるだけ発音どおりに文字に写した場合は、その方言を知らない人には理解しにくくなります。
日本語の場合は表音文字として「かな」を、表意文字として漢字を使っているので、振り漢字をすればなんとか意味と音声を同時に伝えることができます。
図の例は昔の社会党委員長の佐々木更三氏の語りの一部ですが、かなだけでは音声で聞くより理解しにくくなっています。
上に振り漢字をすれば意味が分かり、発音イメージもわいてきます。
漢字に振り仮名という形にしても同じようですが、そうすると漢字に眼を奪われて発音イメージが後退してしまいます。
方言は、どの言語にもつきものなのですが、日本人が外国語を学習するときは教科書を通して学習する場合が多いのでほとんど意識しません。
中国語にしたところで日本よりはるかに広い国なので、当然方言があります。
大島正二「漢字と中国人」によれば、今から二千年も前に面接調査によって地方ごとの方言を記録が行われているそうです。
図はその一例で、「知」という言葉が、地方によって「党」とか「暁」とか「哲」といわれていたということです。
漢字どうしで発音と意味を説明するのはややこしいのですが、これは純然とした表音文字を別に持っていないためです。
英語の場合ももちろん方言があります。
図は西部の方言だそうですが、galを除けば辞書にはのっていません。
このように訛りを発音に忠実に文字化しようとすれば、意味がわかりにくくなりますが、正規の文字にすると訛りの発音はかくれてしまいます。
中国語や英語は、ルビを振るというような習慣がないので、方言を生かしていくという点では日本語のほうが便利に思えます。
日本語の場合は表音文字として「かな」を、表意文字として漢字を使っているので、振り漢字をすればなんとか意味と音声を同時に伝えることができます。
図の例は昔の社会党委員長の佐々木更三氏の語りの一部ですが、かなだけでは音声で聞くより理解しにくくなっています。
上に振り漢字をすれば意味が分かり、発音イメージもわいてきます。
漢字に振り仮名という形にしても同じようですが、そうすると漢字に眼を奪われて発音イメージが後退してしまいます。
方言は、どの言語にもつきものなのですが、日本人が外国語を学習するときは教科書を通して学習する場合が多いのでほとんど意識しません。
中国語にしたところで日本よりはるかに広い国なので、当然方言があります。
大島正二「漢字と中国人」によれば、今から二千年も前に面接調査によって地方ごとの方言を記録が行われているそうです。
図はその一例で、「知」という言葉が、地方によって「党」とか「暁」とか「哲」といわれていたということです。
漢字どうしで発音と意味を説明するのはややこしいのですが、これは純然とした表音文字を別に持っていないためです。
英語の場合ももちろん方言があります。
図は西部の方言だそうですが、galを除けば辞書にはのっていません。
このように訛りを発音に忠実に文字化しようとすれば、意味がわかりにくくなりますが、正規の文字にすると訛りの発音はかくれてしまいます。
中国語や英語は、ルビを振るというような習慣がないので、方言を生かしていくという点では日本語のほうが便利に思えます。
漢字の場合は同音でも偏などによって意味の違いを表すことができます。
測(はかる)と同音の側、則、厠、惻などは偏によって、どの意味かが中国人には分かるようになっています。
これに対し、日本語の測ると同音の意味を漢字に置き換えると、計、料、謀、量などがありますが、音読みではケイ、リョウ、ボウ、リョウなどで「はかる」いう読み方は示されていません。
計は「かぞえる」と読んでもよく、料は「えさ」とか「だいきん(代金)」などと読んでもよい。
漢字の訓読みは翻訳なので、読み方をひとつに限定できません。
ひとつの漢字がいくつかの意味を持っていれば訳語もいくつかあり、さらに訳語であれば表現法がいくつかありうるということになります。
漢字の造字法は形声文字が多く、音を示して同音の字があれば偏などを加えて区別しています。
日本流に造字をするならばカタカナで音を示し、偏を加えて意味の違いを示せば、読みと意味とを同時に示すことができます。
測は水の深さをハカり、計は数をハカり、料はマスでハカリ、謀はさぐりハカリ、量は重さをハカるといった具合で意味を区別する漢字の偏とカナを組み合わせて作ることができます。
もちろんこういう文字を造っても対応する漢字をなくすわけにはいかないので、文字が増えてしまうことになります。
代わりに、振り仮名を振って読みを示す方法が生まれたのですが、漢字が主役になっているので、日本語を漢字に置き換えたというより、漢字に日本語の訳語を当てたような形になっています。
その結果、漢字にいろんな読み方があるというふうな意識ができて、日本語の意味を漢字を使って表現するということが忘れられる危険性があります。
測(はかる)と同音の側、則、厠、惻などは偏によって、どの意味かが中国人には分かるようになっています。
これに対し、日本語の測ると同音の意味を漢字に置き換えると、計、料、謀、量などがありますが、音読みではケイ、リョウ、ボウ、リョウなどで「はかる」いう読み方は示されていません。
計は「かぞえる」と読んでもよく、料は「えさ」とか「だいきん(代金)」などと読んでもよい。
漢字の訓読みは翻訳なので、読み方をひとつに限定できません。
ひとつの漢字がいくつかの意味を持っていれば訳語もいくつかあり、さらに訳語であれば表現法がいくつかありうるということになります。
漢字の造字法は形声文字が多く、音を示して同音の字があれば偏などを加えて区別しています。
日本流に造字をするならばカタカナで音を示し、偏を加えて意味の違いを示せば、読みと意味とを同時に示すことができます。
測は水の深さをハカり、計は数をハカり、料はマスでハカリ、謀はさぐりハカリ、量は重さをハカるといった具合で意味を区別する漢字の偏とカナを組み合わせて作ることができます。
もちろんこういう文字を造っても対応する漢字をなくすわけにはいかないので、文字が増えてしまうことになります。
代わりに、振り仮名を振って読みを示す方法が生まれたのですが、漢字が主役になっているので、日本語を漢字に置き換えたというより、漢字に日本語の訳語を当てたような形になっています。
その結果、漢字にいろんな読み方があるというふうな意識ができて、日本語の意味を漢字を使って表現するということが忘れられる危険性があります。
杉本つとむ「読む日本漢字百科」によると、漢字は非科学的な文字だということです。
たとえば鯨はオスのクジラで雌のクジラは「ゲイ」、虹もオスのニジで、雌のニジは「ゲイ」というそうです。
字を見ても雄と雌の関係がうかがわれるわけではなく、呼び名では雌のクジラも、雌のニジも同じ呼び名になっています。
クジラは魚ではないので、鯨の文字の意味と鯨の表す意味は区別して覚えなければならないし、虹もへびに見立てたから虫偏になっているとかで、文字が現代の知識と離れてしまっています。
日本語ならメクジラとかオクジラといった呼び方で、雌、雄の分類が呼び名に反映するのに漢字の場合は反映されないとしています。
「なく」ということばでも「泣、鳴、啼、哭、呱」とかいろいろあって、「なく」という生理現象として共通の要素を表現する字がないといっています。
動物などで雄雌が分類を表現しないのは英語などでも同じで(たとえば雄牛はOX,雌牛はCOWなど)、特に漢字が非科学的ということではないと思います。
「なく」にしてもCRY,WEEP,SOBなどや動物のSING,CHIRP,CHUTTER,ETCとたくさんあっても共通の要素を表現する語がないのも漢字と同じです。
英語が科学的だというわけではありませんが、漢字が特に非科学的ということではないと思います。
自然言語の場合は学術用語のように論理的、体系的でないのは普通のことです。
したがって漢字が非科学的であるのも当然のことです
漢字はかたちを見ただけでは意味が分からないのも、自然言語である音声言語が土台になっているからです。
洋とか横とかいう文字をみて意味が分かるということはないでしょう。
サンズイに羊と日本人が考えるといみはさっぱり分かりません。
中国人は羊は「ヨウ」という音をとらえて「うみ」だとわかるのです。
紅、江、虹の「工」は音を表すだけで意味はありません。
「工」を「たくみ」とか、「わざ」とかいった意味と結びつけてイメージするととんでもない誤解となってしまいます。
糸偏とかサンズイとか虫偏に注目しても、それだけでは漠然としているので、文字の形から意味が特定されるわけではありません。
中国人は音で、意味の候補が分かり、偏をみて意味が特定できます。
日本人の場合は、意味の手がかりは偏だけなので、一つ一つの漢字について意味を辞書で学ばなければならないのです。
たとえば鯨はオスのクジラで雌のクジラは「ゲイ」、虹もオスのニジで、雌のニジは「ゲイ」というそうです。
字を見ても雄と雌の関係がうかがわれるわけではなく、呼び名では雌のクジラも、雌のニジも同じ呼び名になっています。
クジラは魚ではないので、鯨の文字の意味と鯨の表す意味は区別して覚えなければならないし、虹もへびに見立てたから虫偏になっているとかで、文字が現代の知識と離れてしまっています。
日本語ならメクジラとかオクジラといった呼び方で、雌、雄の分類が呼び名に反映するのに漢字の場合は反映されないとしています。
「なく」ということばでも「泣、鳴、啼、哭、呱」とかいろいろあって、「なく」という生理現象として共通の要素を表現する字がないといっています。
動物などで雄雌が分類を表現しないのは英語などでも同じで(たとえば雄牛はOX,雌牛はCOWなど)、特に漢字が非科学的ということではないと思います。
「なく」にしてもCRY,WEEP,SOBなどや動物のSING,CHIRP,CHUTTER,ETCとたくさんあっても共通の要素を表現する語がないのも漢字と同じです。
英語が科学的だというわけではありませんが、漢字が特に非科学的ということではないと思います。
自然言語の場合は学術用語のように論理的、体系的でないのは普通のことです。
したがって漢字が非科学的であるのも当然のことです
漢字はかたちを見ただけでは意味が分からないのも、自然言語である音声言語が土台になっているからです。
洋とか横とかいう文字をみて意味が分かるということはないでしょう。
サンズイに羊と日本人が考えるといみはさっぱり分かりません。
中国人は羊は「ヨウ」という音をとらえて「うみ」だとわかるのです。
紅、江、虹の「工」は音を表すだけで意味はありません。
「工」を「たくみ」とか、「わざ」とかいった意味と結びつけてイメージするととんでもない誤解となってしまいます。
糸偏とかサンズイとか虫偏に注目しても、それだけでは漠然としているので、文字の形から意味が特定されるわけではありません。
中国人は音で、意味の候補が分かり、偏をみて意味が特定できます。
日本人の場合は、意味の手がかりは偏だけなので、一つ一つの漢字について意味を辞書で学ばなければならないのです。
笹原宏之「漢字の話」(岩波新書)によれば、最近、人名には、「意味以前のイメージを重視した感覚的な漢字使用」が目立つといいます。
人偏に愛というじは「ほのか」と読めるそうですが、意味としては「ほのかにしかみえない」とか「ぼんやりとしか見えない」という意味でどちらかといえば否定的な意味だそうです。
これを子どもの名前に使おうとした人は、人を愛するとか、人に愛されるといったイメージで選んだものと思われますが、元の漢字では愛の部分は音が曖昧の愛と通じていて意味もほぼ同じであるそうです。
春に心とあれば、温かい心のようなイメージを持つのかもしれませんが、この字の意味は「おろか」ということだそうです。
月に光とか月に星などあれば、ロマンチックな感じを持つかもしれませんが、偏の月は天体の月ではなく、肉で、意味は「膀胱」、「なまぐさい」ということでかけ離れたイメージです。
音読みすれば「こう」と「せい」あるいは「しょう」で、中国人なら音声で意味を感じるのに、日本人は視覚イメージから意味を感じてしまうのです。
漢字は形成文字が圧倒的に多いといいます。
文字の音さえ分かれば中国人には大体意味が分かるので、同音の文字を区別する偏があればより分かりやすいということです。
日本語がかなで書かれていれば大体意味が分かり、同音の単語がどんな種類の単語か分かれば区別がつく(たとえば、きの「かき」とかいの「かき」)ようなものです。
音声言葉に合わせて造語するので、音が中心となっています。
日本人が新しく漢字を作るときはどうしても会意文字が中心で文字の組み合わせで意味を表現しようとします。
造られた漢字はどうしても造った人の感性によっているため、誤解される可能性はたぶんにあります。
人偏に夢で「はかない」としていますが、若い人が文字を造っていれば「のぞみ」と読ませようとしたかもしれません。
躾けも「しつけ」でなく「エステ」となるかもしれません。
魚偏に春は日本では春にとれるから「さわら」ですが、中国名は「馬鮫魚」というそうです。
魚偏に秋は日本では「いなだ」のことだそうですが、中国では「どじょう」つまり鰌のことで「秋」「酋」は同じ音で「しゅう」だからです。
つまりイメージより音が優先しています。
日本人は表音文字の「かな」を持っているのでどうしても漢字をイメージで考える傾向が昔からあったようです。
漢字の正確な知識が乏しければますますイメージ優先になってとんでもない誤解を生むのかもしれません。
人偏に愛というじは「ほのか」と読めるそうですが、意味としては「ほのかにしかみえない」とか「ぼんやりとしか見えない」という意味でどちらかといえば否定的な意味だそうです。
これを子どもの名前に使おうとした人は、人を愛するとか、人に愛されるといったイメージで選んだものと思われますが、元の漢字では愛の部分は音が曖昧の愛と通じていて意味もほぼ同じであるそうです。
春に心とあれば、温かい心のようなイメージを持つのかもしれませんが、この字の意味は「おろか」ということだそうです。
月に光とか月に星などあれば、ロマンチックな感じを持つかもしれませんが、偏の月は天体の月ではなく、肉で、意味は「膀胱」、「なまぐさい」ということでかけ離れたイメージです。
音読みすれば「こう」と「せい」あるいは「しょう」で、中国人なら音声で意味を感じるのに、日本人は視覚イメージから意味を感じてしまうのです。
漢字は形成文字が圧倒的に多いといいます。
文字の音さえ分かれば中国人には大体意味が分かるので、同音の文字を区別する偏があればより分かりやすいということです。
日本語がかなで書かれていれば大体意味が分かり、同音の単語がどんな種類の単語か分かれば区別がつく(たとえば、きの「かき」とかいの「かき」)ようなものです。
音声言葉に合わせて造語するので、音が中心となっています。
日本人が新しく漢字を作るときはどうしても会意文字が中心で文字の組み合わせで意味を表現しようとします。
造られた漢字はどうしても造った人の感性によっているため、誤解される可能性はたぶんにあります。
人偏に夢で「はかない」としていますが、若い人が文字を造っていれば「のぞみ」と読ませようとしたかもしれません。
躾けも「しつけ」でなく「エステ」となるかもしれません。
魚偏に春は日本では春にとれるから「さわら」ですが、中国名は「馬鮫魚」というそうです。
魚偏に秋は日本では「いなだ」のことだそうですが、中国では「どじょう」つまり鰌のことで「秋」「酋」は同じ音で「しゅう」だからです。
つまりイメージより音が優先しています。
日本人は表音文字の「かな」を持っているのでどうしても漢字をイメージで考える傾向が昔からあったようです。
漢字の正確な知識が乏しければますますイメージ優先になってとんでもない誤解を生むのかもしれません。
漢字は表意文字として意識されるため、必要に応じて新しく作られることがあります。
言葉は社会の変化によって新しい言葉ができますが、表音文字であれば新しい組み合わせで表現するのに、表意文字の場合は新しい文字を造ろうとする場合があります。
国字というのは、中国にはなかった漢字を、日本で独自に作ったものです。
1行目は日本で造られた漢字のうち広く定着したものです。
畑とか働などは国産であることに気がつかないかもしれません。
2行目は過去に造られた国字ですが、定着しなかったため、使われていないものです。
人偏に小と書いたものは「わらわ」つまり幼児のいみで、人偏に常は「なりわい」、人偏に車は「人力車」の意味で「くるま」、人偏に鳥は「ひこうき」ということだそうです。
人力車は明治期などの小説には使われていましたが、人力車そのものが姿を消すにつれて使われなくなっています。
国産の造字は会意文字が多いようで、偏や旁などを連想によって組み合わせるもので、造る人の感覚によっていろんなものができます。
造るのは勝手ですが、それが社会的に認められて定着すればホンモノらしくなってきます。
3行目のごんべんにギと書くものは「議」、木偏にキは「機」ですが、これは略字で慣用的に使われているのですが、略字のイメージが強いためか正式には認められそうにありません。
病だれに仮として「仮病」とか、車偏に自と書いて「自転車」といった具合に謎がけのような文字を造ることもできるのです。
過去には造字はいろんな人によってたくさん造られています。
大体文字を使う人が増えたときに、文字はいろんな解釈をされ、変形したり新しく作られたりするようです。
現代は識字率が過去の時代に比べれば圧倒的に高いので、造字が盛んに行われても不思議がないのですが、ワープロなどの普及で、文字を書かなくなってきているので、造字は少ないようです。
その代わり文字の解釈や使い方が変わったり、間違ったりするので言葉の混乱などが問題視されるのでしょう。
言葉は社会の変化によって新しい言葉ができますが、表音文字であれば新しい組み合わせで表現するのに、表意文字の場合は新しい文字を造ろうとする場合があります。
国字というのは、中国にはなかった漢字を、日本で独自に作ったものです。
1行目は日本で造られた漢字のうち広く定着したものです。
畑とか働などは国産であることに気がつかないかもしれません。
2行目は過去に造られた国字ですが、定着しなかったため、使われていないものです。
人偏に小と書いたものは「わらわ」つまり幼児のいみで、人偏に常は「なりわい」、人偏に車は「人力車」の意味で「くるま」、人偏に鳥は「ひこうき」ということだそうです。
人力車は明治期などの小説には使われていましたが、人力車そのものが姿を消すにつれて使われなくなっています。
国産の造字は会意文字が多いようで、偏や旁などを連想によって組み合わせるもので、造る人の感覚によっていろんなものができます。
造るのは勝手ですが、それが社会的に認められて定着すればホンモノらしくなってきます。
3行目のごんべんにギと書くものは「議」、木偏にキは「機」ですが、これは略字で慣用的に使われているのですが、略字のイメージが強いためか正式には認められそうにありません。
病だれに仮として「仮病」とか、車偏に自と書いて「自転車」といった具合に謎がけのような文字を造ることもできるのです。
過去には造字はいろんな人によってたくさん造られています。
大体文字を使う人が増えたときに、文字はいろんな解釈をされ、変形したり新しく作られたりするようです。
現代は識字率が過去の時代に比べれば圧倒的に高いので、造字が盛んに行われても不思議がないのですが、ワープロなどの普及で、文字を書かなくなってきているので、造字は少ないようです。
その代わり文字の解釈や使い方が変わったり、間違ったりするので言葉の混乱などが問題視されるのでしょう。
漢字は表意文字として意識されるため、必要に応じて新しく作られることがあります。
言葉は社会の変化によって新しい言葉ができますが、表音文字であれば新しい組み合わせで表現するのに、表意文字の場合は新しい文字を造ろうとする場合があります。
国字というのは、中国にはなかった漢字を、日本で独自に作ったものです。
1行目は日本で造られた漢字のうち広く定着したものです。
畑とか働などは国産であることに気がつかないかもしれません。
2行目は過去に造られた国字ですが、定着しなかったため、使われていないものです。
人偏に小と書いたものは「わらわ」つまり幼児のいみで、人偏に常は「なりわい」、人偏に車は「人力車」の意味で「くるま」、人偏に鳥は「ひこうき」ということだそうです。
人力車は明治期などの小説には使われていましたが、人力車そのものが姿を消すにつれて使われなくなっています。
国産の造字は会意文字が多いようで、偏や旁などを連想によって組み合わせるもので、造る人の感覚によっていろんなものができます。
造るのは勝手ですが、それが社会的に認められて定着すればホンモノらしくなってきます。
3行目のごんべんにギと書くものは「議」、木偏にキは「機」ですが、これは略字で慣用的に使われているのですが、略字のイメージが強いためか正式には認められそうにありません。
病だれに仮として「仮病」とか、車偏に自と書いて「自転車」といった具合に謎がけのような文字を造ることもできるのです。
過去には造字はいろんな人によってたくさん造られています。
大体文字を使う人が増えたときに、文字はいろんな解釈をされ、変形したり新しく作られたりするようです。
現代は識字率が過去の時代に比べれば圧倒的に高いので、造字が盛んに行われても不思議がないのですが、ワープロなどの普及で、文字を書かなくなってきているので、造字は少ないようです。
その代わり文字の解釈や使い方が変わったり、間違ったりするので言葉の混乱などが問題視されるのでしょう。
言葉は社会の変化によって新しい言葉ができますが、表音文字であれば新しい組み合わせで表現するのに、表意文字の場合は新しい文字を造ろうとする場合があります。
国字というのは、中国にはなかった漢字を、日本で独自に作ったものです。
1行目は日本で造られた漢字のうち広く定着したものです。
畑とか働などは国産であることに気がつかないかもしれません。
2行目は過去に造られた国字ですが、定着しなかったため、使われていないものです。
人偏に小と書いたものは「わらわ」つまり幼児のいみで、人偏に常は「なりわい」、人偏に車は「人力車」の意味で「くるま」、人偏に鳥は「ひこうき」ということだそうです。
人力車は明治期などの小説には使われていましたが、人力車そのものが姿を消すにつれて使われなくなっています。
国産の造字は会意文字が多いようで、偏や旁などを連想によって組み合わせるもので、造る人の感覚によっていろんなものができます。
造るのは勝手ですが、それが社会的に認められて定着すればホンモノらしくなってきます。
3行目のごんべんにギと書くものは「議」、木偏にキは「機」ですが、これは略字で慣用的に使われているのですが、略字のイメージが強いためか正式には認められそうにありません。
病だれに仮として「仮病」とか、車偏に自と書いて「自転車」といった具合に謎がけのような文字を造ることもできるのです。
過去には造字はいろんな人によってたくさん造られています。
大体文字を使う人が増えたときに、文字はいろんな解釈をされ、変形したり新しく作られたりするようです。
現代は識字率が過去の時代に比べれば圧倒的に高いので、造字が盛んに行われても不思議がないのですが、ワープロなどの普及で、文字を書かなくなってきているので、造字は少ないようです。
その代わり文字の解釈や使い方が変わったり、間違ったりするので言葉の混乱などが問題視されるのでしょう。