考えるための道具箱

Thinking tool box

村上春樹のスタンス。(2)

2004-11-13 16:39:19 | ◎読
自分を守るための外部・他人との本質的なかかわりはもたず、唯一、記号化されたモノとスタイルだけでのみつながる。いうまでもなく、これは「オタク的な」態度である。「オタクの」といってしまうと、特定の人物像がイメージされてしまう可能性が高いため、あえて「オタク的な」という言い方を使っているが、実のところ、この「オタク的な」性向は、(空虚な時代を過ごさざるをえなかった者であれば)多かれ少なかれ、誰もがもっているもので、たまたま、社会事象としてエキセントリックなオタクが目立ったためやり過ごされているにすぎない(※1)。

中期までの村上春樹の作中人物が、読者に「これは自分に似ている」「自分の感覚に似ている」と共感されるのは、このことに起因しているのではないだろうか。
朝日新聞で加藤典洋氏は、村上春樹がオタクを先見した旨を語っているが、なにも社会の予言者であったわけではなく、彼自身、そしてだれもがもつオタク的な側面の、静的な部分をただ表現にしたにすぎない。

話を戻そう。ここでわたしがデタッチメントの定義として言いたかったのは、なにも「モノとスタイルを通じてしか外部・他人とつながれない」ことではなく、「自分の考えを深めていき、まとまってからでなければ発信しないという態度」だ。このことは、じつは、『風の歌を聴け』の冒頭で端的にあらわれている。

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」
僕が大学生のころ偶然に知り合ったある作家は僕に向かってそう言った。僕がその本当の意味を理解できたのはずっと後のことだったが、少なくともそれをある種の慰めとしてとることも可能であった。完璧な文章なんて存在しない、と。
しかし、それでもやはり何かを書くという段になると、いつも絶望的な気分に襲われるkとになった。僕には書くことのできる領域はあまりにも限られたものだったからだ。たとえば象について何かが書けたとしても、象使いには何も書けないかもしれない。そういうことだ。
8年間、僕はそうしたジレンマを抱き続けた。---8年間。長い歳月だ。
もちろん、あらゆるものから何かを学び取ろうとする姿勢を持ち続ける限り、年老いることはそれほどの苦痛ではない。これは一般論だ。
20歳を少し過ぎたばかりの頃からずっと、僕はそういった生き方を取ろうと努めてきた。おかげで、他人から何度となく手痛い打撃を受け、欺かれ、誤解され、また同時に多くの不思議な体験もした。様々な人間がやってきて、僕に語りかけ、まるで橋をわたるように音を立てて僕の上を通り過ぎ、そして2度と戻ってはこなかった。僕はその間じっと口を閉ざし、何も語らなかった。そんな風にして僕は20代最後の年を迎えた。

今、僕は語ろうと思う。
もちろん問題は何ひとつ解決してはいないし、語り終えた時点でもあるいは事態は全く同じということになるかもしれない。結局のところ、文章を書くとことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎないからだ。
しかし、正直に語ることはひどくむずかしい。僕が正直になろうとすればするほど、正確な言葉は闇の奥深くへと沈みこんでいく。(P7-8、講談社文庫6刷)
もはやそうとう有名になってしまった書き出しではあるが、どう考えてもこれはエクスキューズである。他人に対して伝えることのできる意見をまとめるまでかなりの時間がかかってしまった。おおむねまとまったが、それはきっとまだまだ完全ではないだろう。でもまあ、誰かに伝えたときに攻められるような綻びは簡単にはみつからない程度にはなっている。「完璧な文章」はいくら時間をかけったってできるわけではない、といった啓示もあったので、まあもうそろそろ話はじめてもいいだろう、ということだ。彼自身の有名なエピソード---神宮球場でのヤクルト戦の最中に突然「書ける」と感じ、その夜、経営しているジャズバーのカウンターで一気に書き上げた---も、裏を返せば、じつはそれまで完全にまとめるため書き倦ねていたことを露呈しているのではないだろうか。

デタッチメントの態度を源泉とする作品は、デビュー作の後も、自分の立場を強く維持するために継続される。ときには明示的に「悪」を懐柔していくための方法論としても語られる。

しかし、震災やオウムといった予想もできない悪のたくらみが顕在したとき、「自分自身の確固とした意志だけで考え方を固めること」が「強さ」ではなく、逆に、外部のより強大な考え方に対して、いとも脆く翻されてしまう「弱さ」であることが、露呈してしまう。とりわけオウム真理教について、「なぜあれほどの人が」とも言われるような、頭脳明晰で優秀な信者を取り込めたことに深くつながる。

これを機として、彼は「自分の考えを深めてはいくが、まとまっていないくても、とりあえず外に投げかけてみるという態度」への意志を持ち始める。コミットメントで受けるフィードバックこそが、悪への強い耐力を形づくっていく、という意志だ。

『ねじまき鳥クロニクル』以降、彼の紡ぐ物語が、一般読者にとっては「わかりにくい」と呼ばれだし、一部の批評家からは「謎を投げかけておきながらほとんど答えていない」「開きっぱなし」と酷評されはじめたのは、「自分でもよくわかっていないが、とりあえず書いてみたら何か答えが出るかもしれない、投げかけてみることでなにかフィードバックがあるかもしれない」というスタンスに変わったから、と言えないだろうか。つまり、あえて「開いた物語」を投棄してみた、ということだ。

したがって、『ねじまき鳥クロニクル』以降の物語は、すべて、外界の出来事や他人と深くかかわり、これを媒介とすることで、自分を含めた世界はどう変わっていくのか、ということを思索する試作となっている。これが、森達也氏の言うところの「『分からない』ことを『分かったふりしない』誠実さ」であり「自分自身の未成熟を認めつつ、簡単には答えを出せない問題を論じ」ているということだ。

完全な物語が用意されているわけではないため、これに対峙する読者は、深く考えをめぐらせねばならない。めぐらせたとしても、正解はチェックできない。それゆえ、なにか手ごたえのなさを感じざるをえない。
文章の巧みさから生まれる読みやすさにより、引き続き多くの読者をとらえて放さない一方で、ごく一般的な読者の「期待はずれ」という声が増えだしているのは、こういうことだろう。くだらないことであってもなんらかの回答が得られることが期待されたり、たとえウソっぽくても感動がないと損した気分になってしまう時代のなかで、村上春樹は、ムズカシイ作家になっていく。
読者を立ち止まらせ、外部・他人とのコミットメントで世界が変わるその変わり方を、作家と同期しながら考え倦ねさせてしまう物語。しかし、これこそが本来的な文学の姿でもある。

このことを如実にあらわしたのが『アフターダーク』である。それほど長くない物語に(枚数的にも、一晩という時間設定的においても)、たくさんの人物が登場しているし、彼らがなんらかの形でコミットメントしていくことで変容していくありさまが語られている。顕著に答えの出ている変容もあるが、変容の最終解がでていないものもある。そればかりか、漫才の掛け合いで、フィードバックされ続ける言葉がどのように変わっているのかを試行しているイベントすら唐突に挿入されたりする。一方でコミットメントしない/受け入れないことの脆さも描かれている。
一夜明けたときに変わる世界はどのようなものか、一度みてみようという試行だ。

この物語を見る目は、したがって、神の目ではなく、あくまでも村上春樹の目である。媒介によりどのように人と世界が変わっていくのかを見届けようとする彼の目であり、これは、じつは大江健三郎の小説への構えとかなり接近していきているともいえる。いわゆる「みっちり」しんどい(※2)作業であり、職業作家としての大いなる志だ。

『アフターダーク』は、ある種の中途半端さから、例によって、なにか別の大きな物語の予兆ではないか、と語られがちだが、おそらくそういったことはなく、この物語を閉じるのは、コミットメントできた読者の役目なのだ。



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(※1)わたしが考える「オタク的な」精神/態度について、書き出すとかなり脱線してしまうので、別の機会にでもまとめてみる。まあ、これについても、散々語り尽くされているわけで、きっとあまりたいした意見にはならないことが予想されるが。

(※2)しんどい作業のフィードバックのために『少年カフカ』があったり、ガス抜きのために『東京するめクラブ』あるということか。後者は、まだ読んでいませんが、わたしのガス抜きになるのでしょうか。


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