考えるための道具箱

Thinking tool box

アメリカ文学を読みほどく。

2005-03-20 03:15:17 | ◎読
あぶない、あぶない。買ってたのを忘れるところだった。池澤夏樹の『世界文学を読みほどく』。すでに、書棚の下のほうに堆積しはじめていたところ、無事に救出できました。
しかし、池澤夏樹という人は、やはりブックガイドをやらせたらピカ一だね。本書は、2003年に京大文学部で行われた夏期講義をまとめただけあって、語り口が異様なまでに易しいのだけれども、それ以上にわかりやすいのは、とりわけ、いくつかとりあげられているアメリカ文学の読解を現在のアクチュアルなアメリカのグローバリズムや消費主義の解釈とうまくつなげているところだ。現代アメリカの病巣を抉るアメリカ文学のありようについては、いま池澤がとりたてて語るほどのこともないのだが、2003年現在の事情に照らし合わせた因果の読みほどきかたは、少しは新しいのかもしれない。

たとえば、ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』における陰謀史観とパラノイアを現在のアメリカにトレースしてみる。

『今のアメリカにはさまざまな形でパラノイアがある。一番わかりすい例を最初に言ってしまうと「イラクには大量破壊兵器があって、イラクはそれを以ってアメリカ本土を攻撃しようとしている」。少しアメリカ社会を知っている人間にとって、これは典型的なパラノイアです。事実は「そんなことはあるはずがない。イラクにはもうそんな力はない。彼らにはそんな意図はない」ということを示していたのに、このパラノイアに乗って実際に戦争が始まってしまう。不思議な社会だと思います』

『アメリカの中でさまざまな事件やテロ事件が起こった場合、それが自称テロリストの個人的で勝手なふるまいなのか、それとも全ての糸を引いて暗躍する「アルカイダ」が存在するのかという疑問が、まず浮かぶ。そしてそれは、往々にして「アルカイダ」の方に結びつけられる、すなわち「陰謀」という結論に落ち着くことが多い。
パラノイアの問題がいかにアメリカにとって大きいかわかりますね。他の国では、ここまでみんなが疑心暗鬼にはなっていない。ここまで力ある何かが陰で糸を引いてはいない。
現代社会をこういう形で解釈しようとする。あるいは表明しようとする。これがトマス・ピンチョンという男の仕事全部を貫くスタイルであり、彼のテーマなのです。』


このあたりは、ピンチョンをもとにアメリカという国を解読するというよりは、ピンチョンをわかりやすく読むために、アメリカを引き合いにだす、といったほうがいいかもしれない。しかし考えてみれば、アメリカは『競売ナンバー49の叫び』で語られれいるような裏表のあるような国家に変わってきたような気もするし、そういった変容の証左として『キャッチ=22』的パラノイアが、実際の戦争という形で実現する世界になったというのは、まあ恐ろしい話ではなある。

また、フォークナーの『アブサロム、アブサロム!』では、アメリカという国家、アメリカ人には、抱えている深い、暗い、危ない部分があり、それは、たとえば南北戦争に負けた「南部」に起因するところがあるとしつつ、

『歴史が短いから過去の事例に縛られない。だからどこかで歯止めの利かないところがある。つまりトマス・サトペンのような人物を生み出しかねない。あるいはトマス・サトペンのような政府を生み出しかねない。そのあたりを前提とした上で、アメリカという国を、世界の中で相対的に見ることが大事だと思います』

『……今ある倫理の基準で過去を裁いてはいけないのもしれないけれど、しかし、かつて(先住民から土地を)奪ったということ、それから黒人をアフリカから連れてきて束縛した上で、強制労働をさせた、それによって富を作った、ということは、アメリカ人の心のどこかでずっと、一種の重い罪の意識のような形でずしんと残ってきたのではないだろうか。それが今アメリカ人全体に影を落としているのではないか、という気がします。』


と、ある意味で穿ったともいえる見方をしている。ここに正確なロジックがあるかどうかは別として、現代において避けて通ることのできない、いきなり強大になってしまった国家を見極める目をやしなうために、近現代に書かれたアメリカ文学を読みほどくという行為は重要なのかもしれない、とは思わせる。ぼく自身は、アメリカ文学が好きなので、さまざまな作品と作家に触れてきたとはいえ、これまではポリティカルな読み方はしてこなかった。「奇妙な個人の物語」こそが、アメリカ文学の愉しみだと考えていたからだし、なにより他国の政治的な問題、社会的な問題について考える時間的な余裕もなかった。

しかし、考えてみれば、デリーロやオブライエンはもとよりヴォネガットでさえも、個人と国家の関係性について語っているわけで、この歴史の浅い国が急激に成長していく過程においてうまれた心と体の成長ギャップという視点を投入することで、読み方が大きく拡がる可能性もある。現に、池澤の紹介により、『競売ナンバー49の叫び』と『アブサロム、アブサロム!』が再読したくなってきてもいる。

また、そういった意味では、これらにドライザーやドス・パソス、ケン・キージーなども加えなければならないのだろうが、これら作家の作品はいま日本では正常なルートではほとんど読めなくなってきている。まあ、研究者ではないので、やっきになることはないのだけれど、チラッとは見てみたいところだね。

あ、アメリカ文学のことばかりに触れてきたけれど、『世界文学を読みほどく』では、それはあくまでも一部で、紹介されたその他8作は、『パルムの僧院』(スタンダール)、『アンナ・カレーニナ』(トルストイ)、『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー)、『白鯨』(メルヴィル)、『ユリシーズ』(ジョイス)、『魔の山』(マン)、『ハックルベリ・フィンの冒険』(トウェイン)、『百年の孤独』(マルケス)と、アジア以外の国家バランスはとれている。いずれも、稀代の読み手の紹介だけあって、初読み、再読をそそる。
こんな読みの精度がここまであがったんだからきっと、自作の『静かな大地』もよく書けているに違いない、と思えないのが、彼の問題ではあるのだが。いや『マシアス・ギリの失脚』はよかったんだけどね。


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