人間は、人間を食べないから人間なんだ。
人間は、体毛に意味がないから人間なんだ。
人間は、お行儀がいいから人間なんだ。
人間は、書をやるから人間なんだ。
人間は、できごとを文化に昇華させるから人間なんだ。
人間は、匂わなく小奇麗にしているから人間なんだ。
人間は、学校に行くから人間なんだ。
人間は、名前があるから人間なんだ。
人間は、痛いと言うから人間なんだ。
人間は、ロジカルな恐怖に慄くから人間なんだ。
そうか?ほんとに。
獣は、森を識る。人間は知らない。
獣は、刹那的に行動する。人間はしない。
獣は、本能的に行動する。人間はしない。
獣は、殺めることに感情をもたない。人間はもつ。
獣は、自然の音を聞きわけられる。人間は聞き取れない。
獣は、暗がりでも走れる。人間はできない。
獣は、センシティブな恐怖に慄く。人間にはわからない。
獣は、盲信する。人間は全部丸呑みにしない。
そうか?ほんとに。
人間は獣ではないのか?
じつは、獣のほうが人間らしいんじゃないのか?
こんな分類が正しいかどうかは別として、舞城王太郎は『山ん中の獅見朋成雄』(講談社)を描くときに、表頭に「人間」「獣」と書いた対照表をつかって、人間と獣の本質を腑分けしようとしたかもしれない。
僕の首の後ろにも、他人よりもちょっと濃いめの産毛が生まれたときから生えていて、これが物心ついたころから僕の抱えた爆弾だったのだけれど、十三歳になってすぐのある晩、自分の鎖骨をこすっていて、そこにいつもとは違う感触を感じてうつむいて、首元に赤くて長くてコリコリと固い明らかな鬣の発芽を確かめたとき、それまでは祖父と父と同じように背中に負ぶっているつもりだった爆弾が、気づけば僕だけ胸の上にも置かれていたと知ってショックで、その上さらにその導火線にとうとう火が点けられたのを実感して、僕は絶望した。(帯にかかれた本文の抜粋より)
物語の前半、背中の鬣が遺伝として当たりまえのものとしてあるという充足のために自分の中の獣性を意識しなかった「獅見朋成雄」は、後半、喪失ゆえに鬣を意識することで、逆に無意識のうちに獣性を目覚めさせた「成雄」に変わる。
もし、この物語をわかりやすくしようと思えば(1)鬣が生えてきたから獣性が芽生えた とか (2)獣性の目覚めを顕著に意識するようになる といった構造になるのだろうが、そうはならないところが舞城の巧みな物語設計だ。つまり、獣性なんてのは誰でも持っているもので、意識のなかで急激に覚醒したりするものではない、ということを示すのに最適な方法をとったということだ。
そしてこのことは裏を返せば、人間性なんてものも簡単に損なわれてしまうんだよ、ということになる。これが、人間のもつ根源的な怖さである。人間の狂気により導き出される突然の暴力の怖さである。恐怖の極致はここにある。
実態をみようとせず術なく恐れ慄いているだけでは、恐怖は克服されることはない。恐怖とはいったいなんなのか?どのような状況下において突然の暴力は起こりえるのか。
舞城王太郎が一貫して描き続けているのは、まず恐怖/暴力というものの構造を識るための、さまざまな角度からの可視化であり、さまざまな条件下におけるシミュレーションである、といえるだろう。
彼は、ただ臆病で心配性(※1)なだけなのか?それとも、自分のなかのバイオレンス(※2)と格闘しているのか?人間存在のなにかを神経症的に疑っているのか?
と、分析的かつ断定的に書いてしまいましたが、じつはなにも深くは考えず、遅ればせながらの『山ん中の獅見朋成雄』の読後直後の「あいかわらずおもろいやん」という勢いだけで書いています。このわかりやすさの背後になんか落とし穴もありそうだけれど。ダイナミックに採用される説話のバリエーションは豊かだし、こんなに無茶している獅見朋成雄をいい奴として書いてしまえる人間への信頼には、読んでいて気持ちのいい爽やかさがあるし。早めに例の賞をあげておいたほうがいいんじゃないでしょうか。
いずれにしても、なにかと話題になる2作(『好き好き大好き超愛してる。』、『みんな元気。』)を、しっかり読んでから偉そうなことを書くようにします。
------------------------
(※1)リンクは本論とは関係ありません。マイナスターズのデビューアルバム『ネガティブハート』のサイトです。『心配性』だけのつながりですね。すみません。はやくレンタル開始しないかな。まあ、『さまぁ~ずの悲しいダジャレ』も『さまぁ~ずの悲しい俳句』も迷いなく買うくらいだから、買ってもいいんだけどね。
(※2)舞城のあっけらかんとした暴力性を表現した自筆によるコマ漫画が新潮社のWEBサイトで、『みんな元気。』のプロモーションとして公開されています。しかし、彼の画の巧さの基盤となっている3D看破能力は凄いね。
------------------------
↓ちなみに現在、混沌激変中の
↓本と読書のblogランキングサイトはこちら。
↓ぜひ、カオスから救い出してください。
人間は、体毛に意味がないから人間なんだ。
人間は、お行儀がいいから人間なんだ。
人間は、書をやるから人間なんだ。
人間は、できごとを文化に昇華させるから人間なんだ。
人間は、匂わなく小奇麗にしているから人間なんだ。
人間は、学校に行くから人間なんだ。
人間は、名前があるから人間なんだ。
人間は、痛いと言うから人間なんだ。
人間は、ロジカルな恐怖に慄くから人間なんだ。
そうか?ほんとに。
獣は、森を識る。人間は知らない。
獣は、刹那的に行動する。人間はしない。
獣は、本能的に行動する。人間はしない。
獣は、殺めることに感情をもたない。人間はもつ。
獣は、自然の音を聞きわけられる。人間は聞き取れない。
獣は、暗がりでも走れる。人間はできない。
獣は、センシティブな恐怖に慄く。人間にはわからない。
獣は、盲信する。人間は全部丸呑みにしない。
そうか?ほんとに。
人間は獣ではないのか?
じつは、獣のほうが人間らしいんじゃないのか?
こんな分類が正しいかどうかは別として、舞城王太郎は『山ん中の獅見朋成雄』(講談社)を描くときに、表頭に「人間」「獣」と書いた対照表をつかって、人間と獣の本質を腑分けしようとしたかもしれない。
僕の首の後ろにも、他人よりもちょっと濃いめの産毛が生まれたときから生えていて、これが物心ついたころから僕の抱えた爆弾だったのだけれど、十三歳になってすぐのある晩、自分の鎖骨をこすっていて、そこにいつもとは違う感触を感じてうつむいて、首元に赤くて長くてコリコリと固い明らかな鬣の発芽を確かめたとき、それまでは祖父と父と同じように背中に負ぶっているつもりだった爆弾が、気づけば僕だけ胸の上にも置かれていたと知ってショックで、その上さらにその導火線にとうとう火が点けられたのを実感して、僕は絶望した。(帯にかかれた本文の抜粋より)
物語の前半、背中の鬣が遺伝として当たりまえのものとしてあるという充足のために自分の中の獣性を意識しなかった「獅見朋成雄」は、後半、喪失ゆえに鬣を意識することで、逆に無意識のうちに獣性を目覚めさせた「成雄」に変わる。
もし、この物語をわかりやすくしようと思えば(1)鬣が生えてきたから獣性が芽生えた とか (2)獣性の目覚めを顕著に意識するようになる といった構造になるのだろうが、そうはならないところが舞城の巧みな物語設計だ。つまり、獣性なんてのは誰でも持っているもので、意識のなかで急激に覚醒したりするものではない、ということを示すのに最適な方法をとったということだ。
そしてこのことは裏を返せば、人間性なんてものも簡単に損なわれてしまうんだよ、ということになる。これが、人間のもつ根源的な怖さである。人間の狂気により導き出される突然の暴力の怖さである。恐怖の極致はここにある。
実態をみようとせず術なく恐れ慄いているだけでは、恐怖は克服されることはない。恐怖とはいったいなんなのか?どのような状況下において突然の暴力は起こりえるのか。
舞城王太郎が一貫して描き続けているのは、まず恐怖/暴力というものの構造を識るための、さまざまな角度からの可視化であり、さまざまな条件下におけるシミュレーションである、といえるだろう。
彼は、ただ臆病で心配性(※1)なだけなのか?それとも、自分のなかのバイオレンス(※2)と格闘しているのか?人間存在のなにかを神経症的に疑っているのか?
と、分析的かつ断定的に書いてしまいましたが、じつはなにも深くは考えず、遅ればせながらの『山ん中の獅見朋成雄』の読後直後の「あいかわらずおもろいやん」という勢いだけで書いています。このわかりやすさの背後になんか落とし穴もありそうだけれど。ダイナミックに採用される説話のバリエーションは豊かだし、こんなに無茶している獅見朋成雄をいい奴として書いてしまえる人間への信頼には、読んでいて気持ちのいい爽やかさがあるし。早めに例の賞をあげておいたほうがいいんじゃないでしょうか。
いずれにしても、なにかと話題になる2作(『好き好き大好き超愛してる。』、『みんな元気。』)を、しっかり読んでから偉そうなことを書くようにします。
------------------------
(※1)リンクは本論とは関係ありません。マイナスターズのデビューアルバム『ネガティブハート』のサイトです。『心配性』だけのつながりですね。すみません。はやくレンタル開始しないかな。まあ、『さまぁ~ずの悲しいダジャレ』も『さまぁ~ずの悲しい俳句』も迷いなく買うくらいだから、買ってもいいんだけどね。
(※2)舞城のあっけらかんとした暴力性を表現した自筆によるコマ漫画が新潮社のWEBサイトで、『みんな元気。』のプロモーションとして公開されています。しかし、彼の画の巧さの基盤となっている3D看破能力は凄いね。
------------------------
↓ちなみに現在、混沌激変中の
↓本と読書のblogランキングサイトはこちら。
↓ぜひ、カオスから救い出してください。
別に廃立するモノでも無いように思いますが、草薙君みたいな「いい奴」のイメージは成雄にはないんですよ。
感覚の違いですかね。
コメントありがとうございます。
感覚の違い(好きか嫌いか)もあるかもしれませんが、じつはもっと悪い男に描けるような、というか描いたほうがいいような気がするんですね。このあたりは意図なのか、舞城の限界なのか。
「好き好き…」や「みんな元気。」には、答えがありそうですか。
なんと言うか
「成雄=いい奴」ではなくて「舞城が成雄を肯定している」って感じなんですよ。
urat2004さんがそういうつもりで書かれていたなら僕の読み間違いでした。すみません。
そうだ!「肯定」ですね。どうして、この言葉が出なかったんだろ。
ありがとうございました。そうです、そうです。こんな無茶な男に、なぜ暖かい眼差しを注いでいるのか?それは人間肯定なのか、実験なのか、それとも「=舞城本人」なのか。
いくつかの作品を重ね合わせてみると、最後者のような気がしますが、そうすると謎の男「舞城王太郎」は、いやな奴ということになりますね。