考えるための道具箱

Thinking tool box

『アイデン&ティティ』をきっかけに。

2005-02-22 22:47:05 | ◎観
気にするから、気になるんだろうけど、映画『アイデン&ティティ』も、他我/第三者の問題である。わかりきったことではあるが『アイデン&ティティ』は、けして「アイデン=中島/峯田和信」と「ティティ=彼女/麻生久美子」の物語ではなく、「アイデン」と「ティティ」と「&=ディランの幻影」の物語である。そしてこの「&」は、映画ではきわめてわかりやすく表現されているが、ほんとうのところはやっかいな問題である。

メジャーデビューを果たし、1stシングル『悪魔とドライブ』がヒットしているにもかかわらず、中島を中心としたバンド“SPEED WAY(スピードウェイ)”のメンバーの生活は何も変わっていなかった。仲の良さも相変わらずだったが、それぞれが「売れる歌」と「ほんとうに歌いたい歌」の狭間で苦悩し始めていた。

ある夜、書けない詞と曲の前で悶絶している中島の部屋に、ディランに似た男(=ロックの神様)が現れる。この日からロックの神様は度々、中島の前にだけ姿を見せるようになった。ライブ会場にも、ファンの女の子と寝ている最中にも…。その度に、ロックと一番遠い存在になっている自分への羞恥心を深めていく中島。

ほんとうに作りたい曲への想いのブレ、作った曲へのメンバー感での意見の食い違い、商魂たくましい事務所社長との確執、バンド空中分解の危機。
問題なのは「君自身のアイデンティティ」と解き続けた理解者である彼女との別れ。

悩み抜いた末に、完成させた新曲で、自分たちにふさわしい、いわゆる本物のロックを目指し始めた彼らだが、それは同時にやりたいことをやり続ける難しさに直面することでもあった。

久しぶりのTVへの出演依頼は「あのイカ天バンドはいまどこに」的なる回顧番組。懐かしいヒット曲を歌うように命じられた中島は、ロックの魂を受け継ぐものとしてプログラムをぶち壊す。「この歌をロックを単なるブームとして扱ったバカどもに捧げる」と。(公式WEBサイトでのあらすじを短く改稿)


このようにまとめてしまうと、『アイデン&ティティ』は産業ロックにおいて欠落してしまったロックの真髄を賛美謳歌するようなドラマにみえる。しかし、そこには「ロックというのは死にたがっている人間がやるものなんです。だから死んでも不思議ではないんです(※)」といったところまでの畏敬や神聖化はない。むしろ、「ロックとなにか、そして俺とはなにか」という若者の苦悩と客気を格好わるく表現しているものにすぎず、この点で衒いと屈託のない自分探し物語以上でも以下でもない。じつはクドカンの脚本も(一般的な評価はわからないが)他に比べあっさりしている、といえるかもしれない。

ということで、とりたてて議論するほどのこともない。良い映画。以上。

とはいかないんですよねえ。たしかに、中島の葛藤みたいなものは、これは峯田和信というミュージシャンに負うところが大きいと思うのだけれど、うまく描けている。しかしそれはあくまでもエンターテイメントの範囲であり口角泡を飛ばして話し合うこともない。

やっかいなのが冒頭に書いた「&=ディランの幻影」だ。彼がいなくても物語は成立するのになぜか彼がいる。なぜ、彼が必要なんだろう。物語を進めるためには、というか生き方においてひと皮剥けるためには、必ずといっていいほど彼が登場してくる。つまり他我。

ここでいうところの「他我」の定義は、自分のなかに潜む「他人らしい自分」を採る。『アイデン&ティティ』の場合の構図は、これに第三者としての彼女が加わる。きっと、その役割は、「ディラン=第三者」、「彼女=他我」でもいい。いやむしろそれのほうがいいかもしれない(というか『アイデン&ティティ』においてはその部分は計算していないだろうから多分にアバウト)。
他我としっかり話しあいながら、第三者の同意と承認をえる。いずれ第三者の不在に耐えねばらない時期を通過し、どんな状況下においても第三者の視線を保てるように成長する。もしくは、つねに第三者を置くことを意識することにより、他我との話し合いが減るように成長する。つまり第三者が存在するから、しっかりと自分が存在する。

ややこしい。ずっと気になっていて答えのでない問題が、こんなところでもわたしを誘う。
最近、気になった事例を少し挙げてみると…

●文学の言葉として
『阿修羅ガール』:アイコ/シャスティン
『山ん中の獅見朋成雄』:人間/獣+うさぎ
『熊の場所』:僕/まー君
『海辺のカフカ』:田村カフカ/カラスと呼ばれた少年
◎『宿題』(『性交と恋愛にまつわるいくつかの物語』所収):主人公/影/少女
『目覚めよと人魚は歌う』:ヒヨ/糖子/あな など

●創作態度として
村上春樹:村上とうなぎと読者。(『ナイン・インタビューズ』より)
ドストエフスキー:ポリフォニーたち

きっと事例はもっとたくさんあるだろう。一方で、気にし過ぎるからこのフレームに無理やりあてはめる思考が習慣化しているだけなのかもしれない。しかし、自分自身の思考・行動・言動を振り返ってみたとき、第三者は措定しているし、内なる誰かと話し合っていることは確かにある。

しかし、なぜ作家はこの関係を書きたがるのだろうか。文学的には葛藤をあらわす場合の定番的な形式といったことにすぎないのだろうか。それとも、考えを整理するためフレームにすぎないのだろうか。それとも…。

この答えは、おそらくレヴィナスなどが解ればそこにあるのかもしれない。いやブランショか。逡巡せずに実際に自分で物語を書い出してみたほうがなにかを体感できるかもしれない。う~ん。(つづく)
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わからない、わからないって言っていても、いつまでもわかんないだけなので、とりあえず書き始めてみました。このテーマのときは、わからない話が続くので、適当に読み飛ばしてください。すみません。

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(※)『AERA 2.28号』の「編集長敬白」より。『アエラ in ROCK』を紹介するくだりで、あるロックミュージシャンの自殺に際して、朝日新聞社内の熱烈なロックファンが言った言葉。


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