考えるための道具箱

Thinking tool box

文学界3月号。

2005-02-20 08:02:19 | ◎読
何回か書いてきたが、今年度に入ってからの『文学界』がかなり面白くなっている。べつに文藝春秋の回し者というわけではないのだが、3月号を例に、いいものも悪いものも含めて読んでおく意味はある、という視点でいくつかの内容をダイジェストしてみよう。

といっても現在、兵庫県の西端のとある隠遁場にて酩酊中のため、ただしく紹介できるかはよくわからない。まあ、難しいこと考えずに一度買ってみてください。ちょっとした本好きの方なら、少なくとも『UOMO』よりは得した気分になれると思います。
なお、今号のメイン特集は「阿部和重とこの時代」。以下の【2】【3】【4】がその一部。

【1】「傷口が語る物語」(中原昌也)
確かに傷口が語る物語というのは的を得た題名ではある。この小説を書き進めているのは、中原昌也の恣意や企図ではなく、傷を負った手の意志であるということだ。そうでなければ、このような支離滅裂な物語はかけない。なんの計画もなしに、まず書き出してみてそれに続く言葉を連鎖的に継ぎ足し続けていく。即興詩という見方が正しいのかもしれない。このページ数にして約4ページの言葉の塊を、もし中原がそういう方法で描いているとすれば、やはり彼にある一定の評価は必要だろう。
ただし、方法論はそうであったとしても、彼にはきっと芸術的な目論見はなく、たんなる小遣銭稼ぎのためにパッと書く、といった意識くらいしかないような気もするが。

【2】特別対談「形式主義の強みと怖さをめぐって」
(蓮實重彦×阿部和重)

たとえば、『グランド・フィナーレ』があのスタイルに落ち着いた顛末などが詳細に暴かれている。阿部はこの小説をいまから4年ほど前に考えていたらしいのだが、最初の構想とはずいぶん異なった形になったというくだりで、

阿部 ……第一部にあった出来事はほんの短く説明される程度で、第二部の物語のほうがだいぶ長く描かれるはずでした。エンディングも違っていて、あのあと演技指導をしていく過程がおもに描写されるはずだったんです。フェティシズムが出てくる過程をぼくも当初は---これは言い訳として言うわけでは決してないんですが----そういう性癖をもった沢見という男が少二人と接していく中で、「ああ、触れてしまいたい、触れてしまいたい」と思いつつもこらえていく葛藤を中心に物語る作品として構想していたんです。

ということらしい。もちろん、これら選択肢に正解はないとは思うが、おそらく二人の少女が沢見を直接的であれ間接的であれなんらかの形で殺めてしまうようなグランド・フィナーレも予想され、もしそうなった場合、そのプロセスがまったく紹介されぬ空白のまま、たとえば『シンセミア2』の逸話などで登場すれば、これは面白いなと思ってしまう(たとえば、「数年前、奇妙な取り合わせの心中があった場所だが…」とか)。その点で、今回のエンディングも、またひとつの正解ではある。
また、わたしも言及した女性「 I 」についてかなり深く語られており、こちらも、これからの作品内での活躍が期待できるかもしれない。でも、こう考えてみるとなんだか阿部は「神町RPG」のシナリオを紡いでいるみたいだなあ。

【3】「だ/ダ小説」(福永信)
阿部の未完の長編『プラスティック・ソウル』について触れている。「形式」の特異さが強調される『無情の世界』までの作品と、「物語」が全面にでてくる(ようにみえる)『ニッポニア・ニッポン』以降の作品とのあいだには確かに亀裂があり、これを作り出したのが『プラスティック・ソウル』ではないか、という仮説を起点として、形式が物語へ乖離していくモーメントについて触れている(ようだ。←字数の制限のせいか詰め込みすぎで主旨がわかりにくい)。
残念ながらわたしはこの小説が連載された『批評空間』をⅡ期の18号しか所有しておらず、7回にわけられた長編のうち1回しか読めないわけだが、この切り出された一部をとってみても、「形式=方法論」の巧みさが(たとえば多元視点へのテストトライアル)、物語の進行を支え始めていることがわかる。
『プラスティック・ソウル』がこのまま死蔵されるとすればたいへんもったいのない話であり、こういったところにこそ芥川賞の商魂が働き、無理やりにでも刊行しようという機運が高まるのなら、それはそれで芥川賞も意味あるよなあ、と考えてしまう。
ちなみに「だ/ダ」というのは、『プラスティック・ソウル』において、登場人物の多くは「ダ」で終わる名前であり(アシダ、イダ、ウエダ、エツダ、オノダ)、「だ」で留め置かれる文体が多いため、読み進めるにつれ異様に「だ/ダ」が目立つ「形式」となっていることを意味している。

【4】「阿部作品の破壊力」(松本健一)
筆者は『シンセミア』の毎日出版文化賞の選者のようで、芥川賞受賞はやはり『グランド・フィナーレ』ではなく『シンセミア』であるべきだったと語る。これは『グランド…』があらゆる意味で中途半端だという見かたに立脚しているようだが、このエッセイで言及されている以上の多様な読み方ができるのも同作品の魅力ではある、と考えると単視眼的な見かたは批評としてはこころもとない。
まあ、確かに村上龍に「この作家は幼女への執着が本当にわかって書いているのだろうか」といった例などを引用されると、一瞬は、「う~ん、そりや高橋源一郎の『唯物論者の恋』のほうがわかっているかも」とは思ってしまうが、しかし実のところは幼児愛好者でない限りはその執着はわかならいのであって、そういった意味では、阿部の書く沢見のようながダメ男らしさ満載の人物のほうが、それらしいという見方も成立する。

【5】「ニッポンの小説」(高橋源一郎)
じつは、この高橋源一郎の連載がいちばん面白いのかもしれない。最近の自己模倣的作品からの前進という点で、かなり冴えているのではと感じる。もちろん、扱っているテーマは、近代日本文学(≒死)であり、エロ(≒愛)であるという点では、一見すると大きな違いを見出しにくい。しかし、今回の連載はいずれもを一段上にあがった俯瞰の立ち位置で眺めていてある種の総決算をしているようにも見える。

たとえば、『性交と恋愛にまつわるいくつかの物語』 の「キムラサクヤの「秘かな欲望」、マツシマナナヨの「秘かな願望」」で延々と引用された雑誌『JJ』のディスクール(って言っていいのかどうかはわかならいが)は、けっして意味なく抽出されたものではなく、そこに詩性(といっていいかどうかもわからないが)を見つけてもいいじゃないか、といった表明であることをにおわせる。

今月号の主テーマは、「死者」ないしは「死」だが、これについては、死なない以上はわかることがないゆえに決して語りえないことを大きな前提としたときに、それでも語らねばならない文学の方向性を示したりもしている。以下のように引用されている「ある若い作家が最近発表した小説の一部」のようなものこそが、「死者」というものをしたり顔で小説の引き立て役として使わない、つまりわかることだけを語り、わからないことはわからないと告白する正しい態度ということで評されている。

「わからない、ぼくにはあいかわらずよくわからない。人が一人死んだ。ぼくのために。戦争の意味がまったくわからない。ぼくがスパイ映画気取りで逃げまわっていた間に……。でもそのことへの罪悪感がまったくわいてこない。あまりにもリアルじゃないから。まるで遠い砂漠の国で起こった戦争で、死者何百人ってニュースで聞いてるみたいだ。まるで他人事だ。どうしてだろう。香西さんにとってこの戦争はリアルなの?痛みはあるの?」

この話は来月に続きそうでもあるので、来月も飽きることなくこの続きから始められる高橋源一郎の持久力に期待したい。

いずれにしてもここで示されているような難題を小説という形態に昇華しようとすれば、時として何が言いたいのかがまったくわからない小説になってしまうこともあるだろうということはよくわかる。もちろん、「何が言いたかったのか」なんての問うのはナンセンスで、冒頭の中原昌也のようになんの企図なく筆のおもむくまま書き進めた結果こそが芸術として評価できる文学/小説の形態だという見方もあるかもしれない。
しかし、高橋源一郎には、「ニッポンの小説」で企図されているようなテーマとなんらかの回答が内在する小説の形態にトライし続けてもらいたいところだ。もっとも「ニッポンの小説」こそが小説形態としてだした答えかもしれないが。


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『文学界』の面白さはまだまだ続くが、酩酊と睡魔に負けて「何が言いたいのかがまったくわからない」状態になりつつあるので、また後日気が向けば。これまでどおりだがこれまで以上に面白い筒井康隆の小説と、これまでとまったく違うがこれまで以上に面白い川上弘美の小説については、なんか書いておきたいんですけどね。



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↑だらだら書いてたら、なんだかものすごく
↑長くなってしまいましたよ。souさんすみません。
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