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日本の奇祭14「吉田の火祭り7」

2014年01月13日 | 国内旅行

一年を通して日本全国の各市町村で何らかのお祭りが必ずあります。

故郷を思うとき、まず思い出されるのが祭りではないでしょうか?

 

ただ世の中には、地元の人には普通で真剣なんだけれど、

外部の人から見ると摩訶不思議な世界に見えてしまう祭りがあります。

これを世の人は「奇祭」と呼びます。

 

奇祭とは、独特の習俗を持った、風変わりな祭りのことと解説されています。

 

これを、人によっては「とんまつり(トンマな祭)」

「トンデモ祭」とも呼んでいるようで、

奇祭に関する関連書物も数多く出版されています。

よく取り上げられるのは、視覚的にインパクトがある祭り

(性器をかたどった神輿を担ぐ祭りなど)がよく話題になりますが、

ほかにも火を使った祭りや裸祭り、地元の人でさえ起源を知らない祭りや、

開催日が不明な祭りなど、謎に包まれた祭りはたくさんあるようです。

 

これから数回に渡って奇祭を特集していきます。

その多彩さに驚くとともに、祭りは日本人の心と言われるゆえんが、

祭りの中に詰まっていることが理解できるでしょう。

 

特に言う必要はないと思いますが、

以下にふざけて見えようと馬鹿にしているように見えようと、

れっきとした郷土芸能であり、

日本の無形民俗文化財だということは間違いありません。

 

今回は、山梨県富士吉田市の吉田の火祭りの第7回目です。

 

吉田の火祭り(北口本宮冨士浅間神社:山梨県富士吉田市)

 

神輿の御旅所入り

 

御旅所の火の見櫓をくぐる明神神輿

 

浅間神社を出発した神輿行列は、本町通りの中程に設けられた

御旅所(上吉田コミュニティーセンター)を目指して進んでいきますが、

一気に向かうのではなく、同じ場所を行きつ戻りつ数回の休憩を挟みながら、

ゆったりとした速度で進んでいきます。

この際、赤富士をかたどった御山神輿を数回、

どすんどすんと路上に投げ落とします。

これは御山神輿を富士山になぞらえ、

代わりに噴火させているものだといわれています。

 

吉田の火祭りの神輿渡御における御旅所は、

江戸時代には上吉田中宿東側に位置した

諏訪明神神主である佐藤上総(御師大玉屋)の屋敷でした。

1875年(明治8年)からは上吉田中宿西に開校した吉田小学校

(現、富士吉田市立吉田小学校)の広場が御旅所になりました。

 

1935年(昭和10年)に吉田小学校が現在地へ移転して、

旧校舎が福地村公会堂や山梨県林業試験場となっても、そこが御旅所でした。

1975年(昭和50年)に現在の御旅所が設営される

上吉田コミュニティーセンターが建設されて以来、

ここが御旅所となり今日まで使用されています。

このコミュニティーセンターは最初から御旅所としての利用を考慮して

設計されており、現在の祭礼を行う上で重要な役割を果たしています。

 

日が沈んだ午後6時を過ぎた頃、

2台の神輿を従えた神輿行列は御旅所に入ります。

御旅所の入り口には火の見櫓があり、

その両側には世話人によって立てられた2本のモミの木による御神木があり、

注連縄が張られています。

神輿行列はこの火の見櫓の下を潜って御旅所入りをします。

最初に入る明神神輿の屋根に立つ鳳凰のくちばしで、

その注連縄を切り落としていくことになっています。

セコたちの掛け声は最高潮に達し、

見事に鳳凰のくちばしで注連縄が切り落とされると、

群衆から大きな拍手喝采が起き、

それに続く御山神輿とともに神輿行列は御旅所になだれ込んでいきます。

 

2台の神輿は御旅所内の台座の上に向かって右側に明神神輿、

左側に御山神輿が安置され、両神輿の前には2名ずつ神職がついて供奉します。

御旅所に神輿が安置されると、ただちに御旅所着輿祭と奉安祭の神事が始まり、

神職(浅間神社および御師団年行事)、氏子総代、

世話人、セコ一同が、神輿の前に整列して拝礼を行います。

 

御旅所になだれ込む明神神輿

 

御旅所になだれ込む御山神輿

 

松明の点火

 

本町通りでの10尺松明点火

 

御旅所松明と町中の松明の点火

 

奉安祭の神事が終わると、

14名の世話人は一斉に御旅所を飛び出し、

御旅所と火の見櫓の間に寝かされている

2本の11尺大松明の点火に取りかかります。

時刻は例年午後6時30分から午後7時の間であり、

夕刻から夜になる時間帯です。

 

この御旅所の大松明は吉田の火祭りで一番最初に点火されるもので、

それを合図に町中や富士山中の松明に火がつけられることになっています。

世話人は手際よく地面に木枠を設置し、その中にスコップで山砂を敷き詰め、

数人がかりで寝かされている大松明を起こして立てます。

世話人は上町、中町、下町の各町名の入った提灯を高く掲げて大松明を囲み、

2名の火付け世話役が、

点火用の竹竿の先端に付けた針金に松脂の束を引っ掛けて火を付け、

竹竿を大松明の頂部に伸ばし、

火の点いた松脂の束をそこに乗せると、大松明はメラメラと燃え始め、

再び群衆から拍手喝采が巻き起こります。

 

世話人らは2手に分かれ、上吉田の町を南北に走り、

中宿から下宿へ、中宿から上宿へと順次大松明に火が点けられていきます。

大松明と大松明の間に積み上げられた、

各家々の井桁松明にもまた一斉に火が点けられていきます。

こうして上吉田の町を南北に伸びる1本の火の帯が出現し、

下は金鳥居交差点付近から最上部の上宿交差点付近まで延々と火の帯が燃え盛り、

多くの見物人、観光客らが繰り出す喧噪や、

居並ぶ露天商らの掛け声など、祭礼は最高潮の時を迎えます。

御旅所に設けられた神楽殿では神楽講による太々神楽の舞いや、

各種芸能の上演が行われ、安置された明神、

御山の神輿に参拝する人々の列で賑わいます。

 

富士山中での松明の点火

 

町中で松明が点火されると、

それに呼応して五合目より上の吉田口登山道沿いの山小屋でも松明が焚かれます。

空気が澄み条件が良ければ麓の上吉田からも、

登山道に沿って一列に並ぶ灯火がよく見えます。

ただし、標高2500メートルを越す五合目以上は、気象条件が非常に厳しく、

大松明のような大きなものを設置するのは不可能です。

五合目の佐藤小屋では松明を井桁状に1.2メートルほど積み上げますが、

標高が高くなるほど風速が強くなるため、

七合目東洋館では積高はくるぶし程度になり、

標高3000メートル超では井桁状ではなく乱雑に積むようになります。

 

富士講社の拝み

 

燃え続ける大松明

 

松明が燃え始めると、

御師坊に宿泊中の富士講社らは行衣に身を固めて通りに繰り出し、

各御師坊の井桁松明を囲んで拝みを行います。

吉田の火祭りには、主に関東一円から数十もの講社が毎年参加します。

このうち宿泊を伴う講社としては、

御師筒屋へ宿泊する丸八講・丸伊講・丸金講、扶桑教、

御師菊谷に宿泊する大丸講・丸嘉講、

御師大国屋に宿泊する宮元講・一山講などが知られており、

各講社のリーダーである先達を中心に様々な儀礼が執り行われます。

 

御焚上げと塩加持

 

御師の家の前の通りには、

御師の檀家である各講社が奉納した大松明を立てて、

それを講社が拝んで祈祷するのが本来の姿でしたが、

近年では大松明を奉納する講社は少なくなり、

そのような講社では御師の家のタツミチ

(表通りから御師の家に続く細い通路)に篝火を焚き、

講社の松明代わりにしています。

 

また、伊丸講・丸金講・扶桑教では御焚上げと呼ばれる儀礼が行われます。

これは筒屋の前にある大松明と富士山に向かって地面に座り、

松明の前に白い布を広げ、約2㎏もの塩を円錐形に盛り、

その盛り塩に多数の線香を立てて火をつけ、

大祓えを唱えて諸神を呼び神徳経を唱えるものです。

「参明藤開山」と書いた焚き符の半紙を線香の火で焚いて

「コウクウタイソクミョウオウソクタイジン」の御身抜きを唱えます。

その後、線香と符の灰が混ざった塩を白い布に包み、

それを信者の体に擦り健康を祈願します。

また、この塩を翌朝の加持に用いたり信者に分けたりします。

これを塩加持といいます。

 

お伝えと掛念仏

 

やがて松明は形を崩しながら燃え尽きていきます。

 

各講社では、富士講の経本であるお伝えを伝授しています。

お伝えは教義などを祭文や祝詞としてまとめたもので、

体裁は小型の折本になっています。

 

もともとお伝えは、江戸時代においては御師か高名な先達に書いてもらうもので、

なおかつ複数回に分けて書いてもらうため、

完全な状態になるまでは数回の御山詣でをしなければならなかったといいます。

また、富士講の系譜には村上派・月行派・身禄派などがあり、

それぞれに経本が存在します。講社がお伝えを唱えるのは、

浅間神社参拝。松明を前にした御焚上げ、御師宿の祭壇などで、

先達の唱えに講員が合わせていきます。

 

また、宮元講や、丸金講・伊丸講などは、「エーナンマイダブー、

ロッコンショウジョウ」と謡って唱える六根清浄などの掛念仏が行われます。

これら、お伝えや掛念仏を唱えられるようになるには、

およそ10年はかかるといいます。

講員たちはさらに、松明が焼け落ちた夜中に御師坊から出てきて、

燃え残りの消し炭を拾っていきます。

それを自宅の神棚や軒先に吊るしておくと火難を逃れるといわれています。

この際の掛念仏が唱えられます。

 

【交通アクセス】

電車:富士急行線「富士山」駅下車、徒歩3分。

車 :中央自動車道「河口湖IC」から県道138号線経由で10分。

駐車場:無料約300台。

 

いかがでしたか。

祭りには底知れない魅力と気分を高揚させる何かがあります。

長年にわたって受け継がれてきた祭りには、

理屈では割り切れない人々の思いが詰まっているように思います。

たかが祭り、されど祭りといったところでしょうか?


日本の奇祭13「吉田の火祭り6」

2013年12月16日 | 国内旅行

一年を通して日本全国の各市町村で何らかのお祭りが必ずあります。

故郷を思うとき、まず思い出されるのが祭りではないでしょうか?

 

ただ世の中には、地元の人には普通で真剣なんだけれど、

外部の人から見ると摩訶不思議な世界に見えてしまう祭りがあります。

これを世の人は「奇祭」と呼びます。

 

奇祭とは、独特の習俗を持った、風変わりな祭りのことと解説されています。

 

これを、人によっては「とんまつり(トンマな祭)」

「トンデモ祭」とも呼んでいるようで、

奇祭に関する関連書物も数多く出版されています。

よく取り上げられるのは、視覚的にインパクトがある祭り

(性器をかたどった神輿を担ぐ祭りなど)がよく話題になりますが、

ほかにも火を使った祭りや裸祭り、地元の人でさえ起源を知らない祭りや、

開催日が不明な祭りなど、謎に包まれた祭りはたくさんあるようです。

 

これから数回に渡って奇祭を特集していきます。

その多彩さに驚くとともに、祭りは日本人の心と言われるゆえんが、

祭りの中に詰まっていることが理解できるでしょう。

 

特に言う必要はないと思いますが、

以下にふざけて見えようと馬鹿にしているように見えようと、

れっきとした郷土芸能であり、

日本の無形民俗文化財だということは間違いありません。

 

今回は、山梨県富士吉田市の吉田の火祭りの第6回目です。

 

吉田の火祭り(北口本宮冨士浅間神社:山梨県富士吉田市)

 

[火祭りの神事]

 

吉田の火祭りは、8月26日の「鎮火祭」と、

翌27日の「すすき祭り」とに大別されます。

ここでは2日間にわたって行われる祭事の流れを時系列に沿って説明します。

 

鎮火祭(26日)

浅間神社本殿祭

 

浅間神社参道を行く富士講の講員

 

鎮火祭の最初に行われる神事が、

26日午後3時より浅間神社拝殿内で行われる本殿祭です。

本殿祭は鎮火祭開始に際し、

神輿への動座を浅間神社の祭神に願うための神事です。

 

出席者は氏子総代、世話人、講社、御師団をはじめ、

地元選出議員や主要企業関係者などの来賓を含め総勢100名にものぼります。

出席者のうち氏子総代10名は、白衣・青袴姿、御師は白い斎服姿、

消防団員らは印半纏姿など、それぞれの正装で臨席します。

 

「山梨県神道雅楽会」会員ら4名による三管三鼓の雅楽により

越天楽などが奏でられる中、神事が執り行われます。

本殿祭の祭事は、開扉、献饌、斎主祝詞奏上、斎主玉串奉献、玉串奉献、

来賓の玉串奉献、撤饌、太鼓奉仕者へのバチ授与、宮司にならい御一拝、

この順序に従い約1時間をかけて粛々と執り行われます。

 

御霊移しと御絹垣

 

諏訪神社拝殿の御絹垣

 

本殿祭が終わると、神輿に浅間神社と諏訪神社の分霊を移す

御霊移しの儀式が始まります。

御霊とは祭神の御神体の分霊のことで、御霊代とも呼びます。

浅間神社と神輿が置かれた境内社である諏訪神社(摂社)とは、

境内を介して約150メートルほど離れていて、

浅間神社から神輿のある諏訪神社へと

御霊をもった宮司が移動するのが御霊移しの儀式です。

 

御霊移しが始まる午後4時頃になると、

境内一帯は大勢の参詣者や見学者らで埋め尽くされています。

14名の世話人と12名の消防団員は両社を結ぶ境内中央部に一列に並んで、

一般参詣者らを入れないようにして御霊の通り道を明けます。

社殿内と境内の照明や電気はすべて消され、

薄暗くなった浅間神社拝殿奥から神職による

「オーッ」という警蹕の低い声が響き渡ると、

純白の布で覆われた御絹垣が拝殿内から現れます。

御絹垣は6本の支柱の間に大きな白布を張り、

御霊を持つ宮司を四方から囲んで隠した幕であり、

6名の神職によって持ち抱えられています。

神聖な御神体は人目にさらしてはならず、

このように幕で隠しながら諏訪神社へ運ばれます。

御絹垣の前には道楽・賛者の2名が先導を行い、

後側には典儀・賛者と、護衛の御師団が続きます。

御絹垣の中には宮司と露払い役の行障の2名のみがおり、

宮司は袖の中に御神体を抱えながら、

神職らの発する警蹕の声に導かれながらゆっくりと進みます。

参詣者らは低頭して道を明け、光を浴びせたり写真を撮ることは禁忌とされます。

御絹垣は諏訪神社に着くと班田上にのぼり、そのまま本殿内に納めて安置します。

こうして御霊移しが済むと御絹垣は取り払われ、

境内の電灯も再び灯され、間を空けずただちに諏訪神社祭が開始されます。

 

諏訪神社祭・御動座祭と高天原での発輿祭

 

諏訪神社拝殿前の様子

 

午後4時20分頃、諏訪神社本殿前において諏訪神社祭が行われます。

これも浅間神社の本殿祭同様に、諏訪神社の祭神に対し、

神輿への動座を乞うための神事です。

神前には神職、氏子総代、世話人らが参列して開扉、

献饌、祝詞奏上などが行われます。

 

この日、諏訪神社では、午前に行われる西念寺住職による仏式での法楽、

そしてこの夕方に行われる浅間神社宮司による神式での儀式と、

2度の儀式が行われることになります。

やがて諏訪神社祭が終わると、すでに社殿前に集合しているセコに対して、

神職が拝殿上から大弊を振り修祓を行います。

その後、宮司の手によって神輿へも御霊移しが行われるため再び御絹垣が張られ、

宮司はその中で諏訪神社と浅間神社の御神体を取り出して

両社の分霊を明神神輿に移動します。

なお、2社の御霊は2つとも明神神輿に分霊され御山神輿に御霊は移されません。

 

御霊移しが終わると神輿の出御の準備が整い、

2台の神輿は世話人の呼びかけにより、

それぞれのセコたちによって諏訪神社から担ぎ出されます。

しかし、このまま町中に繰り出すのではなく、

境内の高天原と呼ばれる四方を注連縄で張られた方形の祭場に一旦置かれます。

 

2台の神輿のうち明神神輿の前で宮司が祝詞を奏上し、

神職らが整列して発輿祭の神事が行われ、

これが済んで初めて、正式な神輿の出御となります。

このように神輿渡御にかかわる諸神事は、すべて明神神輿を中心に行われ、

御山神輿に対しては御師団行司が献饌と拝礼を行うのみです。

 

高天原の神事は10分ほどで終わり、四方の注連縄が取り払われると

セコたちは再び一斉に2台の神輿に取り付いて担ぎ出し、

浅間神社境内を土ぼこりを上げながら勢い良く上吉田の町へ繰り出していきます。

 

神輿渡御と西念寺僧の読経

 

明神神輿の出陣

 

御山神輿の出陣

 

神輿行列は次のような順序で構成されています。

先頭から、

 1.唐櫃:唐櫃箱を2名で担ぎ、中には予備の幣束などが入れられています。

 2.真榊:当地では榊が育たず、

      1本ないし2本のソヨゴの木が用いられています。

      2名で担ぎ、枝先には赤白青緑黄の5色の布帯と

      細かく刻まれた幣紙が飾られています。

 3.アゲ太鼓:2名で担ぎ、1名が叩きます。

 4.賽銭役:複数名で構成され、ザルを持って沿道の人々から賽銭を集めます。

 5.神職の集団

 6.明神神輿

 7.御山神輿

 8.御師団の集団

以上の順序で神輿行列は進行していきますが、

このうち重要なのは2台の神輿の先頭を行くのは明神神輿であって、

御山神輿はどのようなことがあっても

明神神輿を追い抜いてはならないとされています。

 

2台の神輿を担ぐセコは上吉田の氏子青年が中心で、

いくつもの小団体が結成されていて、

団体ごとに揃いの法被に身を固めているので、

そのセコがどの団体構成員であるのか分かります。

 

また、2台の神輿のうち、先頭を行く明神神輿を担ぐのは、

世話人経験者からなるセコ団体とほぼ決まっており、

一方の御山神輿を担ぐのは、その他の有志団体です。

有志団体には様々なものがあり、職場仲間であったり、

行きつけの飲食店に集う仲間など、約10団体ほどで、

同様に揃いの法被などを着用しています。

有志団体セコの職業は建設業や飲食業関係者が多いようです。

2台の神輿にはそれぞれ常時50~60人程のセコが取り付いていて、

さらに交代要員も20~30名ほどいて、

集団で神輿に取り付いて御旅所まで移動していきます。

 

浅間神社参道を抜け、

国道138号線から本町通り南端の上宿交差点に向かう途中では、

西念寺僧侶3名による、神輿行列を迎える読経が行われます。

西念寺ではこれを御下り・御迎えと称し、

正装をして国道端に立ったまま神輿行列が通過するまで読経と焼香を続けます。

 

なお、神輿の巡行する区間と火祭りの行われる本町通りなどは、

富士吉田警察署によって午後4時30分より順次、

交通規制が敷かれ車両通行止めとなります。

そして神輿の通過した場所から、

世話人やセコなどにより道端に寝かされていた大松明が立てられていき、

沿道の一般家庭でも井桁松明が組み立てられ始め、

沿道には露天商らが出店の準備を始めます。

 

【交通アクセス】

電車:富士急行線「富士山」駅下車、徒歩3分。

車 :中央自動車道「河口湖IC」から県道138号線経由で10分。

駐車場:無料約300台。

 

いかがでしたか。

祭りには底知れない魅力と気分を高揚させる何かがあります。

長年にわたって受け継がれてきた祭りには、

理屈では割り切れない人々の思いが詰まっているように思います。

たかが祭り、されど祭りといったところでしょうか?


日本の奇祭12「吉田の火祭り5」

2013年12月02日 | 国内旅行

一年を通して日本全国の各市町村で何らかのお祭りが必ずあります。
故郷を思うとき、まず思い出されるのが祭りではないでしょうか?

ただ世の中には、地元の人には普通で真剣なんだけれど、
外部の人から見ると摩訶不思議な世界に見えてしまう祭りがあります。
これを世の人は「奇祭」と呼びます。

奇祭とは、独特の習俗を持った、風変わりな祭りのことと解説されています。

これを、人によっては「とんまつり(トンマな祭)」
「トンデモ祭」とも呼んでいるようで、
奇祭に関する関連書物も数多く出版されています。
よく取り上げられるのは、視覚的にインパクトがある祭り
(性器をかたどった神輿を担ぐ祭りなど)がよく話題になりますが、
ほかにも火を使った祭りや裸祭り、地元の人でさえ起源を知らない祭りや、
開催日が不明な祭りなど、謎に包まれた祭りはたくさんあるようです。

これから数回に渡って奇祭を特集していきます。
その多彩さに驚くとともに、祭りは日本人の心と言われるゆえんが、
祭りの中に詰まっていることが理解できるでしょう。

特に言う必要はないと思いますが、
以下にふざけて見えようと馬鹿にしているように見えようと、
れっきとした郷土芸能であり、
日本の無形民俗文化財だということは間違いありません。

今回は、山梨県富士吉田市の吉田の火祭りの第5回目です。

吉田の火祭り(北口本宮冨士浅間神社:山梨県富士吉田市)

八月の祭礼準備

8月に入ると世話人の仕事も多忙を極めるようになり、
各自の稼業を休みながら世話人の仕事に奔走します。
特に祭り直前の10日間ほどは、
完全に本業を休み全休状態で祭りの準備に明け暮れます。
世話人は、火祭りの1ヶ月前から精進潔斎の生活に入り、女人に触れてはならず、
世話人の妻も祭りの場ではあまり表に出ないものとされています。
浅間神社の神職らもまた、祭礼期間中は潔斎の生活を送り、
豚肉や牛肉など4つ足の動物を食するのは禁忌されます。

 

8月初旬からの世話人の仕事を順に挙げると、
祭典寄付集めと集計、神輿巡幸寺にセコらの休憩所となる家々への挨拶回り、
神輿行列を先導するアゲ太鼓のバチの製作(バチのみ年ごとに新調され、
山から切り出したクルミの木を削って作ります)、
松明の点火材として使われるヤニ木(松脂)の採取および製作(約80組)、
御旅所に立てる6本の御神木に使用するモミの木と、
榊の代用となるソヨゴを富士山麓の恩賜林の奥深くまで行って切り出し、
上吉田コミュニティーセンターでの御旅所、神楽殿の設営、
大松明を運搬し本町通りの所定位置道端への設置、
山砂の敷布など、休む間もなく連日連夜準備に追われます。

祭礼当日の準備

 

 明神神輿

 

 御山神輿

8月26日、吉田の火祭り祭礼当日になると、
午後15寺開始の神事に先立つ最終準備が行われます。

朝9時、世話人は浅間神社に集まると、諏訪神社拝殿内に併設された
神輿庫から2台の神輿を外に出して担ぎ棒を取り付けます。

吉田の火祭りで使用される神輿は2台あります。
1台は明神神輿といい、
現在のものは1990年(平成2年)に152年ぶりに新調された神輿で、
以前はもっと小型の神輿でした。
もう1台は赤富士をかたどった重量1トンにもなる巨大な山形の神輿で、
一見すると到底神輿には見えない形状のものです。
この富士山を型どった神輿は、オヤマ(御山)、オヤマサン(御山さん)、
ミカゲ(御影)、富士御影(以下、御山神輿と記述します)などと呼ばれます。
御山神輿は近世初頭の「御訴松」の古文書にも
富士山型の形状をした神輿の記載が見られ、
その後も複数の古文書などに記されており、
古くから明神、御山の2台の神輿が祭礼に関わっていたことが確認されています。

また同日午前10時頃から、古くから諏訪神社の祭祀に深く関わってきた、
同じ上吉田地区内にある時宗西念寺住職により、
神前読経による仏式法楽が行われます。

 

西念寺住職を始めとする3名の時宗僧侶は、氏子総代、
世話人らに先導され諏訪神社の本殿前に並んで立ち、
般若心経と阿弥陀経の読経を行います。
読経が終わり僧侶らは社務所の直会へと退席しますが、
その際にも浅間神社拝殿の前で立ち止まり
深々と頭を下げ神前に拝礼していきます。
このような神仏混合の姿が今日でも見られます。
西念寺僧侶は26日午後の神輿渡御と、
翌日27日の還幸時にも道路端まで出向いて迎え読経を行います。
なお、西念寺住職家で身内に不幸があった場合、
やはりブクがかかることになるので、法楽を務めることはできず、
このような場合には、同宗の他寺院から僧侶を招いて代行されます。

富士講社の坊入り

各地の富士講社は祭礼に参加するため、
26日の昼頃までに富士吉田市内に入り、各講社の所属する御師坊へと入ります。
講員は御師坊に入ると、講社のマネキ(講社名を染め抜いた布旗)を
坊の玄関先やタツ道の入り口に掲げるので、
どの御師坊にどの講社が滞在しているのかが外からでも分かります。
講員らは行衣に着替えて午後3時から始まる浅間神社本殿際へ向かいます。

一般的な富士講員の服装は、白の宝冠、行衣、行袴を着て、
手に白い手甲、脛にも白い脚絆をつけ、わらじもしくは足袋を履きます。
頭に被る宝冠は7尺2寸の布ですが、現在これをかぶるのは秩父大丸講、
丸伊講、丸金講の講社だけです。
また、講社が御師坊に滞在している間、世話人が挨拶回りに各御師坊を回り、
各講社、御師坊からご祝儀を渡されます。

御師坊では家族総出で講社の世話に追われます。
どの御師坊でも部屋数に余裕がなく、
複数の講社にまとめて部屋に入ってもらい、
就寝時にはいわゆる雑魚寝状態になります。
食事も講社ごとに順番に食べてもらいます。

井桁行列

 

沿道の家々では井桁松明が積み上げられていきます。

井桁松明とは鎮火祭の当日に、各家の前に井桁状に積み上げられる薪のことです。
かつては自分の家の山林から赤松を切り出したり、
懇意にしている職人に頼んで薪を用意していました。
今日では木材流通センターなどから、
1把約600円程度のものを10把から15把購入する家が多いようです。

 

薪を積むにはまず、世話人が前もって道端に用意しておいた砂を敷き、
塩を撒いてから井桁状に組み上げていきます。
高さはおおむね170センチほどです。
点火する際に各家の主人によって四方に塩が撒かれます。
また、大松明と同様に点火をスムーズに行うため、
薪の上部には束にした松脂が置かれています。

【交通アクセス】
電車:富士急行線「富士山」駅下車、徒歩3分。
車 :中央自動車道「河口湖IC」から県道138号線経由で10分。
駐車場:無料約300台。

 

いかがでしたか。

祭りには底知れない魅力と気分を高揚させる何かがあります。

長年にわたって受け継がれてきた祭りには、

理屈では割り切れない人々の思いが詰まっているように思います。

たかが祭り、されど祭りといったところでしょうか?


日本の奇祭11「吉田の火祭り4」

2013年11月18日 | 国内旅行

一年を通して日本全国の各市町村で何らかのお祭りが必ずあります。
故郷を思うとき、まず思い出されるのが祭りではないでしょうか?

ただ世の中には、地元の人には普通で真剣なんだけれど、
外部の人から見ると摩訶不思議な世界に見えてしまう祭りがあります。
これを世の人は「奇祭」と呼びます。

奇祭とは、独特の習俗を持った、風変わりな祭りのことと解説されています。

これを、人によっては「とんまつり(トンマな祭)」
「トンデモ祭」とも呼んでいるようで、
奇祭に関する関連書物も数多く出版されています。
よく取り上げられるのは、視覚的にインパクトがある祭り
(性器をかたどった神輿を担ぐ祭りなど)がよく話題になりますが、
ほかにも火を使った祭りや裸祭り、地元の人でさえ起源を知らない祭りや、
開催日が不明な祭りなど、謎に包まれた祭りはたくさんあるようです。

これから数回に渡って奇祭を特集していきます。
その多彩さに驚くとともに、祭りは日本人の心と言われるゆえんが、
祭りの中に詰まっていることが理解できるでしょう。

特に言う必要はないと思いますが、
以下にふざけて見えようと馬鹿にしているように見えようと、
れっきとした郷土芸能であり、
日本の無形民俗文化財だということは間違いありません。

今回は、山梨県富士吉田市の吉田の火祭りの第4回目です。

吉田の火祭り(北口本宮冨士浅間神社:山梨県富士吉田市)

[祭礼の年間経過]

吉田の火祭りは、祭りの規模が大掛かりである上に、
祭りの段取りも非常に複雑で、
実際には、ほぼ丸1年間の準備過程を経て開催されています。
祭りの2日間はその総仕上げであり、
それだけを見ても祭事の全体像を捉えることは困難です。
ここでは、祭礼に関する準備過程、段取りを通じて、
それらに携わる世話人、氏子、講社、御師などの動きについて説明します。

春から夏にかけての祭礼準備

上吉田地区の上中下の三町では、毎年1月15日の小正月を中心に、

各町の道祖神祭りがそれぞれ行われます。

古くからこの地区における年度の区切りは各町の道祖神祭りとなっており、
この時に新旧世話人の交替式が浅間神社の拝殿で行われます。
交替式では、前年度世話人の退任式に続いて新年度世話人の新任式が行われ、
14人の新年度世話人に揃いの法被や祭りの衣装などが手渡されます。

新年度世話人の初仕事は、2月3日に行われる浅間神社の節分祭です。
世話人は上吉田地区各戸を回って
節分祈祷の申し込みを受け付け寄付を集めるのと同時に、
新年度世話人就任の挨拶も兼ねます。
特に火祭り当日に神輿を担ぐセコ役の人々に対する挨拶が重要で、
三町とも「勢子名簿」と呼ばれるものを持っており、
それに基づいてセコのいる家々は全戸を回ります。
各戸には俗に「勢子セット」と呼ばれるバケツ、タワシ、
ほうきの3点1組の生活用具が配られます。
これらは上吉田の三町全体で約1000組ほどになります。
3月に入ると大松明の寄進者を募る活動が始まり、
世話人は手分けして富士吉田市内および近隣の各種団体、
民間企業などへの挨拶回りを行います。

5月5日には「お初申」と呼ばれる浅間神社の初申祭が行われ、
世話人は金鳥居下の中曽根地区から
最上部の上町までの1キロ程の本町通り両側に、
えんえんと注連縄を張る作業を数日前から行います。

浅間神社の境内でも、神前に立つ太郎杉ほか
3本の神木の注連縄を新しいものに交換する作業も行います。
大松明奉納寄進集めが本格的に始まる6月初旬、
この年最初の火祭りの打ち合わせ会議が浅間神社社務所で開催されます。
神職、氏子総代、御師団、世話人らが出席し
、今年度の祭礼の計画や注意事項、
警察などへの申請事項に関する説明と討議が行われます。

大松明の結初式

 松明の準備が始まります。


8月が近づくと松明作りが始まります。
毎年70本から80本にもなる松明作りの作業に当たるのは、
上吉田地区の西隣に位置する松山地区の職人7~8名で、
古くから松明作りの技術を受け継いできた人々です。
その中心的な存在が和光家であり、
代々にわたって松明作りを請け負ってきました。
職人達は普段は農業などに従事していますが、
祭りの直前1ヶ月間は連日の松明作りに追われます。

 

松明の豪農寄進者は、前述したように世話人が募って集めますが、
2005年現在ではそれを富士吉田市観光協会が集約し、
一括して松山地区の職人仲間に発注する形がとられています。

松明を作る作業場は、
上吉田地区にある木材流通センターの一角に設営されており、
職人達は毎日ここに通って松明を作り続けます。
木材流通センターで作るようになったのは1975年(昭和50年)頃からであり、
それ以前は御師の家の庭などに職人が通って作っていました。

松明を作り始める前日の7月下旬、
木材流通センターで浅間神社から
神職が出向きお祓いを行う松明の結初式が行われます。
参列者は、職人仲間、木材流通センター職員、世話人、
氏子総代、市観光協会などの関係者です。
木材流通センターは普段は材木や資材の置き場になっていますが、
松明作りの期間中は入り口に注連縄を張り、その中で作業に勤しみます。

[松明の製作]

吉田の火祭りを象徴する松明の形状は大きく分けて、
大松明と井桁松明に分けられます。
このうち奉納者を募り、
職人によって製作されるのが祭りでも目立つ筒状の大松明です。

一方の井桁松明は、
祭事当日の夕方に各家々で薪を井桁状に組み上げて作られるものです。
これら松明に使用される木材もまた、ブクの忌避が厳格に守られており、
特に中に詰めるアカマツの薪は、
どこの山から切り出されてきたものなのか職人は把握しておかなければならず、
ブクのかかった山林所有者の木材は使用されません。
ここでは職人によって作られる大松明について説明します。

経木の準備

大松明に製作に先立って、大松明の外側を覆う経木の準備が行われます。
経木に使用される木材はアカマツであり、
上吉田地区東隣にある新屋地区の堀内経木店が納めています。
経木製造の規格は、長さ1尺7寸、幅4寸が主なものですが、
この他にも2種類、計3種類の規格があります。
なお、ここで使用されるのは曲尺であり、1尺はおよそ30.3センチです。

 

松明製作のための機械は「ムキの機械」と呼ばれ浅間神社が所有者ですが、
この機械は松明製作以外には使用されないので、
現在は前任者から引き継いだ堀内経木店が預かっています。
1尺2寸から3寸に切った赤松の外皮を、
手剥きの道具で剥いた後、ムキの機械を使用して経木にします。
経木を30枚から50枚に重ねて、
マルノコと呼ばれるノコギリで5寸幅に裁断すると経木は完成し、
大松明製作まで保管されます。

大松明の製作

 本町通りの路肩歩道に置かれた10尺の大松明。


結初式の翌日より大松明の製作が始まります。
大松明はかつて大中小の3種類の大きさがありましたが、
2012年現在では、大11尺(高さ約310センチ、上部直径約36センチ)、
底面の直径はそれぞれ約90センチの2種類です。
(厳密には、地区内の小学校や保育園などから奉納される
高さ170センチ程の子供用松明が、毎年3、4基ありますが、
これは職人の指導を受けながら各機関の関係者の手によって作られます。)
このうち、11尺の大松明は御旅所用の2本のみで、
残りはすべて10尺の大松明です。
結初式の後、最初に作られるのがこの御旅所用の11尺の2本です。

大松明の中に詰められる薪は経木と同じアカマツが使用されます。
細かく裁断した薪を順々に重ね合わせながら、
松明の芯となるヒノキを中心に立て、
縄を幾重にも張りながら徐々に組み立てていきます。
形が整ってきたところで外側を経木で覆い、
周囲を何ヶ所も縄で巻き上げていきます。
最後に松明を横にして、下部から隙間に薪を入れたり、
底部を何度も叩いたりしてバランスを調整します。
なお、最上部には点火がスムーズに行われるよう松脂の束が置かれます。

大松明は1基の重さが200キロにもなり、
燃え尽きるのに約4時間半から5時間かかりますが、
上部に点火され最後まで奇麗に燃え切るためには、
薪の大きさや、割り方、組み方、隙間の調整など微妙なさじ加減があり、
長年の経験による熟練した技巧を要します。
1日に作られる大松明は平均3基から4基で、
20日間ほどをかけて70数基の大松明が作られていきます。

 

【交通アクセス】
電車:富士急行線「富士山」駅下車、徒歩3分。
車 :中央自動車道「河口湖IC」から県道138号線経由で10分。
駐車場:無料約300台。

 

いかがでしたか。

祭りには底知れない魅力と気分を高揚させる何かがあります。

長年にわたって受け継がれてきた祭りには、

理屈では割り切れない人々の思いが詰まっているように思います。

たかが祭り、されど祭りといったところでしょうか?


日本の奇祭10「吉田の火祭り3」

2013年11月05日 | 国内旅行

一年を通して日本全国の各市町村で何らかのお祭りが必ずあります。
故郷を思うとき、まず思い出されるのが祭りではないでしょうか?

ただ世の中には、地元の人には普通で真剣なんだけれど、
外部の人から見ると摩訶不思議な世界に見えてしまう祭りがあります。
これを世の人は「奇祭」と呼びます。

奇祭とは、独特の習俗を持った、風変わりな祭りのことと解説されています。

これを、人によっては「とんまつり(トンマな祭)」
「トンデモ祭」とも呼んでいるようで、
奇祭に関する関連書物も数多く出版されています。
よく取り上げられるのは、視覚的にインパクトがある祭り
(性器をかたどった神輿を担ぐ祭りなど)がよく話題になりますが、
ほかにも火を使った祭りや裸祭り、地元の人でさえ起源を知らない祭りや、
開催日が不明な祭りなど、謎に包まれた祭りはたくさんあるようです。

これから数回に渡って奇祭を特集していきます。
その多彩さに驚くとともに、祭りは日本人の心と言われるゆえんが、
祭りの中に詰まっていることが理解できるでしょう。

特に言う必要はないと思いますが、
以下にふざけて見えようと馬鹿にしているように見えようと、
れっきとした郷土芸能であり、
日本の無形民俗文化財だということは間違いありません。

今回は、山梨県富士吉田市の吉田の火祭りの第3回目です。

吉田の火祭り(北口本宮冨士浅間神社:山梨県富士吉田市)

 

祭礼をとりまく風習と伝承組織

 

上吉田地区の空中写真

 

画面右上の十字路が金鳥居の交差点です。

そこから南南西方向に伸びる通りが火祭りの行われる本町通りです。

本町通り中程を少し西側(左)に入った白い四角い建物が、

御旅所の設営される上吉田コミュニティーセンターです。

画像下部の木々に覆われた一帯が北口本宮浅間神社です。

 

吉田の火祭りは浅間、諏訪両社の例祭であるばかりではなく、

その背景には富士山信仰に関連した富士講社や御師の関わりや、

富士北麓地域の民族風習などが色濃く残されています。

 

ブクとテマ

 

吉田の火祭りは浅間神社側にとっても氏子側にとっても、

最上級に神聖な祭りであって、一切の不浄を排除しなければならず、

とりわけ人間の死に関わるブク(忌服)と呼ばれるものは

徹底的に忌避されています。

 

上吉田の住人は前年の祭りから

1年間の間に身内に不幸のあった者を「ブクがかかる」と表現し、

ブクがかかった者は祭礼の期間中、上吉田地区以外に出ることになっており、

これを「テマ(手間)に出る」といいます。

身内、正確には血縁者に不幸があった者は不浄であり、

世話人やセコを務めることはもちろん、祭事の一切に関わることはできません。

そればかりか、火祭りの火を見ることすら許されないという厳しいものです。

火祭りのテマのしきたりが、いつ頃からあったものなのかはっきりしませんが、

「甲斐国志」の諏訪明神の項に

現在のテマのしきたりとほぼ同じ内容の記載があることから、

今日の禁忌がすでに近世後期には成立していたことが確認されています。

 

また、ブクのかかった家をアラブク(新服)といい、

家人は泊まりがけでテマに出かけます。

この際、近所の家からアラブクの家に対して、

うどん粉やそば粉などをタマブチと呼ばれる漆器の桶に入れて贈られます。

これをテマ見舞い、贈られる粉をテマ粉といいます。

またテマの期間中に着用する服をテマ着と呼びます。

火祭りが終わった翌朝、テマに出た人は金鳥居の下に戻ってくるので、

近所の人々がテマを迎えたといいます。

また、上吉田から逃げずに玄関を閉ざし家に閉じこもって火祭りをやり過ごし、

その旨の張り紙をして祭りの2日間は一種の謹慎生活を送る場合もあります。

これを俗にクイコミ(食い込み)といいます。

これらのしきたりは2012年現在も厳格に守られています。

ブクのかかった者が、それを隠してセコ(神輿の担ぎ手)となり、

神輿を担いだなら必ず事故に遭い大怪我をするといわれており、

実際にそのようなことが何度も起きているそうです。

 

なお、御師家においてもブクによる祭り参加の禁忌は固く守られていますが、

御師の場合、火祭りの当日には多くの講社を受け入れなければならず、

宿坊を締めるわけにもいきません。

そこで、御師本人にブクがかかった場合、

当人のみが部屋の奥の納戸などに閉じこもり、

宿泊中の講員らと顔を合わせないようにしています。

講社の世話や食事作りなどは、御師本人の配偶者や親類などの姻族にまかせます。

ブクは個人にかかるものなので、

血のつながりのない妻にはブクはかからないからです。

 

世話人

 

吉田の火祭りの挙行に尤も重要な役割を果たす役職が世話人です。

火祭りにおける世話人は、浅間神社の氏子地域を構成する上吉田地区の、

上中下の三町(宿)から選出される神社への奉仕役で、

この地に代々居住する地つきの家々の男性が年ごとに就任します。

 

構成は浅間神社に近い上町から4人、その下手にあたる中町から4人、

金鳥居のある下町および中曽根地区から6人の、計14人です。

年齢的には20歳代から40歳代の男性に限られており、

厄年(数え年42歳)までに世話人を務めるものとされ、

なおかつ既婚者であることが絶対条件です。

 

世話人は浅間神社の主要な年間行事にかかわりますが、

中でも火祭りは最も重要な奉仕であるとともに晴れの舞台であり、

祭りの顔役であり名誉ある役職ですが、長老格の祭役ではないので、

氏子住民や神輿の担ぎ手であるセコ(勢子)に対しては、

あくまでも遜った態度で接する下働き役に徹します。

 

火祭りの2日間、14人の世話役は揃いの衣装をまとい提灯を掲げ、

神輿の先導、松明への点灯など、さまざまな神事の運営にあたります。

ただし、これら祭り当日の運営指揮は世話人としての仕事の一部に過ぎず、

実際には長期間にわたり火祭りの準備作業に関わるさまざまな奉仕作業に勤しみ、

祭礼当月の8月になると、約1ヶ月間にもわたって自らの仕事も休み、

祭りの準備に忙殺されます。

中でも重要な仕事は、祭りのメインとなる大松明の奉納寄進者を募り、

その寄付集めに奔走することであり、祭礼半年前の春からその任務が始まります。

 

このような大変な苦労を伴い責任も重い世話人は、

近年では志願者の確保に苦労しています。

しかし、その重責を果たし終えた後の感激にはひとしおのものがあり、

祭礼2日目の神輿を納めた後、

随心門の前で世話人一同が男泣きする姿が今日でも見られます。

こうして世話人を務めた同期の仲間は固い絆で結ばれ一生涯の友となります。

また、「上吉田の男は世話人を務めて一人前」と言われ、

この地に生まれた男性であるならば、

一生に一度は世話人を務めるものとされています。

 

氏子と祭礼組織

 

浅間、諏訪両社の大例祭である吉田の火祭りは主宰こそ浅間神社ですが、

実際には氏子をはじめとする多種多様な立場の多数の人々によって

運営開催されています。

その中心となるのが上吉田地籍の自治会から構成される

北口本宮富士浅間神社の氏子です。

 

氏子総代は、上宿(町)、中宿(町)、下宿(町)、

中曽根の各町から2名の合計8名で、区内の選挙により選出され任期は3年です。

文化財としての「吉田の火祭保存会」は、この総代会の組織とイコールであり、

祭事全般におけるさまざまな運営の中心的な組織である

火祭実行委員会の進行運営会計を取り仕切ります。

 

この他の組織には神職、神楽を奉納する神楽講、氏子青年団、

地元消防団、神輿の担ぎ手である複数のセコ集団などがありますが、

吉田の火祭り特有の組織として、

上吉田地区内の御師から構成される北口御師団があります。

御師団は祭りの際、神職とともに白い祭服を着用して随行し、

外見上は神職と見分けがつきませんが、2基の神輿のうち、

先頭を行く明神神輿を担当するのが浅間神社の神職であるのに対して、

後方の御山神輿の神事を担当するのが北口御師団です。

 

火祭りにおける御師と講社

 

上吉田の御師は中世末期以降、

富士山と講社(富士講)を結ぶ役割を果たし、近世には86家、

明治初年には101家を数え、多くの講社を檀家に持っていました。

しかし太平洋戦中戦後の不況や、

1964年(昭和39年)に開通した富士スバルラインによって

登山経路が変化したことなどにより、宿泊者が減少し廃業した御師家は大野です。

 

2012年現在、北口御師団に加入している御師家は35家、

そのうち講社を受け入れ営業を続けている御師は、

筒屋、大国屋、上文屋、菊谷の4家です。

富士信仰の講社は、宿坊である御師に宿泊して浅間神社に参拝し、

富士山へ登拝し御師に縁のある山小屋に泊まり、

山頂で拝みを上げて下山するのが古くからの慣わしでした。

しかし今日では御師に宿泊せず休憩だけする講社が多いのです。

宿泊を伴う各講社は滞在中各種儀礼を行います。

 

【交通アクセス】

電車:富士急行線「富士山」駅下車、徒歩3分。

車 :中央自動車道「河口湖IC」から県道138号線経由で10分。

駐車場:無料約300台。

 

いかがでしたか。

祭りには底知れない魅力と気分を高揚させる何かがあります。

長年にわたって受け継がれてきた祭りには、

理屈では割り切れない人々の思いが詰まっているように思います。

たかが祭り、されど祭りといったところでしょうか?