日々、土器実測(仮)

発掘された遺物の図化作業メインのお仕事ブログのはずが、日々の徒然・スピ話ばっかりになっちゃってる日記。

考える

2011年02月28日 | Weblog
今日で2月も終わりです。
早かったのか短かったのか、よく分かりませんが、3月、どんな1ヶ月になるでしょう。

天使については色んな事を云われます。
でも、実際見えていない(感じられない)人は、見えていると思われる人の云う事を信じる以外にありません。
天使はお願いすれば答えてくれる、ヒントをくれると云われますが、私は本当にいるのなら何でもいいので私に分かるように印を見せて欲しいと長い事お願いしていました。
手紙まで書きましたが、でも一向に答えて貰えません。
全く天使を信じていない人が、もしいるなら印を見せてと云ったら、何処へ行ってもあり得ないような量の羽を見せられ、もう分かった信じますと降参したと云う話を聞いたりすると、何で信じてない人にばかり?と思ってしまう訳です。
これって完全に人を選んでると云う事じゃない?と。
しかも何とかして欲しいと云うのとはまた違う、天使の印を見せてと云う事ですら、答えてくれる人とそうではない人がいるなんて、もし天使の側に云い分があろうと、そうなる理由が分からない者からすれば完全な淘汰です。
更に、天使とコンタクトを取れると云う人からも、な~んかそれぞれ違う事を云われたりすると、それってホントに天使なの?と、中には疑心暗鬼を覚える人も出て来る。
その内、天使の存在そのものも疑わしく思えて来ます。

先日、天使に関する質問に答えて貰える機会を得て、こう云う気になった事を聞き答えて貰いました。
1つ分かった事は、私が天使の存在を知らず、当然意識もしていなかった頃に、天使がいると云う印を受取っていた事があると云う事です。
今は「エンジェルナンバー」と云えばかなりメジャーになって来ていますが、ぞろ目と云うのも天使の印と云われています。
レジでぞろ目になると何となくウキウキでレジの人との会話が弾んだりして、その時の事を鮮明に覚えていたりしますが、天使のての字もない頃の、この何度かあったぞろ目や印象的な数字の事をふと思い出しました。
それから匂い、私は匂いフェチなところがあり匂いにはかなり敏感です。
これも大昔の天使のての字もない頃、毎晩のように寝る前、とてもいい匂いがして来て何だろうと思っていました。
バラのような、甘酸っぱいいい匂いが顔の前をふ~っと通り過ぎて行くんですよね。
すーっと顔の前を何かが通ると云うか、風が吹き抜けるような感覚があって、それに時々とてもいい匂いが混じっている。
よく霊道とか云われる霊の通り道があると云われますが、もしかしてそうかなと思ったぐらいです。
が、全く怖さを感じなかったので、好きに通ってればと思ってましたが……。
当時、定期的にヒーリングを受けていましたが、何度も云いますが、天使のての字もない頃です。
セラピストはドリーン博士のオラクルカードをセッションに入れている人でしたが、この寝る前の話をしても、あらなんでしょうねで終わりでした。

天使の存在を知るようになり、特に印を見せてとお願いするようになってから、ぞろ目や匂いと云う事が極端に減った、と云うよりなくなってしまいました。
特に私は数字を意識して見ると云う事が元々なく、車のナンバーなんて全く見ないし、デジタル時計が嫌いで持っていないので、家の中でも私の目に触れるところにはありません。
ここ何年もお香を焚くようになっているので、部屋はお香の匂いばかりになってしまい、ちょっと違う香りがしても、お香焚いてるからと全く意識もしなくなってしまいました。

それにしても、どうしてちゃんと意識するようになってから、それと分かるようにして貰えなくなったのだろうと思います。
今ここで印が見えたらもうひと踏ん張り出来るのにと思っても、見えない感じない事でストレスの方が強くなってしまうと云うか、自分は見放されているんだと云うような気持ちになってしまうのですから、悪循環もいいところです(汗)。
意識している時分かった方が、断然いいに決まっています。
考えようによっては、やっぱり天使は意地悪だよなと思わないでもありません。
が、見えない・感じられなくなったのは、私自身の問題だったのかもしれません。
自分でも未だ理由はよく分かりませんが……。

今、ほんの少しとは云え、天使に対する疑問が解け始めたような気がしますが、この答えをくれた方が文句の多い私を責める事無く、まあ気楽に考えるのよ~風に云ってくれた事は救いでした。
また、自分が天使とコンタクトしているのだって、実は自分の思い込みでしかないかもしれないし、なんて事をあっけらかんとおっしゃるので、何だかこちらも変な呪縛から解き放たれたような感じがしています。
どんな人からどんな風に云われるかで、心持が全然違ってしまうのですからね。
心に響く、感涙に咽ぶような事を云われた訳でもないのに、私は元に戻って行けそうな気がしています。
これは天使の救いでしょうか。

放っておいてくれ

2011年02月27日 | Weblog
私は芯がなく、他人(の言葉)にとても影響され易いところがあります。
自分なりにやり始めた事が上手く行っている時でも、その事について、自分が信じている事とは違う風に云われたりすると、直ぐ気持ちが揺らいでしまいます。
どれだけ信じている事であっても、自分以外の人からそうではないと云われると、やはり間違っているのではないかと思ってしまうんですね。
自分に自信がないと云う事に尽きるのかもしれません。
信念を持っている揺るがない事と云うのは、意識している事の中には存在しない・出来ない気さえしてしまう。
今の私は、2時間ドラマで云えば(って云う例えもどうなのよ、ですが)追い詰められた犯人で、クライマックスの崖の先端みたいな場所にいるのですが、何とか安定した場所へ戻って行く為に思考錯誤しています。
そして、ほんの少し戻り始めたところ、と自分で思っているだけかもしれませんが、心が落込む事が減り始めて来ています。
だからこの状態を続けられるよう、少しでもアップ出来るよう、ここで余計な事が耳に入って来ないよう、目にしないようにと思っています。
変な話が聞こえて来ないように、そう云う文章を目にする事がありませんように、有難迷惑な人と何とか関わらずに済みますように(祈念)。
とてもゆっくりですが動き始めたように、薄っすら感じ始めたとことなので……。

波及

2011年02月26日 | Weblog
実際自分の身に起こっている事ではないのに自分の事のように感じてしまう事ってありますね。
嬉しい事ならいいのですが、それが辛い事だとかなりきつい……。
そう云う事もあら~なと、サラッとスルー出来ればいいのですが、聞いたら怒り心頭の強烈な話で、こちらの胸までもやもやして来る始末。
それを度々聞かされるので、聞いた時にどっと落込み嫌な気分になり、ふとした時に思い出して、また不愉快になる。
自分の事以外でも気分を落込ませ停滞させる事って、ホント困りますね。
非常にナーバスな問題も含んでいるし、少しでも吐き出させないとおかしくなるかもと思うぐらい酷い状態なので、云ってくれるなとも云えず。
大元で解決を見ない限りこの状態はこちらへも波及し続ける訳で、何とか上手く自分でコントロールするしかありません。
が、これが当分解決はそうもないんですよね。
奇跡を願うしかないなあ、双方の為に……。

何をしたい訳?

2011年02月25日 | Weblog
いいならそれで別にいいじゃん、なんでわざわざ云う事がある訳?
と云うような事が時々あって、イラ~~っと来ます。
そんな風になかなか思えない、でもそう思えるようにしたい。
なかなか上手く出来なくなった事にはちゃんと理由もあるのに、あら、私は出来ますのよん、ららら~みたいなの、ホントに腹が立って仕方がないんですよね。
こちらが努力する為の意思表示した後、私は前々から出来るけど何か?と云う風な事をあえて云う人、何なんでしょう。
自慢したい人?私はあなたとは違うからと云いたい?何なんだ?
こっちはそちらの話しなんて興味もないし聞きたくもない。
ってか、全く私に関係がない人なんだけど、なんでイキナリ湧いて出て来るか、何の目的があってこんな事をするのか理解に苦しみます。
これからやろうとしている人を不愉快にし、やる気をそぐような事をするのですから、性格がよくない人である事だけはよく分かったけど、これ、わざと不快にしてるんだよね?
もし自分がしている事が不快感を起さないと思っているのだとしたら、豆腐の角に頭をぶつけて来て下さい。
って、こう云う声は届かないんだよな。
それにしても、腹立つーーーー!!!

嫁姑

2011年02月24日 | Weblog
嫁と姑は一生敵同士と云う話を聞いた事がありますが、身近にリアルにそう云う事があるので、当たらずも遠からずかなと思います。
もう90歳になろうと云う姑が、未だ現役で嫁イビリをしている話、本当に恐ろしいです。
勿論嫁に一切悪いところがないとは云わないにせよ、悪いところを見つける事に生き甲斐を感じ、ひたすら嫁をいびる事に毎日を費やしている、不毛ですね。
後何十年に生きられる訳でもないのに(って、生きたりして・汗)。
亀の甲より年の功と申しますが、本当なら知恵者であるべきこの姑は、更に年上からのありがたい助言がないとダメみたいですね(となると、あの世からって事にになりそうだし、聞く耳持たないでしょうが・汗)。
だてに年食ってる訳じゃないでしょうに、少し知恵を使って上手く立ち回ればいいのにと思います。
一言ありがとうと云えば格段に差が出るところ、嫁だって元々の根性が悪い人では決してないのですからね、上手くやって行く気さえあればと思いますが、自分から進んで状況を悪くしている。
頼みの綱の息子からさえ、親子の縁を切るとまで云われるいびり様。
大体家事は一切しないわ、好き勝手にものを買いまくるわ、あらゆる事の尻拭いは息子夫婦にさせ、本当に好きなように生きて来たのに、まだ何が足りないのでしょうね。
この姑、倒れたら、動けなくなったら、一体誰に面倒見て貰うつもりなんでしょう。
苛め抜いた嫁の世話にならずに、生き通せるとでも思っているんだろうか。
いびってる嫁にも孫がいるくらい一緒に生活しているのに、この分じゃどちらかが死ぬまで状況が改善する事はなさそうですな(汗)。
あ~、本当に恐ろしい。

崩壊

2011年02月23日 | Weblog
自我と云うかエゴが崩壊してしまったら、どんなに楽だろうと思う事があります。
周囲には迷惑をかける事になると思いますが、そうなってしまえばそれすら感じないかもしれず。
エゴは人として生きている自分自身と云ってしまっていいのでしょうか。
こいつが、オレがオレがと出て来る間は、揺らぎ続けてしまいそうです。
エゴが自分自身なら、不安や恐怖をあおるなんておかしいとは思いますが、必要もないのに存在しているものではないはずだし……。

満月や新月ものだけでなく、アファメーションは何年も続けていたのですが、ある出来事以来、こう云う前向き思考みたいな事が一切バカらしく思え、やらなくなりました。
効果のほどが実感出来なかった事も大きな理由ですが、それでもこう云うアファメーションのような事が出来ている時と云うのは、多少なりとも状態は悪くないのかなと云う気もします。
落ち切ってしまうと後は上がるだけとは思えない後ろ向きの私は、この先、何をやっても上に上がれる気がしなくなりますからね。
もしかしてそう云う時こそ、アファメーションは有効かもしれませんが、最も必要な時必要な事が出来ない状態と云うのも何だかなと思います。
まあ私らしいと云えば私らしいですが。

スピ的な事であれこれやっても全く改善せず、一瞬は上向いても直ぐに元通りか、それより悪い状態にリバウンドしてしまう。
助けて下さい、よくなる為のヒントを下さいと願う事も祈る事も、他人に何とかしてお貰うと思っている、他力本願と云われます。
だったらもう全てスピ的な事を辞めてしまえばいいのに、現実の世界にすがれる人がいないと、どれだけ突き離されてもここにすがるしかなくなります。
情けないですね……。
壊れてしまったらどんなに楽になるでしょう。

自信か否か

2011年02月22日 | Weblog
自分と出会った事が私の転機になる、見えない存在が、苦しんでいる私と自分と出会わせて問題解決の手伝いをさせようとしている云々、今迄何度かセラピスト(別々の)に云われた言葉です。
要は自分と出会う事で私の人生が好転する、見えない存在が自分を私に出会うよう仕向た、自分は私にもたらされた、つかわされた存在だと云うような事を云われたのですが、それは相当自分に自信がなければ云えない言葉だよなと思いました。
好意的に考えれば、少しでもクライアントの気持ちを軽くする為とも云えなくもありませんが、現実はどうかと云うと、そう云う人に限って……、以下自粛……。

本当にそう思っていても、こんな風に云えるセラピストやヒーラーって、正直凄いなと思います。
自信に繋がるだけの人助けをしたと云う実績のなせる業か単なる自己満故か、その辺は今一つはっきりしない、まあどっちもありかなと云う気がしますが、どう云う職種(人)であっても、どうしても自慢臭い事を云わないとダメと云う人はいます。
やっている事が特殊であればあるほどそれが顕著に感じられますが、突き詰めれば自信の無さの裏返しでもあるのかなとも思われ。
でなければ余程虐げられて来たか、いずれ自己アピールが過剰であればある程、このどちらかではと思ってしまいます。
何も云わずともやる事をやっていれば評価は自ずとついて来る訳で、自分から聞かれもしないのにあれこれ云う必要はなくなります。
結局相手に自分の情報が何もない状態では、自分がどう思われるか不安で向合う事が出来ないと云う事ですよね。
或いは少しでも好印象を与えたい、自分は凄い人だと思われたい、いずれ自分に対する印象を少しでも良くしておきたいと云う思いがないければ、聞かれもしない自分からの情報発信は必要ありません。
他人からよく思われたいと云うのは大抵の人がそうだとは思いますが、あんまり必死に自己アピールばっかしてるとむしろ逆効果だと思うんですが。
何でも度を過ぎると、おかしな人だと思われると思うんですが、そう云う人には大きなお世話ですね。

日常からの離脱

2011年02月21日 | Weblog
映画が好きで、面白いと思えば何べんでも同じものを見に行きます。
で、更にDVDまで買ったりしますが、やっぱり映画館と云う場所へわざわざ出かけて行って、大きなスクリーンで見るのが1番好き。
一時期地元に映画館がない時は、車で1時間以上かけて見に出かけていました。
と云っても直ぐ行ける場所ではないと、まず自分の都合と相談しなくてはならず、今のようにお尻を軽くとは行きませんでした。
今も単館系のものは地元で見られる事は少なく、どちらかと云えばそっち系に見たいものが多いものの、昔のようにひょいひょいと行く気なれず終わってしまう今、DVDが出るのを待ち、何としても見たいものはお買い上げして見る感じです。
メジャー作品だけと云っても地元で映画が見られるようになると、余程の事がないと、車で1時間以上かけて映画に行こうとは、なかなか思えなくなります。
単に加齢による面倒臭さもあるかもしれませんが、映画を見るって結構体力使うんですよね。
映画は安くはないので、お得な日や時間に見に行きますが、今は明日をも知れない身なので、なかなかそれも簡単に行きません、本当に哀しい事ですが。

そんな中、行こうか迷っていたものの、やっぱり見ようと映画館へ行きました。
どうかなと余り期待せず見始めましたが、思った以上に面白くてあっと云う間の時間でした。
この感じがね、映画のいいところです。
映画だと、ごく普通の事もあり得ない事もどんな事であっても、その時だけは日常から離脱させてくれます。
それは自分の家で見るTVなどとは全然違う、そこにいる時だけ、全てを忘れてその時だけを感じていられる時間です。

この感覚は、今ここに在ると云う事に通じる気がしますが、今ここに在ると云うのは現実には相当難しい事だと思います。
日常ではそうは簡単になれないし、映画館でそうなったから良い方へ向く訳ではありませんが、何も全く出来ないよりはいい訳で。
しかしここ暫くは貧乏のせいで、見たい映画をどれだけ諦めたか……。
この先この状態がどれだけ続くのか、情けない事ですね、全く。

正直でも

2011年02月20日 | Weblog
自分に正直に生きろと云われますが、私がそうすると、何もしていないと思われると思います。
なので、自分では正直に生きている事が、神様のような存在からは、どうしても否定されているような気がして来る。
自分自身を正しいと思えないので何をするにも自信がありません、それが自分のしたい状態であっても。
特に、一般的にプラスに捉えられないであろう事が自分の思いそのものである時、これも否定されているんだろうなと云う思いに囚われます。
何が何でも自分はこう、こうする事が自分の正直な思いと、どうして腹をくくれないのでしょうね。

また他人にせいにすると云われるかもしれませんが、どう云う形であれ、肯定ではなく断然否定される事が多いと、そう簡単に自分を肯定するようにはなれません。
人から肯定されても、この人はなぜ私を肯定するのだろうと思ってしまうんですよね。
当然、自分で自分を肯定なんてとんでもない。
でも私は一旦、自分を肯定しかかった事があります。
それはとてもいい感じで、何でも上手く行きそうにすら思えました。
が、その後人生最大の否定がやって来た……。

どうしたら自分を肯定し、自分の思ったように生きる事を貫けるのでしょう。
どれだけ自信を持って始めた事も、その筋の人からバッサリやられると、途端にいけない事をしているような気になってしまう。
どんなに信念を持っている事も他人の言葉に揺らぐ、やっぱり私は芯のない人間と云う事ですね。
自分を生きていない、生きて来なかったと云われた事がありますが、どうしたらよかったのか、教えて欲しいです。

苦しい

2011年02月19日 | Weblog
もうそんな指摘をして来る人とは関わっていないのですが、あなたは他人に何とかして貰おうとしているとか他力本願と云う声がして来そうな気分です。
自分で腹をくくったつもりなのに、相変わらず物事が動かないと、本格的に、神様とか見えない存在からまで、そんな風に云われているような気持ちになって来る。
万策尽きているので、もうどうしようもないのですが、動いても動かなくても失敗ばかりして来たものとしては、どんな状況であっても不安で恐ろしくて現状が居た堪れない。
誰か大丈夫と云ってくれる人はいないだろうか。
大丈夫ではないから誰も何も云ってはくれないのか。
苦しくてどうにもなりません。