日々、土器実測(仮)

発掘された遺物の図化作業メインのお仕事ブログのはずが、日々の徒然・スピ話ばっかりになっちゃってる日記。

してもらったから

2011年02月18日 | Weblog
私は結婚しない事で、親戚連中から本当に云われたい放題云われました。
流石に今は収まりましたが、そこまで云うか?と云うぐらい酷い云われようで、私にはいいも悪いも選択する意思などない、とにかく結婚しろ、そんな感じ。
軽く人格否定ですね。
本当に腹が立ち、親に思わずやつ当たりした事が多々ありましたが、その時親に云われたのは、あんなに可愛がって貰ったのにそんなに悪く云うものじゃないと云う言葉……。
昔とっても可愛がって貰ったから、何をどんな風に云われても我慢しなさい、そう云う事です。
どう考えても理不尽な云いようですが、私の怒りを沈める術が分からなかったのかもしれません。
この手の話になると、石になるか瞬間湯沸かし器状態だったので……。

仕事関係の年上の人で、私にとても理不尽な事を云って来る人がいました。
それが10年以上続き、半ノイローゼになっていましたが、我慢の限界を超えた時、その人に自分の気持ちを正直に云ったら、私があなたにどれだけの事をしてあげたと思っているのと云うような事を云われました(ち~~ん)。
出たよ……と思ったのが正直な気持ちでしたけど、こう云う事を云われると何時も思うんです、自分がして貰った事は何処へ行っちゃったんでしょうねえって。

してやったから、して貰ったのだから、だから耐えろ、我慢しろと云う具合によく使われる言葉ですが、じゃあどれだけ恩に着せられていなくてはならないのでしょう。
して貰った事を延々とありがたく思い続けて、そう云う人からは何を云われてもされても我慢するなんて、全くおかしな話だと思います。
大体私が親戚連中から可愛がられたなんて話、赤ちゃんやら子供の頃の私に記憶にない時代の話が殆どで、一体それを何時までありがたく思い続けなくてはならないと云うのでしょう。
なんて云うと、恩知らずと思われそうですが(まあ事実そうなんですけど)、自分の記憶にある範囲内では、して貰って嬉しかったりありがたいと思った事には、出来る範囲でお返ししたり、何かしらお礼として出来る事はしているつもりです。
当然、云うべき時にはありがとうと云う言葉もちゃんと云ってます。
100%お返しする事は一生かかっても無理だと思いますが、こう云う事は出来る事をやって感謝の気持ちを伝える事ではいけないのだろうか、それでは足りない分、傷つけられるような言動にも耐えなくてはいけないと云う事なんてあるんでしょうか。

親戚から云われた事に対する親の反応はまあともかくとしても、これが友人関係だった場合、恐ろしいですよね、ホントに。
して貰ったらすぐして返さなくては、あの事へのお返しがないと思われてしまう。
それが積み重なって、あんなにしてあげたのに!なんて事になっちゃうんですよ、間に色々したとしても。
でもこんな損得勘定で友情って成立つんでしょうか。
ってか、これは友情とは云えないのではなかろうか。
自分がどんな状況でも、友だちが困難な時は全力で助けるとか、その言動の発信源はあくまでも好意であり、断じて損得ではないと思うのですが、違うのかなあ。
友人とは思いやりや信頼で結ばれていると思っていますが、友人の皮を被ったそうではない人もいると云う事、心しておかないといけないのかもしれません。
が、そう云う事を考えて付合うなんて出来ませんよね、少しでも友だちと思い始めた人に……。

我がまま

2011年02月17日 | Weblog
我が家の遠い親戚に、神がかりみたいになって拝み屋さんをやっていた人がいました。
小さい頃、祖母に連れられてそこへ行く事がありましたが、その人は既におばあさんでした。
我が家は、見えない存在や不思議な事に関しては否定しない家庭でしたので、ちょくちょくではありませんでしたが、何か大事な決断に迷うとここに出かけてお伺いを立てていたようです。
祖父母や家族が尋ねた事については充分参考になり信用していたと思いますが、どうも私の事に関しては「?」と云う感じでした。
仕事を始めるようになってからでしたが、母が聞きに行った事もあったし、私が聞いて来て欲しいと母に頼んだ事もありましたが何時も明確な答えがなく、毎回必ず云われる究極の答えが、「この人は我がままだから」でした。
何を聞いても答えはこれ一言、「我がままだから」。
我がままだから上手く行かない、我がままだから辛抱出来ない、我がままだから我がままだから我がままだから…、これのエンドレスです。
私は我がままではないとは申しませんが、この答えってどうなんでしょう。
私が聞いた事に、本当に我がまま以外に何の理由もなかったのだろうか。
この云われようで、自分が辛いと感じるのは我がままだから、哀しいと思うのも我がままだから、我がままではない私以外の人は辛くもないし哀しくもない、だからどんな事があって我慢しなくていけないのだと、ずっと思っていました。
私が周囲からどれ程我がままと思われているか、その辺はよく分かりませんが、拝み屋さんに云われ続けた事で、悪い事の原因の全ては自分の我がままだと云う思いが染みついてしまったのは否めません。

良い状態の時に云われる事より、よくない時に云われる事の方が、心に深く突き刺さって簡単に取り去る事が出来ません。
それが事実で自覚している事であれば、これでもかと再認識させられる事になるし、云う方の一方的な感覚であっても、自分はそう云う人間なんだと思い込まされてしまいます。
どちらにしても当事者にとって辛い事に変わりない……。

私は我がままだと云うのは、この拝み屋さんに云われるまでもなく、自分でもよ~~く分かっていましたが、起きる全ての原因が私の我がままと云う事には納得行きませんでした。
この拝み屋さんが繋がっていた「神様」と云うのは、一体どのレベルの「神様」だったのかなと思ってしまう訳で。
いわゆる見えない存在にもレベルが存在するらしいですし、何かと繋がれていると思って浮き立っても、実は悪戯されているだけと云う事もあるらしく……。
必ず聞いた事に明確な答えがあるとは思いませんし、ヒントとして与えられた事の中から自分で見つけて行く事が最善であればそう云う風になって行くとは思いますが、拝み屋さんの我がまま連発みたいになると、ちょっと眉に唾に思えて来ます。
だからどうと云う事がなく、単に我がままだからそれを直さない限りどうにもならない、それ以外に策はなし、とキッパリ云われている訳です。
100%我がままが原因だとしても、少しでもそうではなくなる方法、よくなる事へのアドバイスがない、出来ないなんてね……。
まあ我がままな私の考える事ですので、これも我がままで自分勝手な云い分と云う事になるのでしょうけれど。

2011年02月16日 | Weblog
自分の生きた証が残せないなんて……、と聞く事があったりしますが、みんながみんな生きたと云う実績(ってのも変な云い方ですね・汗)、証を残したいものなのでしょうか。
戦争など理不尽な死を強要される場合は、生きた証が何としても欲しいと思う事は十二分に理解出来ますが、今普通に生きていてこれと云う事もない人生でも、やっぱり?
私が変なのかもしれませんが(いや、確実に変なのでしょう、きっと)、私は死んだら何もかもなかった事にして貰えないものかと思っています。
私の事は即刻忘れて貰って、アルバムや記録からも全て抹消、生きた証と云うものをみんな消し去って貰いたい。
と云うか、最初から私なんていなかった事にして貰えないものかと思います、生まれて来なかった事に……。
まあ殆ど存在感のない人間なので、関わった人の記憶から抹消して貰うと云う点においては、自然消滅で心配の必要はないかもしれませんが。

私は自分の家のお墓には更々入る気がなく、出来れば骨は、火葬の後は粉砕して捨てて貰えないものかと思っています。
散骨やらお墓に入らない方法は幾つもありますが、お墓に準ずるものがあるのはやっぱり嫌かなと。

何か功績を残せるような人生であれば、証を残したいと思うのだろうか。
実際そう云う事がないのでその辺は全く想像出来ませんが、何かしらの事があれば、嫌でも記録なり記憶には残ってしまいます。
そうなった時、今と同じように人生抹消願望をどう感じるのかなと云う純粋な疑問は残りますが、そんな大それた事には絶対ならないので余計な心配ですな。

介護

2011年02月15日 | Weblog
もう何年も前の話ですが、私は母と祖父の介護をしていました。
ちょうど期限付きの仕事が終わったところで、そのまま仕事につかずに介護していたのですが、2人でやっていてさえ大変な事が多いのに、1人で面倒を見ている人、それも高齢の人はどんなに大変なんだろうと思います。

介護は体力的なきつさも勿論ですが、精神的なものが大部分ではと思います。
先の見えない不安、介護によって自分の人生を奪われたような気持ちになったり、色んな事で追い詰められたような気持になりますが、私が1番辛かったのは周囲の人の存在でした。
叔父や叔母の存在はその最たるもので、この人たちが発する言葉で祖父を憎く感じる事がどれだけあったか……。
こう云う親戚は多いと思いますが、口は出すけど、手とお金は出さないと云う最低最悪のパターンですね。
おむつ交換も褥瘡(じょくそう)の手入れも、ただの1度もした事がないくせに……。
たまに外から来れば、どうしてこんな事ぐらいと思われる事も、毎日の事となったらどうか、じゃあ自分たちなら出来るのか、そう云う事は沢山あります。
一緒に家族として生活して行くと云うのは決していい事ばかりではありません。
核家族であれば当り前に出来る事も、祖父母や小姑がいる事で出来ない事もある。
それは特別な時ではなく、ごく普通の毎日において、です。
勿論その逆もありますが、自由が利かない、制約されると云う点では断然核家族が楽です。
時間の自由とかそう云う事だけでなく、ちょっと茶の間にごろんと横になるとか家の中での小さな事も、祖父母がだらしないと嫌い出来なかったり、本来考えなく出来る事が出来ない。
そう云う、自分たちが当然の事として謳歌している自由は頭にもなく、良いところばかりで同居している家族を責めたてて来る、叔父や叔母は恐怖の圧力団体でした。

私はとても冷淡なところがありますが、圧力団体の言動もあって、祖父が死んでしまったらどんなに楽になるだろうかと何度思ったかしれません。
祖父がいる事で、私たちは好き勝手な想像をされ、云われなくていい事まで云われました。
よく、本人に罪はないのに、その人の周囲の人たちのせいで本人を嫌いになると云う事がありますが、そんな感じですよね。
決して厳しい言葉ではなく、自分たちは大意なく云った言葉が、云われた方にとって本当に辛い言葉と云う事は多々あります。
特に介護のような事をしている当事者には云ってはいけない、禁句と云うものがあるのですよね。
どっちにしても、私たちがやる事は何をやっても気に入らなかったのでしょうし、どんな風にしても大事にされていないと思われたと思います。
こう云う風に云いたい事を云う人と云うのは、自分たちは介護の経験をせずに終わってしまったり、結局何一つこちらの事情を理解しないままで終わったりするのですから、本当にやり切れません。

介護経験のない人が介護される側になる場合も、かなり厳しいと感じます。
特に年をとって我がままが度が増す人がいますが、そう云う人の傍若無人ぶりは、聞いていて耳を疑います。
私の、自分の価値観のみでしか物事判断しない知人なんて絶対信じないだろうなと何時も思いますが、結構私の周囲にはそう云う信じられない我がままばーさんが多いのですよね。
で、揃いも揃って自分には介護経験がなく、自分の子供を拘束し仕事まで辞めさせるような事を平気でする。
仕事を辞めさせるなんて事は、お金があるなしの問題以前の話で、結局子供の人生を自分の意のままにしているのと一緒です。
自分の子供だけでなく、他の家族まで巻き込む訳ですからね……。
前出の圧力団体ではありませんが、この手の我がまま老人も、自分は同じ事では辛い経験をせずに終わってしまうのですから、世の中はなんて不公平なんだろうと思います。

でもどんな状況であっても介護を辞めると云う事は出来ない訳で……。
どんなに酷い状態の中でも、このくそ爺にくそ婆と思いながらも、時折お互いに何かしら心の暖かくなる事やほろりとする事があり、そう云う本当に小さな事に支えられ、何とかやれている気がします。
可愛がって貰った事や色んな思い出もありながら、現実は苛立ちや色んな感情と戦い、複雑な気持ちなの中で介護している訳で……。

どんなに健康な人であっても、あの世へ逝かない人はいません。
人は色んな思いを抱えていて、腹をくくって逝く為の準備を整えている人もいれば、どんなに身体の自由が利かなくなっても家から離れないと頑張る人もいる。
この先に何事もなく老衰で死ぬのであれば、私は血の繋がった人のいない中で死んで行く事になると思いますが、スッキリあっさり、極力他人の手を煩わせないようひっそり逝けたらなと思います。
死ぬ前に、お棺の中に入るとこまで出来たらいいんだけどな(汗)。

理由のひとつ

2011年02月14日 | Weblog
スピ界に関わる困ったチャンセラピストたちについてですが、この前てくてくと歩いている時ふと思った事があります。
ご気分を害される方もいるかもしれませんが、困ったチャンの理由の1つではと思われる事として、全員生きる為、生活する為の仕事としてやっている人ではないと云う事に気がつきました。
勿論そう云う環境にあってもきっちりされている方はいますし、実際何人も存じています。
が、私の知る限りではありますが、やっぱり死活問題ではないと云う事は、困ったチャンになる理由の1つとして大きいのではと思います。
私が出会ったと云う前提ありきですが、セラピストは生きて行く為の仕事ではなく、たまたま興味があった事を習いその能力が通用するかを試したい、或いは趣味の延長と云う人が殆どではないでしょうか。
こう云っちゃ悪いが、あくまでもお小遣い稼ぎでしかないと云うか……。
当然やる事は人助けですので、そう云う意思の元に始めてはいるのでしょうが、それが出来なくなり収入がなくなっても、生活に金銭的支障をきたす、死活問題に直結すると云う人はおりません。
私が知りうる範囲ですから狭い世界ではあるでしょうが、もし自分の仕事が生活費に直結するなら、恐らく今のようなやり方では続かない人ばかりだと思われます。
本気で取り組まれている方と困ったチャン達には明らかな違いがありますから。

やってはいけない人の定義がある訳でもなく、明確な線引きがあるでもない業界ですから、どんな人でも出来るし始めるのはその人の自由、勝手です。
でも、自分がどう云う環境・状況で始めるか(現在進行形含む)はともかく、どんなに微細であっても人の心に関わって来る事をしていると云う自覚を持っているのか、ちょっとしたお小遣い稼ぎになんて簡単にやって貰っちゃ困るのよと云う気持ちです。

自分は人を恐怖に陥れるような事はしない!とキッパリ云われているセラピストから、あなたの右肩に何かいると、全く聞いてもいないのにイキナリ云われた事があります。
これがこの人にとって怖い事ではなく、教えてあげたと云う好意だとしたら、それこそ恐怖に陥ります、別の意味で……。
何を意図して云われたのか未だに理解する事が出来ませんが、私が恐怖に慄いたのは云うまでもございません。
メールも電話も異常にテンションが高く、温度差が軽く10度くらいある人だったので、単純に相容れない人だったのだろうと思う以外ありません。
でもこう云う方の発する言葉と云うのは、完璧に「術」です、いいも悪いも。
私の大好きなソウルナビゲーターの方もおっしゃっていましたが、セラピストやヒーラーの「言葉の術」にかかってしまう事、本当に多いと思います。
特にマイナスの事を云われた時、これは本当に不安と恐怖で一杯になると思いますが、ここに怪しい宗教が絡んだりすれば、変な壺をあり得ない値段で買う事も何とも思わなくなるぐらい、セラピストやヒーラーの言葉はと云うのは影響力があるんですよね。
どんなに信頼している人の言葉も叶わない、その辺の人のものとは違う、別格なのです。
自分の発する言葉の影響力を全く分かっていない人が多過ぎます。
私だって、右肩のものを祓って貰える人を知っていると云われ、まんまと行ってしまいましたからね、諭吉と別れる事になるのに。
純粋な人助けだと云いながら、クライアントをドツボに落とすセラピストやヒーラーは、怪しい金儲け宗教と変わりないような気がして来ます。
本当に、そろそろ淘汰されていもいい時期ですよね。
飽和状態でしょう、スピ業界。

辞めてしまえば

2011年02月13日 | Weblog
ブログを書く事で、心にわだかまっている事を吐き出す代わりにしているところがあります。
でも、自分にとっての疑問や不信感を何とも思わない人もいる、そう思うと、如何に正気な気持ちでも、それを読む事で不快な思いをする人もいるのだろうなと思います。
が、やはり書かずにはいられないのですよね。
子供の頃から云いたい事が云えず、ぐっと飲み込んでばかり来て、言葉で口で、上手く自分の気持ちを伝える事が出来ません。
その内、云えないなら書けばいいと云う事に気付き、それからはどうしても書く事に走ってしまいます。
もう長い長い時間そうして来ました。

プレゼントに当選したセッションで、表現すると云う事が浮かび上がりました。
書く事は私にとって表現の一つ、と云うより、今はほぼ全てと云ってもいいかもしれません。
だからと云って、ブログを書く事が表現すると云う事に繋がるかどうかは分かりません。
何せ不平不満に愚痴が殆どだから。
ですが、これを辞めてしまったら自分が壊れてしまうのではと思います。

ちゃんと消化出来ない事が、何時までも心にわだかまったままになっていて、その事が頭から離れなくなってしまうと云う、悪い心癖があるのだと思います。
それを書くと云う行為で、少しでも外に出せるような気がする。
消化を助けてくれるような気がするのです、多分勝手な思い込みだとは思いますが……。


1歩踏み出せば動き出す、世界が変わると云われますが、物事が停滞していてそれを何とかしたいと思う時、或いは夢を叶えたいと思う時、どうしたら1歩を踏み出した事になるのでしょう。
とても行けそうもない場所へ行ってみたいと思う時、その場所への旅行のパンフレットを取り寄せるだけでもその旅に近づくと云われますが、そう云う事であれば私だってと思う事が沢山あります。
でも現実には動き出す気配もない、どうにもならない事ばかり、一体何がいけないんだろうと思ってしまう。

他人のせいにしてはいけないと云われます。
全ては自分の責任、気付かなくても自分に原因がある、薄っすらであってもこの事を理解する事は出来ます。
でも、何をやっても上手く行かない、動き出したとは云えない状態のままでいる時、この原因は何なのかと考えてしまう訳です。
私は指導霊とやらから散々な事を云われましたが、結局こう云った存在がよしと認めない限り、実際には動き出さないのではと思えてなりません。
幾ら自分でやったと思っても認めるべきものがよしと云わなければダメ、今迄の経験からはそうとしか思う事が出来ないのです。
でもこれすら自分の責任だと云われたら、自分で自分が動き出す事を認めていないと云う事になります。
心を決めて行動を起こしてすら、実は自分が認めていないと云うのならどうしていいのか分からない、自分で自分をコントロール出来ないと云う事ですよね。
だとしたら、それを出来ない人間は、何をやっても何度やってもダメと云う事になる。
自分で気付く事の出来ない心の奥底の問題だとしたら尚更、どんなに頑張ったところで、そのステージにいるまま次の場所へは移動が出来ません。

よく波動の同じものを引き寄せると云われます。
ですから、考え方を変えれば良いものを引き寄せられると云う理屈ですが、現実にいるステージが変わらない限り、今いる場所以上のモノや事、人を引き寄せることは不可能とも云えますよね。
考え方を変えただけでステージが上昇するのだとしたら、私だってとっくに変わっているはずですが、何かが足りない、やり方が悪いと云われます、こう云う事を云うと何時も……。
私のようなバカにもちゃんと理解出来る説明はないものかと思いますが、あなたの心がけが悪いで終わりそうですね。

そうしない理由

2011年02月12日 | Weblog
感謝はするけど反省はしない、反省しても謝罪はしない。
上記は私の思うスピ業界の困ったチャン(特にセラピストとそれに類似する人)の特徴ではと思われる点ですが、こう云う困ったチャンはなぜ出来上がるのか、その理由は何か……。
ちょっと考えました、ワタクシ。

まずは、人と云うのはありのままの自分でいいから、悪い事(と本人は思っていないかもしれませんが)をしてもそう云う自分を認める事でその事は完結する、よって反省は必要なし。
後ろは振り返らず常に前向きに、と云う事か。
少しはマシに反省はする場合でも、謝罪すれば、自分のした事(または人間性)は失敗や悪い事で、本来あってはならない状態にしたと認めた事になってしまう。
それはまずい、だから自分の心の中で反省はしても、断じて謝ってはならない、と云う事か。

プライド、なんでしょうか。
する側とされる側と云う図式の中で、する側が常に何においても上である、であるべきと云う考え方。
でも感謝だけして反省しないと云う事は、同じ場所に留まらざるを得ない状況を自ら作っていると云う事にはならないのだろうか。
反省しなくてもありのままの自分を認めればチャラになり、そこでワンステップ上昇出来るのか。
実際ステージは上昇しているのでしょうか?
謎です。

言葉遣いは綺麗ですが、クライアントの事を否定するような云い方をするセラピストは沢山います。
そう云う考え方だからいけない、そう云う事をしたのがいけない、やんわり、にこにこしながら厳しい事を云うのですが、それはそう云うやり方なのでしょうから、酷い事ではないのだと思います、多分。
が、散々云うだけ云われて私って最低なんだと云う気分になっている時、でもあなたはあなたのままで大丈夫、ありのままの自分を愛してあげて、なんて云われたって、はいそうします、なんて素直には思える人なんているんでしょうか。
下げて上げてと云うテクニックなのかなあ。
でも同じやり方が全員に通用するとは思わないんですよね。
実際、クライアントを否定する事を、きちんとしたスキルと自覚して使っている人ってどの程度いるのだろうと云うのが率直な疑問です。
セラピストやカウンセラーから云われた言葉と云うのは別格、その辺の人から云われる言葉と同じものではございませんからね、当然その事を分かった上でやっているのでなければ、たまったものではありませんが。

スピだけでなく最終的に何事においても、行きつくところは人間性の問題と云う気はします。
能力があっても使い方と云うものがあって、向き不向きは確実にある事なので、やっちゃいけない人は山ほどいると思う。
でも好きな事は、自分がすべき事と云うのがスピの云いよう。
向かないのに好きだけで始めてしまった場合(こう云う場合、ご本人は絶対気付かないでしょう)、スピ的に自分は良い方へ向くのかもしれませんが、関わって傷ついてしまった相手と云うのはどうなるのか。
これは生まれる前に決めて来た事だから仕方がないで片付けられるのでしょうか?
何においても、この人やってていいの?と云う人はいるものですが、それにしたってねえと思う人、スピ業界には多過ぎるように思えてならないのですが……。

安堵

2011年02月10日 | Weblog
温度差がある人と云うのは、直接会わなくても非常に消耗するものですが、そう云う方とメール交換をしていて、かなり厳しい思いをしていました。
向こうからメール交換の話を持ちかけられ、当初は別にいいかなと思ってOKしたのです。
が、想像以上に温度差があり過ぎて、メールを読む度どっと疲れてしまう。
同じ事なのに、ここまでテンションが高くて思い入れに差があるとは思っていませんでした。
とにかく自分が書きたい事を物凄い勢いの長文で間を開けずにメールが届き、返信を書くにも一苦労。
返信を書く以上はちゃんと書かなくてはと頑張ってメールに向合うのですが、どんどんしんどくなって来る……。
嫌いな事ではないはずなのに、その事を嫌いになってしまいそうでした。

1度、共通の話題以外の事をちょっと書いた時、自分には分からないので何も云う事が出来ないと書かれた事があります。
正直と云えば正直ですが、要は分かる分からないではなく、自分には関わりがないので聞きたくない、そう云う話はしてくれるなと云う云い回しです。
何と云うか、とっても分かり易い人なんですね。

相手が普段書かない事を書いて来たと云う事は、何かしら思う事があったり聞いて欲しいと思うからではと、私なら思います。
ですから、決していい恰好をする訳ではありませんが、それに対しては、自分が出来る範囲では応えたいと思います。
勿論余りに重過ぎる事については軽々しく云う事は出来ないし、全てにちゃんと返事が出来る訳ではありません。
でも気持ちと云うか、誠意と云うのはちゃんと伝わると信じています。
ですから出来得る限りでと思うのですが、自分がそうだから相手がそうだとは限らない訳で。

ああ云う事が書かれていた事で、私は自分がメールに書いてしまった事を本当に後悔しました。
しまった!と云う感じですね。
普段なら絶対しないのですが、魔が差したと云うやつだったのだと思います。
でも少ししたら、今度は相手が私が書いたのと同じ事をメールに書いて来ました。
ああ云う事を云ったのに、自分が関わる事になるとコロッと変わって、これまた超詳しく長文です。
ちょっとこれどう云う事?と思いました。
しかもテンションの高さは同様で、とうとうついて行けなくなってしまいました。
先日、ある程度状況を説明し、もう終わりにしましょうと書いて送信したら、やっとメールが来なくなりました。

結局この人は、ただ単に自分の思いをぶつける相手が欲しかっただけなんだと、時間はかかりましたが気がつきました。
自分に確実に反応してくれる相手だからメールする、それ以外の理由は何もなかったのでしょう。
どうも自分とは合わない感じだと云う事に薄々気づいても、なかなかメール交換を辞められずにいましたが、自分がまいた種のせいで終わらせる事になりました。
結果はオーライですが、自分の痛さも省みる事になりまして……。
何処まで行ってもどう云う状況でも、人間関係、上手く行きませんな。
色んな事を含め、どんどん凹んで滅入って来ます……。

苦手

2011年02月09日 | Weblog
私は人と上手く付合えません。
この人はダメだと思うと自分から遠ざけてしまうと云う事もありますが、本当に限られた人としか付合いがありません。
昔はこんなではなく、あの人友だち?と聞かれるぐらい、初対面の人ともすぐ打ち解けられましたが、今じゃなるべく人と関わらなくてはならない場所へは行かないようにしている。
まあ、自分勝手なんだと思います。
嫌な思いをしたくない、面倒に極力巻き込まれないよう常に防御していて、なるべく平穏に過ごせるように……、その為の努力が、私の場合人付合いを避けると云う極端な結果になったのですが。

先日2年近く会っていない人からメールが来ました。
ある種のお見舞いメールだったのですが、この人は自分の価値観でしか物事を見ないと云うか、自分の価値観から外れた事は、いかなることも認めない、信じないと云う人。
理由があって出来ない事も、そうしない事が悪いとバッサリ斬捨てるようなところがあって、なぜそうなったかと云う深いところまで見る気がない。
自分が認められなければ、そこにいかなる理由が存在しようとも全てが云い訳と云う事になるのです。
正直ただ単にご飯を食べるだけでもきつかったりします。
こんな事があったと云うと、これがこうでこうなってだからそうなったんだねと云う具合に、その人の中でストーリーが勝手に作られてしまい、いや、全然違うんだけどと思っても話になりません。
自分が経験していない事についてはもっと酷くて、そんな事ある訳がない、あんたが特別変なんじゃないと云う感じです。
あんたの住んでる世界の広さはどれだけのもんじゃい!と思ってしまう訳ですが、自分は海外にもよく行って色んな事を知ってると云う自負があるからどうにもならのです。
面倒なので会う事も減りましたが、どうしてこんな風になるのかなあと云う、観察対象としては面白い人かなと思います。
が、お付合いはご免こうむりたいです。

長く付合いが続いている人と云うのは、割とお互いの事を、家族や周囲の事も含めて詳しく知ってはいるけれど、自分からはあれこれ詮索して来ない人ばかりだなと思います。
こちらから云えば聞くし、そこから話は発展して行きますが、そうでもなければあえて話さない事をほじくり出そうとするような事はしません。
昔からの、学生時代からの友人と云うのは、気のおけない人ではありますが、どうしても細々した事が気になるみたいで、会うと必ずそう云う詮索じみた話から始まる事が多いので、鬱陶しくて会いたくない。
単なる近況報告程度じゃ済まないと云うか、本当に知りたがるんですね、どーでもいいと思うような事まで。
私なんて何にも変化もない人生で(確実に悪くはなってますが)、話す事自体殆どない、と云うより、昔から余り自分の事は話したくない方だし、友人とかそう云った人の事に、正直私は全く興味がないんですよね。
更に噂話ね、三面記事みたいな事ばっかりで、最初の内はいいのですが、段々ついて行けなくなります。
人に合わせると云う事も大事だとは思いますが、仕事とかそう云った事以外、本来気を抜いて楽しくあるべきところでまで、無理して合わせなくちゃいけないなんてどうなんでしょう。
それでも付合いは大事にしなくてはならないのだろうか……。

人に云っても余り信じて貰えませんが、私は本当に、そんな事あるの?と云うような人間関係の中に身を置く事が多々あったので、とにかく日々何事もなく平穏に過ごす事を1番に考えてしまいます。
何時も胸の辺りがもやもやして晴れない、その事が頭から離れない、考えるだけでどっと暗くなる、こう云う事が少ないと云うだけでも全然違います。
自分でいい状況を作れるなら私は迷わずそうしますが、結果、人との付合いを減らすと云う事になったのだと思います。
人付合いにおいて嫌な思いをする事は避けられないと思いますが、それが余りに多かったり悪いと云う意味で特殊と感じられる人とばかり接していると、もうやだとなっちゃいますからね。
人に対する恐怖心は増していますが、それを解放する事は出来そうもありません。
引き寄せたと云われたらどうしようもありませんが、学習し蓄積されたものの影響は小さくはないので、それを忘れて心をオープンにしようとそうそう思う事は出来ません。

それでも……、ガッツリと対峙しないと問題解決した事にはならないのでしょうか?
似たようなループに陥ると云う事は、問題の解決がなされていないからと云われますが、私は前出のような人間関係にどう向かって行けばいいの全く分かりません。
逃げるもの策の一つと云われますが、立ち向かうべきか逃げてもいいのか、その判断すら出来ない。
向かって行って失敗した事、逃げて失敗した事、どっちも数知れず……。
そうすると、もうどーでもいいやとなっちゃうんだな。
負の連鎖って、そう簡単には断ち切れないと云う事ですね。

文明の利器

2011年02月07日 | Weblog
当地は寒冷地ですので、今の時期、停電したり暖房器具が故障なんて事になると、大袈裟じゃなく生死に関わって来る大問題だったりします。
先日不思議現象が起きまして、1回茶の間のストーブが突然消えてしまいました。
物凄く寒い時でしたので、げっ!故障かー!と大慌て。
我が家はこたつと云うものをしておらず、このストーブと予備にファンヒーターが1台あるのみ。
ストーブは床暖房と一緒になっていて温風も出るタイプなので、これ1台で充分暖かですが、結構なお値段がします。
買換えとなるとそれなりの出費だし、場合によっては取り寄せなので、これはどうしたものかと思っていたのですが、少し経ったら何事もなかったように元に戻りました。
それ以来何の不具合もなく動いてくれていて一安心ですが、何と今度は便座が……。
故障していると思わず座ったので、思わずひぃ~~!と声が出ました、余りの冷たさに。
元々冷たいと分かっているものなら別ですが、暖かいと思ったものが冷たいのはショーゲキ。
しかもこの時期、やっぱり冷たい便座はきつい。
特に暖房便座の冷たさは、そうでない便座より格段にきついかと思われます。
便座が温まらなくなっただけでなく、脱臭もせず温水も出なくなってしまいましたが、便座はストーブのようには行かず、遂に昇天してしまいました。
新しいものを設置するまでの約1日は、元に戻ったり冷たくなったりの繰返しでしたが、昇天の直前は、便座の温度が下がって温水が異常に熱くなると云う現象を起こしてこと切れました。
それにしても、文明の利器(爆)に慣れてしまうと、それがないだけで動揺するし暮らしていけないような気がしてしまうのですから情けない。
便座は電気屋さんで見たものと同じものがネットで相当安価になっていた上に、翌日には届くと云うので、今回はネットで買ってみました。
便座をネットで買うなんて想像した事もありませんでしたが、ホントに便利な世の中になったもんですね。
安い上に直ぐ届くのですから……。

それにしても、寒い時期、暖を取る為のものがダメになるってこんなに大変な事かと思った出来事でした。