日々、土器実測(仮)

発掘された遺物の図化作業メインのお仕事ブログのはずが、日々の徒然・スピ話ばっかりになっちゃってる日記。

前倒し

2012年12月30日 | Weblog
クリスマス過ぎからずっと日にちを1日勘違いしていて、今日は大晦日だと思っていました。
が、まだ1日ありましたね。
この勘違いのお陰でゴミ出しやら何やらうっかり間違えてしまいそうになり大慌てで大変でした。
出し損ねたごみも後からわらわら出て来るわ……。
家族と話していてもどうにも話しが噛み合わず、その度、ああ1日間違えたと思う事の繰返しでした。
どうしたんだろうなあ、オレ様。
変なスイッチが入ってしまったようですが、新しい年が来れば元に戻るでしょうか。

ここ数年は毎年、今年は最悪状態を更新していましたが、今年は最上級だったと思います。
本当ならもういないはずだったのに、全く上手く行かないものでこの様だし。
情けないと云ったらありませんが、これが結果なのですから仕方がありません。
死に水だけは取ってくれとは云われましたが、こればかりは確約しかねます。
努力はしますが、チャンスがあったらごめんなさいよ、です。
とりあえず、そう云うチャンスが来るまでは、何とかダラダラ行くしかありませんが。
何処まで行けるか全く想像が出来ない、本当に今はただ生きてるだけですが、少しでいいからマシな状態になってくれればと思います。

良いお年をお迎えください。

身の丈

2012年12月25日 | Weblog
12月初旬まで、動悸やら何やら心の臓の具合が妙でした。
脈が乱れるのは普通で、上から心臓を圧迫されているような感じで苦しく、大きく呼吸しなくてはならず。
やっとそう云う状態から解放されましたが、何だったんでしょう。
一応この妙な状態の時に健康診断を受けましたが、取り立てて異常はなし。
実はそう感じていただけの話しでしょうか、分かりません。

個人が幸せでなくては世界の幸せはない、と云うような事を宮澤賢治さんがおっしゃっていましたが、そうなんだろうなと思います。
自分がろくでもない状態の時に人の事に心を寄せる余裕なんてものはありません。
もしあるなら、ちょっとでも自分より大変と思われる人に同情する事で自分の立ち位置が、まだ少しはマシだと思いこみたいと思う心理ではないのだろうか。
そして、祈れるとしたらそう云う人に対してのみですね、今は。

世界・地球規模の祈りをするべきセラピストやヒーラーは、基本私のように下々のものとは関わらないのかと云えばそんな事もなく、セッションだなんだはエライ人も下々と同等だったりします。
稼ぐ時は一気に降りて来るんですよ。
でも云う事が下々のモノには通じないと云うか、現実離れしたような実感が湧き難い・出来にくい事なので、幾らリアルに想像しろだの何のと云われても、云われてる事が全くリアルでないと云う皮肉の元、さっぱりいい方へなんぞ向かないんですよね。
結局下々へのセッションは、レベルが違い過ぎてやっても意味がないと云うか、そんな感じでしょうか。
エライ先生たちのセッションは、下々のものには高尚過ぎて噛み合わないってとこかな。
そう云う人のセッションを受ければ、自分のようなものではよくなれる、そんな風に思っていましたが、身の丈を考えろと云う事なのかもしれません。
先生たちはクライアントの目線に降りてくれる訳でも合わせてくれる訳でもありませんからね。
クライアントがいい人と思える人と当たればラッキーと思うしかないと云う事でしょう。
やってられねえと云う気分ですが、大枚はたいてこれが現実です。

あんまりだ

2012年12月23日 | Weblog
アセンショ~ンの3日間、皆様どうお過ごしでしょうか。
山の下からUFOから出て来たり、宇宙人が到来した場所はあったのでしょうか。
少なくとも超凡人のオレ様には、全く何も起こっておりません(あったり前だっつ~の)。

このアセンショ~ン中、祈ったり瞑想したりするといいらしいですが、一瞬試してみたら、まあ苛々するわ腹立って来るわ、大嫌いなとんでもセラピストたちの顔がわらわら出て来るわ、もう吐くんじゃないかと思って即効辞めましたよ。
ったく冗談じゃねえよ。
こう云う時に清い心で瞑想出来る人がアセンショ~ン出来るんでしょうね。

祈りましょうって云うんですが、何を祈ればいいんでしょう。
自分の事を祈る時、そこに私利私欲があれば叶わないらしいですが、私利私欲のない個人的な祈りは、今のワタクシには出来ません。
人様の事や世界規模・地球規模の祈りなんてものは、自分がしんどくて死にたくてって人には無理です。
他人を思いやる余裕のある人のする事。
とか云うと、感謝する事を見つけましょう、そうすると自分が如何に恵まれているか気付くとか云うんですよ。
が、今の自分が感謝できる事は、雨風しのげる家がある、三食食べられる、寝られる場所があるとか、人が生きる最低限のレベルの事しかありません。
確かにありがたい事ではあります、生きなくてはならない上では。
が、それらは当然の事として、自分の生きがいを見つける事ややるべき事を探しているような人達が感謝する事はなんだろうと一瞬でも考えてしまうと、自分の惨めさとか情けなさとかだけが身に染みて、どんどん気分が落ちてしまいます。
そもそも比較する事が間違いではありますが、スピ業界のエライ人たちの云う事は、私のような末端の人間には一切該当せず、生きる最低限の事はクリア出来ているどころかそれなり以上の生活が出来ている人に対する事ばかりです。
生き甲斐に悩むどころか生きる事に困窮している人はそう云う人達が思っている以上にいて、まずはそう云う人達に手を差し伸べ祈ってくれる方が余程親切ではと思いますが、下々のものは自分で解決しなさいと云う事らしい。
エライ人たちが云う幸せになる方法は、下々のものには全くと云っていいほど出来ないやり方ばかりですが、よくなりたいならやるしかないと、信じられない云いようで上から来る。
本来こう云うところにあるべき救いと云う気がするのですが、大規模な事ばっかりに行っちゃうスピのエライ人達。
どんな人や状況にも心を寄せられない時点で、セラピストやヒーラーとしてはどうなんだろう、ついてけないどころか、別世界の人たちに思えます。
実際、超御立派な別世界の人達ばっかですけどね。

選民思想

2012年12月20日 | Weblog
何だかさっぱり訳の分からん「アセンション」ですが、みんなに平等に(大笑)起きるような事を云っている人も、実際は選民思想ですよねと云う感じ。
勿論選ばれてる人間に入ってるんですよ、その人やその人の親しい人達は。
博愛主義で平等ぶってるセラピストやヒーラーが云ってる事を注意深く見てみれば、自分達側と下々の民(オレ達さ・笑)との違いを結構ハッキリ云ってたりして。
多分本人気付いてないけど。
とんでもないエネルギーが降り注いでいて、選民の皆様は大層大変な事になっているらしいですが、なってない人は関係ないって事らしいから多分大丈夫でしょう(笑)。
一体脳天が開くってどう云う事なんでしょう。
もう立派に危ないでしょうと思うのですが、そうじゃない人が変みたいになってますよ、1部のスピ界では。

ある作家が、「生き甲斐なんて事を考えられるのは、明日の飯の心配をしなくていい人間だから。明日食うものの事を心配しなくてはならないのに、生き甲斐も夢もあるか云々」と云うような事を云っていましたが、全く同感です。
スピの世界で声高に云われているウキウキワクワクだの夢を叶えるなんちゃらのワークだのと云うのは、まずは食べるとか必要最低限の支払が出来るか否かと云うような、人が生きる根っこの部分を考える必要がない、そんな事はとうにクリアしているレベルから上にいる人にしか通用しない話しです。
その辺の事を全く分かってない人があーだこーだ云ってるのを聞くと、幸せボケしてるんだなと思ってしまう。
まさかそんなに困窮している人がこの日本にいるなんてぇ~とか云い出しそうですが、自分の知っている世界が全てではないと云う事を知るべきですね、能天気なセラピストやヒーラーは。
それとも、私の役目は壮大な事だからとか何とか云うんかね(爆)。
その能天気さで人を傷つけている事に気付かないのに人助けだの地球を救うだの云ってんじゃねーし。
アセンションとやらで、こう云うしょーもないのが淘汰されてくれたらと思いますが、この方たちは選民なのよ。
立派な方々なのですから、よくなるだけなのです。
上に上に上がり過ぎちゃって、水蒸気にでもなっちゃうんでしょうかねえ。
そしたら消えてくれるよね(笑)。

大量に

2012年12月18日 | Weblog
何やらアセンションとやらの影響か、宇宙からのエネルギーが大量に降り注いでいるそうですよ、奥さん。
このエネルギーは受取らなきゃ損だそうですよ、奥さん。
って、私の周りに降り注いでる事知ってる人もいないし、当然受取れてる人も誰ひとりおりませなんだ。
と云う事は、大損してるんでしょうねえ。
あ~、勿体ねえ勿体ねえ。
垂れ流しじゃないねえ、受取れない人は。
感じなくても受取っているとは絶対云わないんだもん。
とか云うと、しっかり受取ってると断言する方々はおっしゃる、あくまでの自分個人の感覚でしかなく、誰とでも共有出来るものではないのだそうです。
受取れるレベルにある人だけがよくなればいい、そう云ってるのと一緒じゃん。
どれだけ降り注いでいるのか存じませんが(ってか、ホント降って来てるのかよ・汗)、受取れない人って可哀想ですよねえ(オレかよ)。
突っ込みどころ満載の事ばかり書いて、前に云ってる事と違うと云われてもめげずに都合のいい云い訳三昧。
スピ界もですが加担しているセラピストやヒーラーのとんでもないぶりには呆れるしかありません。
自分で都合のいい云い訳して、結果辻褄あってない事とか気付いてないんだよね。
まあスピの云い訳は無限ですので、ああ云えばこう云う、突っ込むだけ不毛。
だからとんでもないのが増長するのですが、あ~あ、ホントにこんなのばっかがウキウキワクワク、不快感まき散らしてもいい風になって行くなんて、神様ホントに見てんのかよ。
真っ当なセラピストやヒーラーも一緒くたにされちゃって、もしかして今は最悪の状態じゃないの思うのですが、どうなんでしょうねえ。

使命感なのか

2012年12月17日 | Weblog
大事故や大病で九死に一生を得ると、「自分は生かされた」と云う風に云いますよね。
でも自死しようとしてしくじってしまった時は、そう思わない人も相当います。
元々生きる事を辞めたいと思っていたのだから、何度も繰返してしまったり、生きる屍状態になってしまったり。
勿論そこから生きる事に前向きになれる人もいるのですが、全員丸っと含めて「生かされた」と思うって、どう云う心境なんでしょうか。

私は物凄く根性が悪いので、生きるべき人ならそもそも何も大きな事が起きなくてもいいだろうにとまず思ってしまいます。
トラブルが起きた時、問題はそれが起きた事ではなく起きた事をどうとらえるか、なのだそうです。
だからそれなりの事を起してその後の変化が大事と云うのは分からないでもありませんが、結局生まれる前に決めて来た事が起きている、それだけの事じゃないのとも思います。
「生かされた」と云う人は、世間的にそれなりの影響力のある人、或いはそうなって行く人だよなと思うんですよね。
そうじゃない人は結局死んでしまう。
死して影響を及ぼすと云う人もいますが、九死に一生を得た人がその後に変わって行き、大きく影響を与えるような事をすると云うのはよくある話です。
そう云う人になる為のイベントが九死に一生を得ると云う事、ある種のスイッチなのかなと思えて来ます。

穿った考えかもしれませんが、「生かされた」と云う人って、自信過剰とも云えない事もないなと思います。
必ず自分のなすべき使命と云うのか、そう云うものの為に生き残ったと云う思いを持ち、生きるに相応しい人間である、自分でそう思っていると云う事ですよね。
生まれて来たのだから生きるべくして生まれて来たのだとは思いますが、そこに自分だけの使命感みたいなものを直ぐ結びつけられるって、誰でもそうで、また出来るものなんでしょうか。
ただ単に生きるだけ、そうは思いたくはないでしょうからね。
でも九死に一生を得た人でも、全くそんな風に思えずしんどいまま生きなくてはならない人もいるのが現実。
「生かされた」と喜々として思え、云える人は羨ましいなと思います。

諦め

2012年12月15日 | Weblog
今日は、本来なら万障繰りあわせても参加する、参加出来ないと哀しくて辛くてと云う、私のエネルギー源になる事がありましたが、参加する事が叶いませんでした。
泣いてもわめいてもどうする事も出来ない状態で、諦める以外に術がない。
こう云う事が起きるなんて考えた事もありませんでしたが、起きてしまいました。
とか云うと、引き寄せた結果だとか云われそうですけど(苦笑)、なんであろうとダメだった事はダメ、その事実があるのみ、更に罪悪感を抱えるような事を云われるのは勘弁して欲しいところです。

今回の状態になった時の自分を、少し前までの自分は恐ろしくて想像する事が出来ませんでした。
近い状態になった時ですら、苦しいわ辛いわで夜は眠れなくなるし、これが現実になったらどうなるかと本当に恐ろしかった……。
でも実際はどーって事もない、と云うか、その事に対する情熱そのものが激減してしまった感じです。
ダメになったからなのか、そうなりつつあった結果なのかは分かりませんが、ダメージが全くない、ビックリしますが皆無なんですよね。
この先どう変わっていくかは想像出来ませんが、今回心が折れなかった事は意外ではありましたが、大きな救いでした。

諦め切るとこう云う心境になるのか、それは分かりませんが、選択の余地なく諦めるしかない状況にあった事は大きく影響してはいるのだろうと思います。
今の私は諦めなくてはならない事だらけです。
それはこの先も変わる事はないだろうと思います。
このまま生き続けなくてはならないのは苦しい事で、少しでいから状況がよくなってくれればと願っていますが、先の事については全く想像が出来ません。
でも全く事態が好転する事はあり得ない(あったら奇跡)、諦める以外に選択肢がないと云う事を、最もそれが難しい事で経験しなくてはならなかった事は、何かしら思うところはありました。
まして何も感じなかったと云う意外な展開だったし、それもこの先生きる事に影響するかもしれません。
裏切られてばかりの未来と他人に期待するものなんて何もありませんが……。

持って行きました

2012年12月05日 | 仕事
決着したハケ目を入れて修正の見直しまで、午前中2時間弱で作業終了しました。
無理かと思いましたがダメ元で午後からの納品を連絡したらOKが出て、とっととおいて来ました。
さて、これからが本番、嫌でもなんでも残りの人生仕方なくでも、生きるしかなくなってしまいました。
その為に、この先は罰のような人生を生きるのみ。
楽しみとか生き甲斐とか、そんな事考えずただ生きるだけです。
そんな事考えたら、多分逆に生きられなくなると思うので。
どうして?と云う問いが消えてなくならない。
上向くとか光を見出す事もない。
そう云う事と割り切るしかないと、今頃気付かされる。
地獄だ。

結局

2012年12月04日 | 仕事
滞っていたトレースの調整は、書き入れると云う事で一応決着しました。
流石に1週間待っても音沙汰なしではこっちだってやってられん。
中身はなくても単位はくっきりハッキリ明確に書かれているのだから、恐らくしっかり調整が入っていたのだと思います。
もし磨滅しているなら消せばいいだけ。
書き直しにしても差ほどの手間ではありませんので。

それにしても、どうしてこう云う図が完成品としてOKになってしまうのかが分からない。
過ぎるほど(必要以上にと云う意味で)細かいのもどうかとは思いますが、最低限書くべき決まりごとはあるのですから、それはきっちりすべきな訳で。
昔はトレースで見栄えを直すと云う事もしていたので、トレースと云う最終段階での確認作業と云うものありましたが、今は実測図通りでいいらしいので、私は疑問点があっても最近はそのまま書くようにしています。
でも今回のような中途半端な図まで完成品としてトレースに回って来るのですから、そうなるとどうしていいのか分かりません。
日々変わって行くのは当然の事としても、それがいい方ではなくどんどん悪い方へ変化して行くってどうなんでしょうね。
質の低下が目に見えて、それに自分が関わっているって何だかなと思います。

仕方がないでの

2012年12月03日 | 仕事
1週間たっても音信不通。
土器は何処へ行ってしまったのでしょう。
収蔵庫にはないって事ですよね。
本当は全部トレースしてから一気に修正に入りたかったけれど、黙っていても仕方がないし、私も次の道を模索せねばならないし、とりあえず出来ているものだけ修正しました。
で、残りはこいつ1個。
どうするのかなあ……。