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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

由利本荘 矢島

2012年06月10日 | 秋田県
(矢島小学校)


矢島小学校

現在、矢島小学校のある土地に矢嶋藩陣屋があった。小学校前には、八森城址という石碑が建つが、正確には城ではなくて陣屋であろう。
矢島藩は生駒氏八千石の領地である。江戸初期に御家騒動により分知されて誕生した藩である。
矢島藩は秋田藩が新政府に従うことを決定すると、いち早く同調した。しかし、庄内藩新徴組の鳥海山越えの奇襲を受けて城を自焼して、仙北方面へ敗走することになった。


明治戊辰勤王 生駒公居城
八森城址


史跡 藩学 日新堂跡

矢島小学校の正門の前に日新堂を現す石碑がある。安政元年(1854)の創設。

(矢島神社)


矢島神社


土田衝平顕彰碑

矢島小学校に隣接する矢島神社の境内に土田衝平の顕彰碑がある。
幕末の秋田といっても、ほとんど人物を連想しない。その中にあって土田衝平は恐らく秋田出身の唯一の「志士」であろう。今回、矢島を訪ねて、この顕彰碑にはどうしても対面しておきたかった。この碑は、昭和四十一年(1966)、土田衝平殉難百年を記念して、矢島町の有志によって建立されたものである。
土田衝平は、最初久米蔵と称した。矢島藩士土田又右衛門の子に生まれ、同藩士新田勘七に就いて文学を学び、因幡の人島源蔵について拳法を修めた。安政の末に江戸藩邸に務め、ここで尊攘論に接した。この頃、姓名を赤坂貞助と変じ、浪人して常陸に入った。元治元年(1864)の天狗党の挙兵に、田中愿蔵の謀師として参加した。恐らく天狗党において明確に「討幕」を意識していたのは、土田衝平のほかにはいなかったかもしれない。こと破れて田中愿蔵は縛につき斬刑に処されたが、土田衝平は重囲を脱して奥州へ走った。相馬藩で同志を説いて、再挙を画しているところを幕吏に捕えられ、直ちに斬首された。元治元年(1864)十一月のことである。享年二十九。

(龍源寺)


龍源寺

龍源寺は、全国的には無名の寺であるが、本堂は昔ながらの茅葺の屋根で覆われ、ずしりとした歴史を感じることができる。こうした寺院は少なくなった。それに、墓地に点在している戊辰戦争戦死者の墓が訪問者にも分かるように、それぞれ標柱が建てられているのが有り難い。


官軍 矢嶋藩 金子廣治墓


官軍 矢島藩 片倉良吉


佐藤信次藤原政和


景道院英岳智勇居士(菅原勇作の墓)

いずれも矢島藩の戦死者である。うち金子、佐藤、高柳は、矢島での戦闘で戦死。


高柳丈右衛門墓

(祥雲寺)


祥雲寺

龍源寺に隣接する祥雲寺には、矢島で戦死した庄内藩士二名の墓がある。


庄内藩士浦西東一郎 中村精之助墓

(寿慶寺)


寿慶寺

鳥海山を越えて矢島を急襲した庄内藩浪士隊新徴組三小隊は、寿慶寺の裏山から出現した。寿慶寺の境内では白兵戦が展開されたが、寺も町も焼かれることになり、藩主生駒親敬(ちかゆき)らは秋田へ落ちることになった。


寿慶寺 古戦場跡

(木境神社)


木境神社

矢島攻略を目指す庄内藩軍は、主力を鳥海山の東、百宅(ももやけ=現鳥海町)へ向かわせた。これに対応して秋田藩、矢島藩両軍も主力を百宅に投じたため、矢島にはほとんど兵が残っていなかった。庄内藩では、浪士組新徴組三小隊を、密かに鳥海山を越えて矢島に向かわせた。新潮組は、山頂の大物忌神社で七月二十八日の夜を明かし、木境神社前を通る登山道を下って矢島に突入した。

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