(鳥海山)
鳥海山
にかほを走っていると、常に鳥海山(標高二千二百三十六㍍)の姿を目にすることになる。関東で日常的に富士山に接していると「世界中にこれほど美しい山はない」とすりこまれるように信じているが、こうして日本を旅すると富士山にも勝るとも劣らない美貌を持つ山が存在していることに気付かされる。
秋田市の長浜下浜でお世話になったオジサンは、「山形県側から見る鳥海山の方が綺麗だっていうよ」と教えてくれたが、確かにそうだった。
戊辰戦争では、庄内藩軍は鳥海山を越えて矢島を急襲した。無警戒だった矢島藩は呆気なく蹴散らされた。
(高昌寺)
高昌寺
松江藩北川又太郎墓
高昌寺には、明治元年(1868)九月二十五日、芹田川の戦いで戦死した松江藩主北川又太郎の墓がある。行年五十四。
(熊野神社)
熊野神社
秋田藩荒川決死隊戦勝祈願所
秋田藩荒川久太郎秀種を隊長とする遊撃隊は、三崎峠に向かう途中、熊野神社前で髻(もとどり)を切って戦勝を祈願した。秋田藩軍は、鎧冑で身を固め、まるで戦国時代さながらの装備だったという。陣笠などはキラキラと光を反射し、格好の標的になったという。慶應四年(1868)閏四月の緒戦は、秋田藩にとっては散々な敗戦となった。
(三崎公園)
秋田県と山形県の県境は、現在では国道7号線が開通し、何の苦労もなく往来が可能であるが、当時は鳥海山の山裾が海岸線まで迫る交通の難所であった。現在も三崎公園内に旧街道が残っているが、街道というイメージとは程遠く、登山道のような風景である。
三崎公園
この日、早朝に横手市内を出発し、にかほ市経由で三崎公園に到着したのは午前八時半であった。連休中の行楽地はどこも大変な人出であるが、この時間の三崎公園はほとんど人影もなく、絶景を一人占めという贅沢であった。
明治百年記念戊辰之戦没者顕彰碑
国道7号線沿い、県境の標識から山形県寄りに数百㍍行った場所に、明治百年を記念して建てられた戊辰之役戦没者顕彰碑がある。実際に山形県側に存在しているものであるし、書も山形県知事のものであるので、本来山形県の史跡として紹介すべきものかもしれないが、三崎公園の入口は秋田県側にあるので、秋田県の史跡として紹介しておく。
戊辰役戦没者供養塔
遊歩道の途中、三崎神社(大師堂)の右上に戊辰戦争供養塔がある。この供養塔は、明治百年を記念して昭和四十三年(1968)に建立されたものである。
旧三崎街道
史跡 一里塚の跡
街道沿いに一里ごとに築かれた一里塚が、旧三崎街道にも残されている。植えられているのが榎というのが珍しい。
今回の五泊六日(うち二日は車中泊)の史跡旅行では、走行距離約二千四百㎞、撮影した画像は七百三十枚に及んだ。これから写真の整理に取り掛からなければならないが、かなり時間がかかりそうだ。振り返ると、早朝から日没まで史跡を訪ねては、自動車を運転する連続で、秋田美人に出会わなかったのは残念であった。
今回、秋田の史跡訪問に関しては、またも竹さんのホーム・ページ『戊辰掃苔録』を大いに参考にさせていただいた。竹さんからは、「五日は必要」とアドバイスを頂戴したが、結果的に秋田を三日半で走破することになった。もちろん、探しても見当たらなかった墓や時間の関係で見送らざるを得なかった史跡もある。いずれ再チャレンジをという気持ちもあるが、今は「しばらく秋田は腹一杯」という気分である。
鳥海山
にかほを走っていると、常に鳥海山(標高二千二百三十六㍍)の姿を目にすることになる。関東で日常的に富士山に接していると「世界中にこれほど美しい山はない」とすりこまれるように信じているが、こうして日本を旅すると富士山にも勝るとも劣らない美貌を持つ山が存在していることに気付かされる。
秋田市の長浜下浜でお世話になったオジサンは、「山形県側から見る鳥海山の方が綺麗だっていうよ」と教えてくれたが、確かにそうだった。
戊辰戦争では、庄内藩軍は鳥海山を越えて矢島を急襲した。無警戒だった矢島藩は呆気なく蹴散らされた。
(高昌寺)
高昌寺
松江藩北川又太郎墓
高昌寺には、明治元年(1868)九月二十五日、芹田川の戦いで戦死した松江藩主北川又太郎の墓がある。行年五十四。
(熊野神社)
熊野神社
秋田藩荒川決死隊戦勝祈願所
秋田藩荒川久太郎秀種を隊長とする遊撃隊は、三崎峠に向かう途中、熊野神社前で髻(もとどり)を切って戦勝を祈願した。秋田藩軍は、鎧冑で身を固め、まるで戦国時代さながらの装備だったという。陣笠などはキラキラと光を反射し、格好の標的になったという。慶應四年(1868)閏四月の緒戦は、秋田藩にとっては散々な敗戦となった。
(三崎公園)
秋田県と山形県の県境は、現在では国道7号線が開通し、何の苦労もなく往来が可能であるが、当時は鳥海山の山裾が海岸線まで迫る交通の難所であった。現在も三崎公園内に旧街道が残っているが、街道というイメージとは程遠く、登山道のような風景である。
三崎公園
この日、早朝に横手市内を出発し、にかほ市経由で三崎公園に到着したのは午前八時半であった。連休中の行楽地はどこも大変な人出であるが、この時間の三崎公園はほとんど人影もなく、絶景を一人占めという贅沢であった。
明治百年記念戊辰之戦没者顕彰碑
国道7号線沿い、県境の標識から山形県寄りに数百㍍行った場所に、明治百年を記念して建てられた戊辰之役戦没者顕彰碑がある。実際に山形県側に存在しているものであるし、書も山形県知事のものであるので、本来山形県の史跡として紹介すべきものかもしれないが、三崎公園の入口は秋田県側にあるので、秋田県の史跡として紹介しておく。
戊辰役戦没者供養塔
遊歩道の途中、三崎神社(大師堂)の右上に戊辰戦争供養塔がある。この供養塔は、明治百年を記念して昭和四十三年(1968)に建立されたものである。
旧三崎街道
史跡 一里塚の跡
街道沿いに一里ごとに築かれた一里塚が、旧三崎街道にも残されている。植えられているのが榎というのが珍しい。
今回の五泊六日(うち二日は車中泊)の史跡旅行では、走行距離約二千四百㎞、撮影した画像は七百三十枚に及んだ。これから写真の整理に取り掛からなければならないが、かなり時間がかかりそうだ。振り返ると、早朝から日没まで史跡を訪ねては、自動車を運転する連続で、秋田美人に出会わなかったのは残念であった。
今回、秋田の史跡訪問に関しては、またも竹さんのホーム・ページ『戊辰掃苔録』を大いに参考にさせていただいた。竹さんからは、「五日は必要」とアドバイスを頂戴したが、結果的に秋田を三日半で走破することになった。もちろん、探しても見当たらなかった墓や時間の関係で見送らざるを得なかった史跡もある。いずれ再チャレンジをという気持ちもあるが、今は「しばらく秋田は腹一杯」という気分である。
3日半で走破とは怒涛の勢いですね(^_^)
何度行ってもその都度次回への宿題を残してしまうので、その時はお腹一杯と思ってもしばらくするとまた行ってしまいます(笑)
山形編も楽しみにしております
秋田はやっぱり遠いですね。当面は関東近郊をチョロチョロします。
これから山形県編が続きます。お楽しみに。