史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

由利本荘

2012年06月10日 | 秋田県
(本荘公園)


鶴舞城址

鶴舞城址は現在本荘公園となっている。もともと天守や石垣を持たない城郭であったが、土塁と堀、再建された御門くらいでほとんど城であったことを連想できるものは見当たらない。


本庄藩戊辰役勤皇碑

矢島を攻略した庄内軍は、同時に三崎口も突破して、八月五日には仁賀保まで進出した。一方、秋田藩側は、肥前、筑前、弘前からの援軍も合流し、反攻の体制が整いつつあった。しかし、総督府から派遣されていた長州藩山本登雲助(とものすけ)が退却を強硬に主張した。ときの本荘藩主六郷政鑑(まさあきら)は、庄内藩軍を迎え討つことを主張したが、結局、議論は退却と決まり、八月六日、全軍が秋田へ退いた。このとき鶴舞城(本荘城)は征討軍が自ら放った火により全焼している。


招魂社

招魂社の境内には、二つの注目すべき石碑がある。


戊辰勤王碑


本荘藩重臣 贈従四位服部平右衛門彰功碑

服部平右衛門は、本荘藩の重臣である。戊辰戦争では本荘軍を率いて庄内藩軍と戦った。明治後は、大参事として領内の復旧と領民の救済に尽した。明治三年(1870)十月、逝去。五十歳。

(山田合戦之碑)


山田合戦之跡

慶應四年(1868)七月二十八日、庄内藩軍が鳥海山を越えて突如矢島に攻め込んできた。虚をつかれた矢島藩は呆気なく落城した。この報に驚いた秋田藩は、津軽から応援にきていた成田求馬隊に秋田槍隊をつけて矢島に派遣した。津軽成田隊と庄内藩とは各所で激突したが、もっとも戦闘の激しかったのが山田村油畑周辺であった。秋田藩六名、津軽藩は隊長成田求馬以下六名の戦死者を出した(庄内藩は不明)。遺体は当地に埋葬されたが、その後、秋田全良寺の官軍墓地に改葬された。


津軽藩贈従五位成田求馬忠魂碑


官軍 矢嶋口戦死

津軽、秋田両藩の戦死者の名前が刻まれている。

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