(苗木城跡)
苗木藩は、山間に位置する一万石の小藩で、江戸時代を通じて遠山家が藩主を務めた。最後の藩主、第十二代遠山友禄(ともよし)は幕府の若年寄に抜擢され、第二次長州征伐にも出兵したが、そのために藩財政は逼迫し藩士は窮乏した。明治四年(1871)廃藩。
苗木城跡
苗木城跡
苗木城は苗木遠山家の居城で、城郭は残っていないが、堅牢な石垣を随所に見ることができる。天守は岩山の頂上に建てられていたが、全国的に見ても天然の巨岩の上に建てられた城郭は珍しいものである。
大矢倉
天守跡にはジャングルジムのような展望台が建てられており、三百六十度の展望を楽しむことができる。眼下には木曽川、中津川市街が広がる。
木曽川
(苗木遠山史料館)
苗木遠山史料館は、苗木城の麓に建てられた史料館で、苗木遠山家に伝わる文書や甲冑、鉄砲などが展示されている。
私がここを訪れたのは朝六時半のことであり、当然ながら開館まではまだかなりの時間があって、拝観することはできなかった。
苗木遠山史料館
(雲林寺跡)
明治政府は神仏分離、神道国教化政策を推し進め、全国で廃仏棄釈の嵐が吹き荒れたことは良く知られているが、苗木藩では特に政府の布告に忠実に、そして徹底的に廃仏棄釈が断行された。藩主遠山家の菩提寺である雲林寺もその例外ではなく、堂宇は跡形もなく取り壊されている。
幸いにして藩主や家臣団の墓地や過去帳はそのまま残されている。苗木遠山史料館の南側の斜面に墓地が広がる。
遠山家墓所
正四位遠山友禄之墓
「霊屋(たまや)」と呼ばれる遠山家墓所には、初代友政から十五代健彦に至る遠山家歴代の墓が整然と並ぶ。
幕末の藩主遠山友禄は、文政二年(1819)、第十一代藩主友寿の三男に生まれた。正室は佐土原藩島津家出身の美子。天保九年(1838)、父の死により家督を継ぐと、駿府加番、奏者番などを歴任した後、文久元年(1861)、若年寄となり、文久二年(1862)の生麦事件の際には幕府を代表して、英国代理公使ニールに謝罪した。一旦、若年寄を免職されたが、元治元年(1864)再任。慶応元年(1865)には将軍家茂に従って第二次長州征伐に参加した。翌慶応二年(1866)、家茂が大阪城内で死去すると、遺体を江戸まで護送した。慶応四年(1868)二月、東山道鎮撫軍を迎えて恭順を表明した。明治二年(1869)、藩知事に就任すると、青山直道を登用して藩政改革に取り組んだ。しかし藩財政は破綻状態に陥り、藩士や領民から大きな反発があった。明治七年(1875)隠居。明治二十八年(1894)、東京にて死去。七十六歳。
(城山病院)
城山病院
苗木藩校日新館跡
現在医療法人城山病院のある丘に苗木藩校日新館があった。日新館は、明治二年(1869)、遠山友禄の下附をはじめ領内住民からの寄附により建てられたもので、明治四年(1871)廃校となるまで、藩士の子弟を中心に約百五十人に対し、文学・筆学・武術の三科および平田国学などの教育を実施した。廃校後、明治六年(1873)からは日新義校(現・苗木小学校)の校舎として使用された。
苗木藩は、山間に位置する一万石の小藩で、江戸時代を通じて遠山家が藩主を務めた。最後の藩主、第十二代遠山友禄(ともよし)は幕府の若年寄に抜擢され、第二次長州征伐にも出兵したが、そのために藩財政は逼迫し藩士は窮乏した。明治四年(1871)廃藩。
苗木城跡
苗木城跡
苗木城は苗木遠山家の居城で、城郭は残っていないが、堅牢な石垣を随所に見ることができる。天守は岩山の頂上に建てられていたが、全国的に見ても天然の巨岩の上に建てられた城郭は珍しいものである。
大矢倉
天守跡にはジャングルジムのような展望台が建てられており、三百六十度の展望を楽しむことができる。眼下には木曽川、中津川市街が広がる。
木曽川
(苗木遠山史料館)
苗木遠山史料館は、苗木城の麓に建てられた史料館で、苗木遠山家に伝わる文書や甲冑、鉄砲などが展示されている。
私がここを訪れたのは朝六時半のことであり、当然ながら開館まではまだかなりの時間があって、拝観することはできなかった。
苗木遠山史料館
(雲林寺跡)
明治政府は神仏分離、神道国教化政策を推し進め、全国で廃仏棄釈の嵐が吹き荒れたことは良く知られているが、苗木藩では特に政府の布告に忠実に、そして徹底的に廃仏棄釈が断行された。藩主遠山家の菩提寺である雲林寺もその例外ではなく、堂宇は跡形もなく取り壊されている。
幸いにして藩主や家臣団の墓地や過去帳はそのまま残されている。苗木遠山史料館の南側の斜面に墓地が広がる。
遠山家墓所
正四位遠山友禄之墓
「霊屋(たまや)」と呼ばれる遠山家墓所には、初代友政から十五代健彦に至る遠山家歴代の墓が整然と並ぶ。
幕末の藩主遠山友禄は、文政二年(1819)、第十一代藩主友寿の三男に生まれた。正室は佐土原藩島津家出身の美子。天保九年(1838)、父の死により家督を継ぐと、駿府加番、奏者番などを歴任した後、文久元年(1861)、若年寄となり、文久二年(1862)の生麦事件の際には幕府を代表して、英国代理公使ニールに謝罪した。一旦、若年寄を免職されたが、元治元年(1864)再任。慶応元年(1865)には将軍家茂に従って第二次長州征伐に参加した。翌慶応二年(1866)、家茂が大阪城内で死去すると、遺体を江戸まで護送した。慶応四年(1868)二月、東山道鎮撫軍を迎えて恭順を表明した。明治二年(1869)、藩知事に就任すると、青山直道を登用して藩政改革に取り組んだ。しかし藩財政は破綻状態に陥り、藩士や領民から大きな反発があった。明治七年(1875)隠居。明治二十八年(1894)、東京にて死去。七十六歳。
(城山病院)
城山病院
苗木藩校日新館跡
現在医療法人城山病院のある丘に苗木藩校日新館があった。日新館は、明治二年(1869)、遠山友禄の下附をはじめ領内住民からの寄附により建てられたもので、明治四年(1871)廃校となるまで、藩士の子弟を中心に約百五十人に対し、文学・筆学・武術の三科および平田国学などの教育を実施した。廃校後、明治六年(1873)からは日新義校(現・苗木小学校)の校舎として使用された。
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