史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

富士見

2021年06月19日 | 長野県

(原ノ茶屋)

 天気予報では久しぶりに好天ということだったので、朝五時に八王子を出て、長野県富士見町から南下して山梨県下の明治天皇の聖蹟を訪ねることにした。基本的にこの日の明治天皇聖蹟碑は、いずれも明治十三年(1880)の巡幸に関係するものである。

 家を出るときは曇天であったが、予報とは裏腹にほどなく強い雨になった。勝沼辺りでようやく雨が止み、少し青空が見えるようになった。富士見町に着いて車を降りると今度は予想以上に空気が冷たくて、ティーシャツ一枚で出かけたことを後悔した。冷房が効きすぎて寒いオフィスのようであった。

中央高速道路を北上して山梨県を出て長野県に入る。県境を接しているのが富士見町である。JR中央線や中央高速と並行して、旧甲州街道が町を斜めに横断している。原ノ茶屋と呼ばれる集落に明治天皇の駐蹕碑と御膳水の碑がある。

 

明治天皇駐蹕之處

 

明治天皇御膳水

 

御膳水

 

 御膳水碑のそばでは、今も滔々と清水が流れている。

 

(平岡)

 

明治天皇平岡御野立所

 

 原ノ茶屋の駐蹕所から約六キロメートル南下した田圃の中に明治天皇が休息をとった野立所の跡がある。

 明治十三年(1880)六月、山梨、長野、三重、京都などの民情視察のため、明治天皇の巡幸が行われた。六月二十三日の朝、台ケ原(現・山梨県北杜市白州町)を出て、御前十時に蔦木本陣に到着。しばし休息をとった後、平岡の野立所に向かった。当日、沿道の家々では日の丸を掲げ、小学校児童をはじめ近郷近在の住民は沿道に連なって御巡幸を迎えた。

 御野立所の位置は、あらかじめ宮内省より街道筋の柳の大木のある草地を指定されていた。地元ではそこに白砂を盛って、菊花紋のついた紫の幔幕を張り巡らし、白木の机と椅子を備えて玉座とした。

 この日、天皇は金色燦然たる大元帥の礼服に身を包み、小さな箱を携えて玉座についた。ここまで二頭立ての馬車で来たが、行き先の瀬沢坂、芋ノ木坂が難路だったため、四人担ぎの板輿に乗り換えた。

 それから巡幸の行列は徒歩で次の休息地である原之茶屋に向かった。

 

鸞躅碑

 

 野立所の碑の横には鸞躅(らんたく)碑や二基の歌碑が建てられている。篆額は藤堂高猷。歌碑は草書でかかれている上に表面が損耗しており、何が書かれているか解読できない。

 

(蔦木宿)

 蔦木(つたき)宿は、江戸幕府の宿駅制度により慶長十六年(1611)頃、甲州街道の第四十三番目の宿駅として設置された。本陣は広大で、多くの座敷や板敷、土間のほか、堂々とした門構えや広い玄関、書院造りの上段の間を備えていたといわれる。明治維新を迎えると、宿駅制度が廃止され、鉄道の敷設とともに次第にさびれていった。

 

甲州道中 蔦木宿本陣跡

 

明治大帝御駐輦跡

 

 現在、本陣跡には表門のみが残されている。この表門は元治元年(1864)の火災後に再建されたものとみられる。

 

蔦木本陣表門

 

与謝野晶子歌碑

 

 本陣の近くには御膳水があり、与謝野晶子の歌碑が添えられている。

 

 白じらと並木のもとの石の樋が

 秋の水吐く蔦木宿かな

 

御膳水

 

 

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