(伏見公民館)
伏見宿本陣之跡
伏見宿は中山道五十番目の宿場。文久元年(1861)十月二十七日の昼、関東下向中の和宮は、伏見宿で小休をとった。
(みたけ館)
御嶽宿は中山道の四十九番目の宿場である。現在、街の中心部、本陣跡には中山道みたけ館が設けられている。この施設は一階が図書館、二階が資料館となっている。文久元年(1861)十月二十七日、和宮は御嶽宿で昼食をとった。
中山道みたけ館
現在、御嶽宿には商家竹屋(竹屋資料館)を始めとして古い建物が多く残されている。
御嶽宿
(耳神社)
耳神社
耳神社は、中山道上にある神社で、全国的に見ても珍しい、耳の病気にご利益があるといわれる。平癒の願をかけて、お供えしてある錐を一本借りて耳に当て、病気が全快するとその人の年の数だけ錐をお供えした。小さな祠には奉納された錐がいくつも下げられており、厚く信仰されていたことが伺われる。
元治元年(1864)、水戸天狗党が中山道を通過した際、耳神社の幟を敵の布陣と勘違いし、刀を抜いてここを通ったと伝えられる。
(一呑の清水)
一呑清水(ひとのみのしみず)は、中山道を旅する人々にとって、咽喉の渇きを潤し、旅の疲れを癒す憩いの場所であった。文久元年(1861)十月、降嫁のために江戸に向かっていた和宮は、道中この清水を賞味したところ、大層気に入り、のちの上洛の際にも永保寺(現・多治見市)からわざわざここから清水を取り寄せ、点茶を楽しんだと伝えられる。
往時はともかく今は継続的に水が湧き出ている様子ではなく、とてもここの水を飲める状態ではない。
一呑の清水
(御殿場)
鬼岩公園
中山道
一呑の清水から砂利道の中山道が伸びており、昔の街道の風情を味わうことができる。その道沿いに御殿場と呼ばれる場所がある。文久元年(1861)、和宮一行が休憩するために、この場所に御殿が急造され、以来ここを御殿場と呼ぶようになった。
和宮はその前日、太田宿(現・美濃加茂市)に宿泊し、御嶽宿、御殿場で休息をとって、その夜は大湫宿(現・瑞浪市)で宿泊した。
御殿場跡は、中山道から少し昇った丘の上にあった。現在、その場所には東屋に設けられている。
伏見宿本陣之跡
伏見宿は中山道五十番目の宿場。文久元年(1861)十月二十七日の昼、関東下向中の和宮は、伏見宿で小休をとった。
(みたけ館)
御嶽宿は中山道の四十九番目の宿場である。現在、街の中心部、本陣跡には中山道みたけ館が設けられている。この施設は一階が図書館、二階が資料館となっている。文久元年(1861)十月二十七日、和宮は御嶽宿で昼食をとった。
中山道みたけ館
現在、御嶽宿には商家竹屋(竹屋資料館)を始めとして古い建物が多く残されている。
御嶽宿
(耳神社)
耳神社
耳神社は、中山道上にある神社で、全国的に見ても珍しい、耳の病気にご利益があるといわれる。平癒の願をかけて、お供えしてある錐を一本借りて耳に当て、病気が全快するとその人の年の数だけ錐をお供えした。小さな祠には奉納された錐がいくつも下げられており、厚く信仰されていたことが伺われる。
元治元年(1864)、水戸天狗党が中山道を通過した際、耳神社の幟を敵の布陣と勘違いし、刀を抜いてここを通ったと伝えられる。
(一呑の清水)
一呑清水(ひとのみのしみず)は、中山道を旅する人々にとって、咽喉の渇きを潤し、旅の疲れを癒す憩いの場所であった。文久元年(1861)十月、降嫁のために江戸に向かっていた和宮は、道中この清水を賞味したところ、大層気に入り、のちの上洛の際にも永保寺(現・多治見市)からわざわざここから清水を取り寄せ、点茶を楽しんだと伝えられる。
往時はともかく今は継続的に水が湧き出ている様子ではなく、とてもここの水を飲める状態ではない。
一呑の清水
(御殿場)
鬼岩公園
中山道
一呑の清水から砂利道の中山道が伸びており、昔の街道の風情を味わうことができる。その道沿いに御殿場と呼ばれる場所がある。文久元年(1861)、和宮一行が休憩するために、この場所に御殿が急造され、以来ここを御殿場と呼ぶようになった。
和宮はその前日、太田宿(現・美濃加茂市)に宿泊し、御嶽宿、御殿場で休息をとって、その夜は大湫宿(現・瑞浪市)で宿泊した。
御殿場跡は、中山道から少し昇った丘の上にあった。現在、その場所には東屋に設けられている。
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