史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

日暮里 ⅡⅩⅥ

2017年10月14日 | 東京都


従七位勲五等 上田良貞之墓

上田良貞は、西南戦争時の近衛歩兵和警察隊警部。田原坂の戦いにて抜刀隊を指揮したといわれる。明治十六年(1883)三十八歳にて没。【乙10号1側】


故正六位古谷簡一君墓表

 古谷簡一は天保十一年(1840)の生まれ。幼少の頃より樺太など北地について興味を持っていた。昌平黌に学び、榎本釜次郎(武揚)らと交流があり、北地について詳しい榎本に影響された。安政五年(1858)、古谷栄の養子となった。同年箱館火得奉行。箱館奉行の吏として奉行小出大和守の信頼を得て、モスクワに随行し樺太会談を行い、樺太を日露両属とした。慶応元年(1865)、イギリス人数人が、アイヌの墳墓を盗掘し骸骨を運び出した事件では、数回に渡り在箱館イギリス領事館の総領事ヴァイスと博物学者ホワイトリーを相手に交渉にあたった。明治元年(1868)、出納権判事兼皇学所掛。明治五年(1872)、租税権助。明治七年(1874)、勧業助。明治八年(1875)、三十六歳にて没。【甲4号8側】


中山家之墓(中山誠一郎の墓)

 中山誠一郎は関八州取締出役として、嘉永三年(1850)、八月、国定忠治を上州田部井村(現・群馬県伊勢崎市田部井町)の庄屋西野目宇右衛門邸の納屋で妾のお町の看病を受けているところを捕縛し江戸に送った。のち甲府代官、甲府奉行などを務めた。明治十四年(1881)没。【甲6号16側】


正二位綾小路有長墓

 綾小路家は日光例幣使を務める家柄。その十四代当主有長は、維新後は雅楽局神楽人などを務めた。明治十四年(1881)、八十九歳にて没。綾小路有良はその孫。刑部芳則著「三条実美」によれば、東京在住の貧乏華族たちは新宿御苑内(もとは内藤家下屋敷で、それを大蔵省が買い取って内藤新宿試験場とし、明治十二年以降宮内省の管轄となって新宿植物園となったもの)に公卿長屋に居住していた。明治十六年(1883)時点ではこの公卿長屋に住む公家は、綾小路、石山、大原、甘露寺、竹園、堤、西五辻、永井、南部の九家。大名華族の永井、南部両家は数年で転居しており、長屋の住人は公家であった。最後まで住んでいたのは、綾小路有良と堤功長の二家であり、相当困窮を極めたのであろう。明治四十年(1907)になってようやく退居したものと推定されている。【乙6号5側】


井上正鐡大人之墓
安藤真鐡大人之墓

 井上正鐡は、寛政二年(1790)、館林藩主秋元候の家臣安藤真鐡の二男として江戸に生まれた。父真鐡は、経世済民の志厚く、国学者加茂真淵に師事、幕末動乱期に困苦する民衆を救う手立てを求め続け、死の直前に神道の法を悟って後事を正鐡に託した。正鐡は父の遺志を継いで修行を重ねて神道の奥義を極め、天保十一年(1840)、梅田神明宮の神座に就任した。禊袚の法と息の術の実践によって命がけで民衆救済に取り組み、門下の一人宮津藩主本荘宗秀から無宿人から博徒に至るまで幅広い信者が集まった。この動きを警戒した幕府は、天保十四年(1843)、三宅島に流罪となった。嘉永二年(1849)、同島で帰幽。明治十二年(1879)、谷中に改葬された。【乙9号8側】


従六位広津弘信之墓

 広津弘信は、明治初期の外交官。元久留米藩医家であったが、明治三年(1870)、朝鮮使節佐田伯茅に従い、対馬厳原に行って宗氏に対韓事情を聴き、朝鮮に渡り現地で国交樹立交渉の実務を担当した。しかし交渉は難航し、同年末、明治五年(1872)と三度朝鮮に遣わされた。結局国交交渉は決裂した。その後、三井組による密貿易が明るみに出ると、さらに厳しい情勢となり、この時の広津の報告が征韓論の建議のきっかけとなった。明治七年(1874)外務省六等出仕。明治十六年(1883)、六十三歳にて死去。小説家広津和郎は孫。【乙8号10側】


谷家之墓(谷中 谷直臣之墓)

 谷干城家の墓であるが、谷干城自身はここに葬られていない。【乙9号11側】


男爵池田謙齋墓

 池田謙斎は、天保十二年(1841)、長岡藩士入沢健蔵の二男に生まれた。緒方洪庵の門下。その才を認められ、幕府医官池田玄仲の養子となった。文久二年(1862)、幕命で長崎に留学し、蘭医ボードインについて西洋医学を修めた。維新後は明治政府に用いられ、明治二年(1869)、大学大助教に進み、明治三年(1870)、ドイツ留学を命じられた。明治九年(1876)、帰朝して直ちに陸軍軍医監となり、宮内省御用掛を兼ね、明治十年(1877)、東京大学医学部綜理、明治十九年(1886)、宮内省侍医局長官を歴任した。明治二十一年(1888)には我が国初の医学博士となった。この間、西南戦争、日清戦争に従軍した。明治三十年(1897)、陸軍一等軍医正。明治三十五年(1902)には宮中顧問官となった。大正七年(1918)、年七十八で没。【寛永寺墓地】


池田玄仲先生之墓

池田玄仲は幕府奥医者。津和野藩医池田淳作の長男。津和野出身。十九歳で家督を異母兄弟に譲り、江戸に出て、伊東玄朴に蘭医学を学び、日本橋石町で開業。のち火災に遭い神田三河町に移り医業を続けた。藩命により長崎に留学。蘭医ボードウィンについて西洋医学を修めた。安政五年(1858)、伊藤玄朴、大槻俊斎らとお玉が池種痘所を設立。文久二年(1862)、幕府寄合医師。幕府医学所頭取補助。元治元年(1864)、奥詰医師。慶応四年(1868)、六月、寄合医師にもどり、翌年隠居。入沢謙輔(のちの池田謙斎)を養嗣子とする。温厚な人柄で他人との争いを嫌った。五十三歳。【乙11号5側】


友平親徴 友平伊予子 友平親教 之墓

 友平親徴(ちかよし)は壬生藩の大砲奉行。安政二年(1855)実弟の斉藤留蔵とともに江川太郎左衛門の塾に入門。天狗党が太平山に籠ったとき大砲を率いて出陣。天狗党が太平山から筑波へ戻った後の戦闘でも大砲隊を率いて活躍した。慶応四年(1868)、戊辰戦争では会津軍に加わり大砲隊を指揮し、各地を転戦。明治三年(1870)、友平栄の養子となり、その娘伊代子を娶った(同墓に名前あり)。明治四年(1871)兵部省に出仕。明治五年(1872))、陸軍武庫中令史。明治六年(1873)、陸軍武庫権大令史となる。明治八年(1875)以降、陸軍省九等出仕。明治十二年(1879)、大尉に任じられ砲兵第一方面本署員。明治十六年(1833)、砲兵会議所付。友平親教は子。明治二十四年(1891)、五十歳にて没。【乙12号3側】


従五位川崎八右衛門之墓

 川崎八右衛門は、天保五年(1834)、常陸国鹿島郡海老沢村に生まれた。父は水戸郷士。十六歳のとき家督を継ぎ、水戸郊外成沢村の学者加倉井砂山の日新塾に学んだ。慶応元年(1865)、藩財政の窮乏を救うため、鋳銭事業を興すことを藩に勧めた。水戸藩では江戸小梅の下屋敷内に鋳銭場を設け、青銅の四文銭、当百銭などを鋳造することになり、その銭座取締に任じられた。維新後は水戸藩出身者としては珍しく実業界で活躍、川崎銀行、水戸鉄道会社の設立。磐城石炭鉱の開発などに尽力した。明治四十年(1907)、年七十四で没。【乙11号9側】


蝦農狂生瘞骨之處(江南哲夫の墓)

 江南哲夫の墓は、川崎八右衛門の墓と背中合わせとなっている。江南哲夫は会津藩の出身。号は蝦農。文久元年(1861)、会津藩南学館友善社に入り漢学を修めた。大学試験に及第し日新館に入った。戊辰戦争では、十五歳で白虎隊士として越後口に転戦し、戦後高田に謹慎となった。その間、南摩羽峰に学ぶ。明治三年(1870)、赦されて上京。増上寺徳水院の藩塾に入る。のち淀藩主稲葉公の給費生となり、淀に赴き同藩校に入った。同年大阪開成所に入り英語を修めた。さらに斗南藩洋学塾および東奥義塾に学ぶ。明治七年(1874)、慶応義塾に入る。明治十年(1877)、三菱会社に入り社長岩崎弥太郎に随行して、神戸・長崎支店に赴いた。明治十一年(1878)、上海支店勤務。のち北海道での農業を志し、職を辞した。明治十七年(1884)、東京第二十国立銀行に入り、函館支店支配人。明治二十一年(1888)、第一銀行に入り韓国に渡る。明治二十四年(1891)、職を辞し帰国。明治三十年(1897)、東京火災保険会社に入社。明治三十三年(1900)、南山合資会社を設立し独立。これを売却し明治三十五年(1902)、京釜鉄道に入社。京城支店長となり重役を代理。明治三十八年(1905)、免職。明治四十一年(1908)、日露戦争の功により勲六等瑞宝章を受章。著書に「朝鮮財政論」。大正五年(1916)没。享年六十三。【寛永寺墓地】


四等警視兼方面監督歩兵中尉従七位勲五等川路利暱墓

 川路利瞑は大警視の川路利良の実弟で、陸軍歩兵中尉。西南戦争にも別動第一旅団第三大隊中隊長として参戦。陸軍中尉兼二等警視補勲五等双光旭日章。明治十六年(1883)四十歳にて没。手入れする人がいないためか、墓所は雑草が伸び放題となっている。【乙13号2側】


三宅家之墓(三宅艮斎 三宅秀の墓)

 三宅秀は嘉永元年(1848)の生まれ。復一(またいち)と称した。十六歳のとき、池田筑後守の遣欧使節団の一員としてヨーロッパに渡った。維新後、秀(すぐる)と称した。横浜でヘボンから英語を学び、その後アメリカ人医師ウェッデルのもとで医学を学んだ。明治三年(1870)、東京大学校の中教授に招かれた。明治十四年(1881)には東京大学医学部長。明治二十一年(1888)、医学博士。明治二十四年(1891)、貴族院議員。昭和十三年(1938)、九十一歳にて没。【天王寺墓地】


徳川慶頼墓

 田安家を継いだ慶頼の墓は、田安徳川家の墓地内にあるが、鍵がかけられていて近づくことはできない。慶頼は文政十一年(1828)の生まれ。父は田安家三代徳川斉匡。田安家四代斉荘(将軍家斉の子)が尾張徳川家を継承したことを受けて、天保十年(1839)、田安家を継ぎ、同年従三位に叙され、左近衛権中将兼右衛門督に任じられ、弘化三年()、参議。嘉永四年()、権中納言となり、安政五年(1858)には従二位権大納言に昇った。将軍家定の遺言により新将軍家茂の後見職となって幕政に参画した。文久二年(1862)、家茂が十七歳に達したことを理由に後見職を免ぜられ、同時に正二位に進んだ。ついで大原重徳の東下があり、朝旨により幕政の改革が行われ、また安政の大獄の後始末として大獄関係者の追罰と志士の恩赦が行われると、後見職在職中の将軍の輔佐が宜しくなかった罪を謝して、隠居および官位一等を下されることを願い出て、翌年致仕、従二位中納言に下がった。慶応四年(1868)正月、徳川慶喜が鳥羽伏見に敗れて東帰、寛永寺大慈院にて謹慎した際には後事を託され、また静寛院宮の命を受けて、旧幕臣の鎮撫に当たった。慶喜の救解のため、輪王寺宮に上洛して斡旋することを請い、自らも一橋茂栄と連署の嘆願書を東征大総督府に提出するなど尽力した。ついで橋本実梁らを江戸城に迎え、徳川家処分の朝旨をうけ、慶喜に代わって請書を奉った。同年閏四月、大総督府より江戸鎮撫取締を命じられ、大久保一翁、勝海舟らとともに彰義隊を慰撫してその解散に努めた。彰義隊の討滅後、徳川亀之助(のち家達)の名代として松平斉民とともに関東監察使三条実美より亀之助を駿府に封じ、駿遠三において七十万石を賜る旨の朝旨を拝し、同時に慶頼自身も藩屛の列に加えられ、再び田安家を継いで、明治二年(1869)十二月、版籍を奉還。明治九年(1876)、年四十九で没。【寛永寺墓地】

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