史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

吉井

2016年02月12日 | 群馬県
(郷土資料館)
 吉井藩の幕末の当主は、京都鷹司家の出である松平信平を祖とする。石高は一万石に過ぎないが、徳川親藩として松平姓を名乗り、江戸城中では重きを成した。藩主は江戸定府で、領地には陣屋を置いて藩治に当たらせた。陣屋は初め木部村(高崎市)次いで矢田(高崎市)にあったが、幕末に至って現在地に移った。十一代信発(のぶおき)は水戸家に斉昭の蟄居の命を伝える上使を務めて莫大な恩賞を与えられている。幕末の藩主信勤(のぶのり)は新政府側に与して戸倉に出兵している。


吉井郷土資料館

 吉井郷土資料館では、刀剣展を開催中であった(入場無料)。土方歳三の愛刀「和泉守兼定」は有名であるが、その兼定の弟子、龍民斎兼行は越後の出身。与板井伊家に刀工として仕えた後、明治初年、富岡に移住し諏訪神社の宮司を務めつつ、刀工としてこの地にも多くの作品を残した。また、兼友や兼宗、兼継ら多くの弟子を育てた。刀剣展では彼らの残した多くの日本刀を見ることができた。


堤金之丞着用兜

 実はこの企画展において最大の見ものは、天狗党との戦闘(下仁田戦争)で高崎藩士堤金之丞が着用していたという兜である。堤金之丞は、元治元年(1864)十一月十六日、銃弾を頭部に被弾し、戦死した。着用していたという兜には弾痕がくっきりと残っている。


吉井藩陣屋の表門

 吉井藩陣屋の遺構はほとんど残っておらず、郷土資料館や文化会館の敷地に再建された表門が唯一のものである。この表門は吉井藩が矢田から吉井に移った後に建てられたもので、正確な建造年月は不明ながら、二百年を経たものと推定されている。明治四年(1871)の廃藩置県時に陣屋も解体され、この表門も売却された。長らく民家で使用されていたが、昭和四十五年(1970)に吉井町に寄贈された。

(春日社跡)


吉井藩陣屋内春日神社跡

吉井小学校の近くに春日社跡が残る。この場所は、吉井藩陣屋の西南隅に当たり、藩主鷹司松平家の氏神である春日社を奈良より勧請し、寛政三年(1791)に陣屋内に祀った跡である。その後、春日社は八幡宮に合祀された。陣屋は、東西約二百四十メートル、南北百六十メートルで、東南に表門があった。現在、春日社跡には吉井藩治碑(大正六年(1917)建碑)と皇太后皇后陛下御駐輦遺蹟記念碑(大正十年(1921)建碑)が建てられているほか、欅の大木の切株が残されている。


皇太后皇后陛下御駐輦遺蹟記念碑

(多胡碑記念館)


多胡碑記念館

 多胡碑は、栃木県の那須国造碑(なすのくにのみやつこ)、宮城県の多賀城碑とともに日本三碑と呼ばれる古代の石碑である。碑文は和銅四年(711)、多胡郡の設置について述べたものである。石碑は風化を防ぐために小屋の中に厳重に保管されている。


多胡碑

 周囲はいしぶみの里として公園化されており、その中心に多胡碑記念館が置かれている。多胡碑のほか、多胡碑記の碑、楫取素彦の歌碑などを見ることができる。


多胡碑記の碑

 多胡碑記の碑の撰文と篆額は男爵、元老院議官細川潤次郎。明治十二年(1879)、細川が上野三碑を巡覧し、多胡碑の考証や三碑の状態を記録に残している。書は書家日下部鳴鶴。建立は大正五年(1916)。


楫取素彦歌碑

 楫取素彦は、多胡碑の保管管理に力を尽くし、左の歌を残している。

 深草のうちに埋もれし石文の
 世にめづらるゝ時は来にけり

(馬庭念流道場)


馬庭念流道場

 上信電鉄馬庭駅そばに、馬庭念流道場が残されている。
 念流は相馬四郎義元が創始し、慶長三年(1597)、七世友松偽庵氏宗が樋口七郎定次に伝えた。念流八世となった定次は、中興の祖と仰がれた。馬庭道場傚士館(こうしかん)は慶応三年(1867)に門人たちにより建てられたもの。門人は武士のほか、農民など庶民にも及び、特に上州では隆盛を誇った。文政年間に起こった伊香保神社掲額事件は、馬庭念流と新興の北辰一刀流との間で起きた勢力争いであった。
 馬庭念流を修めた人物として、堀部安兵衛がいる。国定忠治も馬庭念流との関係を指摘されるが、忠治が学んだとされるのは、樋口家から永代免許を認められた本間念流である。

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