史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

前橋 Ⅵ

2021年02月20日 | 群馬県

(前橋プラザ元気21)

 前橋市は、JR前橋駅周辺より、北へ1キロメートルほどの本町界隈の方が賑やかである。前橋こども図書館やまえばしシティエフエムなどが入る前橋プラザ元気21は、かつて前橋藩の本陣があった場所で、目立たないが千代田通り側に明治天皇行在所跡碑がある。

 

明治天皇行在所跡

 

舊前橋藩本陣跡

 

(孝顕寺)

 前橋駅北口を西へ百メートルほど行った駐輪場でレンタサイクルをやっている(普通自転車に百円、電動自転車三百円)。自転車を調達して、早速朝日町の孝顕寺を目指した。

 

 孝顕寺は、結城松平大和家の菩提寺で、初代直基のとき越前勝山で開山された。初代から八代までの藩主像のほか、松平大和家の先祖となる戦国武将結城政勝の画像などが保存されている。

 

孝顕寺

 

 私が孝顕寺を訪ねた目的は、松平直克(なおかつ)の墓であった。直克の墓石は、長らく教学院(東京都練馬区)に保存されていたが、前橋城再興から百五十年を記念して、平成二十九年(2017)に里帰りを果たした。長らく孝顕寺を訪ねたいと思っていたが、ようやく今回実現することができた。

 

正三位松平直克墓

 

 松平直克は、天保十年(1839)の生まれ。父は久留米藩主有馬頼徳。嘉永二年(1849)、江戸から国もと久留米に移って教育を受け、文久元年(1861)十二月、川越藩主松平直侯の養嗣子となって襲封し、従四位下侍従に叙せられ、大和守を称した。以後、藩の経営に努め、文久二年(1862)十一月藩政改革に着手した。特に兵制を改めて銃隊を創設した。川越城が手狭で藩士の居住、軍事訓練にもこと欠くことを理由に旧前橋城の修築を嘆願した。文久三年(1863)、将軍家茂の上洛中における江戸留守居役を命じられ、生麦事件についてイギリスの幕府に対する賠償要求に際しては、品川砲台守備の任を兼ねて高輪陣営に駐在した。同年十月、松平春嶽の辞任以降空席となっていた政事総裁職に挙げられ、幕政の中枢に参画した。家茂に従って上洛し、元治元年(1864)攘夷の勅旨を受けて帰京。横浜鎖港を建策したが、たまたま水戸武田耕雲斎の叛乱が起こり、幕論が鎖港よりも反乱鎮圧を先にする意見に傾いたのに反発し、飽くまで鎖港を先にすべきと主張。ついに徳川(水戸)慶篤と意見対立して、同年六月、政治総裁職を免職され、八月には再び品川台場警備を命じられた。その後、幕府より再度政治総裁職への就任要請があったが、受けることはなかった。慶應三年(1867)正月、前橋城竣工のため移転し、川越城を幕府に引き渡した。将軍慶喜の大政奉還後は去就に苦しんだが、慶応四年(1868)二月、急ぎ上洛して慶喜の免罪および徳川家継嗣に関して奏上、ついで関東における徳川軍脱走者蠢動を鎮圧するため帰国、以後大総督府に属して各地の警備に従事した。明治二年(1869)、版籍奉還後、前橋藩知事となったが、同年八月、富山藩知事前田利同の弟栄之助(のちの直方)を養子に迎えて致仕、以来政治を避けて東京下谷茅町に寓居した。明治三十年(1897)、年五十九にて没。法名は「直指院殿見性良山大居士」。

 

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