史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

館林 Ⅴ

2021年11月13日 | 群馬県

(善長寺つづき)

 

善長寺

 

長山家之墓(長山甚平の墓)

 

 長山甚平は天保九年(1838)の生まれ。藩主移封の後を追って弘化三年(1846)、父とともに館林に移り、藩校に入って経史を学び、逸才の誉れがあった。のち同藩長山甚兵衛の嗣となり、大目付に挙げられ百石を給された。慶應四年(1868)の戊辰戦争では軍監を命じられ、幕僚とともに東北各地を転戦。凱旋後、白河、三春、会津等の残留兵とりまとめのため出張し、負傷者の救護、戦没者の供養を行った。同年、藩主領内に招魂祠を祭祀するや、そのことに預り以後社掌として奉仕し、かたわら藩事績等の編纂に従事した。明治二十七年(1894)、年五十七で没。

 

普昌院賢応徳孝居士(普賢寺武平の墓)

 

 普賢寺武平は文政十二年(1839)の生まれ。父は館林藩出羽分領の郡奉行であったが、幼時同藩普賢寺基忠の養子となった。弘化元年(1844)、十六歳で出仕し広間番士となり、天保七年()林奉行に進み、以後、小納戸頭、側用人を歴任。文久三年(1863)幕府において征長の議が起こると、藩主秋元志朝に長州と骨肉の親があるをもって、公武の間を調停するに及び、正使岡谷繁実に従い京都および防長の間を往来し、斡旋調停に努めた。明治二年(1869)、館林藩権参事にあげられ、禄二十石を加増されたが、明治三年(1870)、年四十二で病没した。

 

(法輪寺つづき)

 

村山家(村山具瞻の墓)

 

 村山具瞻(ともみ)は、嘉永元年(1848)の生まれ。父は館林範中老村山勘解由。戊辰戦争では徒士隊長として藩兵を率いて東北各地を転戦、会津若松城下鶴沼川において諸藩に先んじて困難なる敵前渡河を敢行し、軍監桐野利秋はその行為を激賞して菊章の指揮旗を与えた。凱旋後、中隊司令官に任じられたが、いくばくもなく東京警視庁に奉職。権大警部、中警部長を歴任し、明治十年(1877)の西南戦争では西郷隆盛との旧誼を重んじて辞任。以降、製塩業に従事していたが、明治十六年(1883)、帰郷し邑楽郡長となり名園躑躅ヶ岡の復興などに尽力した。明治二十五年(1892)、年四十五で没。

 

根岸家墓(根岸鉄次郎の墓)

 

 根岸鉄次郎は文政十一年(1838)、館林藩物頭役の家に生まれ、幼少より武技を好み、ことに馬術に練達した。万延元年(1860)、藩命により津軽に赴き馭法を学んだ。同年、抜擢されて藩校の馬術師範となった。慶應三年(1867)、軍馬奉行となり軍馬隊を編成し、戊辰戦争における活躍の素地をつくった。同年十二月、中老職に進み三百石を給された。慶應四年(1868)、政府軍が東下するという報に接すると、老臣たちと図って使者を西上させ、勤王の素志を訴えて、藩の動向を明らかにした。明治二年(1869)、参政となった。明治十年(1877)には士族の金禄をもとに第四十国立銀行を館林に創立し、その頭取となった。明治二十六年(1893)、年六十六で没。

 

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