史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

伊勢崎 Ⅱ

2021年11月20日 | 群馬県

(紅厳寺跡)

 

泰量院殿大寛樂善大居士(跡部良弼の墓)

 

 伊勢崎市宮子町の紅厳寺跡墓地に跡部良弼(よしすけ)の墓がある。

 跡部良弼は、唐津藩主水野忠光の五男に生まれた。文政六年(1823)、西丸小姓組から中奥番となり、文政八年(1825)使番に進み、文政十三年(1830)三月には駿府町奉行に転じ、その後堺奉行を経て、天保七年(1836)四月、大阪の東町奉行に転じた。翌年、大塩平八郎の乱があり、奉行の出馬によって鎮圧されたが、奉行所内の狼狽振りは今に伝えられている。天保十年(1839)九月、大目付となり、その後も勘定奉行、江戸町奉行、小姓組番頭、留守居を歴任し、安政二年(1855)には講武所総裁を兼ね、同年八月、老中阿部正弘の幕政改革により留守居から大目付に再勤、海防掛を兼ね、安政三年(1856)に江戸町奉行、さらに元清水付支配、万延元年(1860)に再び留守居に転じた。文久元年(1861)八月、和宮降嫁の東下供役に命じられ、上京して供をして帰府した。文久二年(1862)、側衆を兼帯し、文久三年(1863)七月、御側御用取次となって十二月の家茂上洛に供奉した。翌元治元年(1864)免じられた。慶應四年(1868)二月、若年寄に昇進したが、辞職を願い出て許され、菊間縁頬詰となった。明治元年(1868)十二月、没。

 

(田村弥平旧宅)

 境島村地区は、江戸時代から蚕種製造が盛んな地域であった。田島弥平旧宅跡を中心に、幕末から明治にかけて建てられた大きな養蚕農家が残されている。

 

田島弥平旧宅 主屋

 

別荘と桑場

 

 田島弥平は文政五年(1822)に上州島村(現・伊勢崎市島村)に生まれた。渋沢栄一とは縁戚関係にあった。父の弥兵衛とともに蚕種の産地を訪ね、蚕種製造に適した養蚕方法を研究した。換気に気を配り、自然に近い環境で蚕を飼育する「清涼育」を開発し、安定した繭生産に成功した。文久三年(1863)、主屋を建築したが、二階の蚕室の四方に窓を配置し、屋根には櫓(やぐら)を取り付け、室内の温度や湿気を調整できる造りにした。この様式は「島村式」と呼ばれ、全国の養蚕農家に広まった。明治五年(1872)には蚕種の製造・販売を行う、島村勧業会社を設立し、明治十二年(1879)には蚕種のイタリア直輸出も手掛けた。

 現在も子孫の方が居住されており、見学できるのは外観のみとなっている。主屋の向かいに桑場、それに隣接して別荘、香月楼跡、その向かい側には新蚕室跡がある。

 

貞明皇后行啓記念碑

 

 皇居で行われている養蚕は、明治四年(1871)から始まったが、明治五年(1872)、同六年(1872)、十二年(1879)には弥平が養蚕の指導者に選ばれた。昭和二十三年(1948)には大正天皇の皇后貞明皇后が田島弥平家を訪れた。それを記念して、庭に記念碑が建てられた。

 

 田島弥平旧宅の北側に、明治二十七年(1894)に弥平の娘たみが建てた顕彰碑が建てられている。

 

田島弥平の碑

 

(田島弥平旧宅案内所)

 旧境島小学校には校舎を利用して田島弥平旧宅案内所が開かれている。旧宅や寶性寺墓地周辺には駐車スペースがないので、ここに自動車を置いて出かけるのが良いだろう。なお、島村蚕のふるさと公園にも駐車場があり、旧宅跡までの距離は変わりない。

 

田島弥平旧宅案内所

 

島村沿革碑

 

 現在利根川は島村のほぼ中央を流れているが、過去この流れは何度も変わり、その都度島村の人々の生活に大きな影響を与えてきた。その様子について、忘れることがないように明治三十年(1897)、島村の人々が三島毅に依頼して作成した碑文である。篆額は山縣有朋。書は金井之恭。

 

島村蚕種業績之地

 

 田島弥平旧宅案内所から西へ数十メートルの場所に島村蚕種業績之地碑が建てられている。

 明治初期に生糸や蚕種はわが国の重要な輸出品となり、長く日本経済を牽引したが、今やすっかりその灯は消えてしまった。しかし、往時島村の人たちは勧業会社を興し、欧州に向けて蚕種輸出を実現した。そのことを記念して、昭和六十三年(1988)に田島弥太郎博士が建てたもので、福田赳夫の書。

 

(寶性寺)

 

寶性寺

 

 田島弥平旧宅跡のすぐ隣に寶性寺がある。寶性寺は、田島家の菩提寺である。なお、田島家の墓所は、寶性寺境内から二百メートルほど南東の墓地にある。

 

金井烏洲副碑

 

 金井烏洲(うじゅう)と一族の墓の入り口に副碑が建てられている。題額は東久邇宮妃殿下。撰文並びに書は渋沢栄一。昭和四年(1925)の建立。

 金井家は新田氏の支族で、近世には近在に聞こえるほどの豪農であった。金井萬戸は酒井抱一などと交際した俳諧の名手だったといわれる。莎村、烏洲、研香という三人の兄弟を生んだ。莎村は詩文に優れた人であったが、文政七年(1824)に三十一歳の若さで夭折した。

 

華竹庵萬戸居士墓

 

金井研香の墓

 

 烏洲の末弟研香も南宋画家として知られた。明治十二年(1879)、七十四歳で没。

 

莎村金井君髪塚銘

 

杏雨金井君墓碣

 

 金井杏雨は烏洲の息。文久三年(1863)、三十九歳で逝去。

 

烏洲金井君墓碣

 

 金井烏洲は、兄の莎村から経史を学び、二十一歳のとき江戸に出て、父萬戸のもとを訪れていた春木南湖などから書画を学んだ。二十五歳のとき莎村が早世したため、帰郷して金井家を継いだ。天保三年(1832)には関西を回り頼山陽など多くの名家と交誼した。この頃から画名を謳われるようになった。江戸後期の画壇を代表する存在であったが、安政四年(1857)、六十二歳で没した。貴族院議員にして書家としても知られる金井之恭は、烏洲の四男である。

 

田島弥平之墓

 

 金井一族の墓所からさほど離れていない田島家の墓地に田島弥平の墓がある。田島弥平は明治三十一年(1898)、七十六歳で没。

 

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