史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

米沢 Ⅱ

2012年10月03日 | 山形県
(上杉神社)


上杉神社

 四年前に息子と米沢を歩いたときは、滞在時間わずかに二時間しかなく、回り切れなかった史跡も数多かった。今回はそのリベンジである。前回も上杉神社周辺は歩いたが、振り返れば取りこぼしがあった。その一つが上杉曦山公之碑である。


上杉曦山公之碑

 曦山は上杉家十三代上杉斉憲の号である。上杉斉憲は、文政三年(1820)に生まれ、天保十年(1839)に家督を継いだ。戊辰戦争の責を負って、明治元年(1868)十二月、隠居。明治二十二年(1889)、七十七歳で逝去した。この碑は、明治二十四年(1891)、旧藩士により建立されたもので、題字は有栖川熾仁親王、撰文は勝海舟。

(興譲館跡)


藩校興譲館跡地記念碑

 松が岬公園の北側、興譲小学校付近に藩校興譲館跡石碑がある。米沢に藩校が開設されたのは、安永五年(1776)、九代上杉鷹山(治憲)のときである。鷹山の師、細井平洲によって興譲館と名付けられた。正門は南側に位置し、正面奥に孔子を祀る先聖殿、その手前に講堂が配置されていた。元治元年(1864)の大火により類焼し、同年東町に移設された。

(法音寺)


米沢藩主上杉家墓所

 私が法音寺の上杉藩主墓所を訪ねた時、既に拝観時間を過ぎており、受付には人がいなかった。やはり遅かったかと諦めかけた瞬間、資料館の鍵をかけおわった係の老人が現れ、中に入れてくれた。
 中央には上杉家初代であり、戦国武将上杉謙信の廟が置かれ、その両側にニ代から十ニ代までの歴代藩主の墓が左右に交互に造られた。九代鷹山の嫡子顕孝がそれまでの火葬から土葬に変更されて以降、十ニ代斉定まではいずれも土葬されることになった。なお、十三代以降の墓は、東京の興禅寺にある。


正二位上杉茂憲公塋髪碑

 ニ代景勝と四代綱勝の墓の間に、十四代茂憲の遺髪を収めた墓がある。
 上杉茂憲は、弘化元年(1844)、十三代藩主斉憲の長男に生まれた。慶應元年(1865)には父の名代として上洛して京都警護にあたった。戊辰戦争では米沢藩は、奥羽越列藩同盟の中心的存在となったが、降伏すると一転して茂憲名で謝罪書を提出し、その後は米沢藩兵を率いて庄内、会津討伐に進撃して、謝罪降伏の実を挙げた。明治元年(1868)十二月には四万石を削られたものの、家督を相続することが許され、翌年には知藩事に任じられた。明治十四年(1881)には沖縄県令兼判事、明治二十三年(1890)には貴族院議員に当選。大正八年(1919)、七十六歳で没した。

(日朝寺)


日朝寺


千坂高雅墓

 日朝寺は、米沢藩の重臣千坂家の菩提寺である。千坂家は代々米沢藩の家老などの住職を務める家系で、赤穂浪士の事件で陣頭指揮をとって名家老と謳われた千坂兵部などを輩出している。幕末米沢藩の奉行として藩政を主導した千坂太郎左衛門高雅もこの寺に眠る。
 千坂高雅は、天保十二年(1841)に江戸家老千坂伊豆高明の長男に生まれた。十九歳のとき、藩校興譲館定詰勤学生に選ばれた。藩主上杉斉憲の洛中警備に従い上洛した。二十五歳で興譲館学頭。慶應二年(1866)には異例の抜擢を受け、国家老となった。大小具足を廃し、横浜から一万挺の鉄砲を購入して訓練するなど、軍制改革に尽した。慶應三年(1867)、藩兵三千人を率いて上洛したが、薩長の武力倒幕に反発し、佐幕に藩論を統一した。戊辰戦争後は、謹慎を命じられたが、明治三年(1870)、藩大参事に任じられた。翌四年(1871)には養蚕製糸調査のためにフランスおよびイタリアに留学した。帰国後は、内務権少丞、石川県令、岡山県令を歴任した。明治二十九年(1896)勅撰貴族院議員にも選ばれている。大正元年(1912)、七十二歳にて没。

(高国寺)


高国寺

 近藤勇の墓は、三鷹、板橋、会津、岡崎にあるが、やや意外ながらここ米沢にもある。
 幕末の頃、上州桐生から招かれて米沢織物の貢献した近藤金太郎は、近藤勇と従兄弟であった。金太郎がたまたま上京した折、板橋で処刑された近藤勇の首をひそかに持ち帰って火葬し、菩提寺である高国寺に埋葬したという。


近藤勇の墓

(興譲館高校)


興譲館高校

 興譲館高校も四年前の米沢旅行で行けなかったスポットの一つである。四年越しでようやく訪ねることができた。
 藩校興譲館は、明治五年(1872)に廃校となったが、旧藩士らによる私立米沢中学開設があり、昭和二十三年(1934)、県立第一高校を経て、昭和三十一年(1956)に興譲館高校として発足した。校名の由来は、『大学』の一節「一家仁、一国興仁、一家譲、一国興譲」(一家仁なれば、一国仁に興り、一家譲なれば、一国譲に興る)から。校舎の前には「一家譲一国興譲」と刻んだ石碑がある。


一家譲一国興譲

(千眼寺)


千眼寺

 千眼寺は、長禄元年(1457)、北越の豪族色部長真により岩船郡平林に建立されたのが始まりで、上杉氏の米沢転封により色部氏も米沢に移ったことに従って、この地に移転した。境内には歴代色部氏の墓がある。

 幕末の色部家の当主は、色部長門長久。文政八年(1825)に色部篤長の長男に生まれ、二十九歳で家督を継いだ。嘉永六年(1853)には異国防御のための三手旗奉行に任じられた。安政六年(1859)には江戸家老兼侍頭となり、元治元年(1864)奉行職に就任。戊辰戦争がおこると、新発田、会津、庄内藩とともに新潟警護にあたった。新潟港奉行となった色部長門は、慶應四年(1868)七月、薩長軍の襲撃に耐えきれず、自刃した。年四十四。戦後、米沢藩の叛逆首謀者として家名断絶となったが、その後再興された。


色部長門の墓

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