史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「西郷隆盛の首を発見した男」 大野敏明 文春新書

2014年04月27日 | 書評
明治十年(1877)九月二十四日、官軍の総攻撃の前に遂に薩軍は壊滅する。このとき西郷隆盛の生死は、政府にとって非常に重要な問題であった。もし、西郷の死が確認できなければ、西郷生存説が流れ、政府はいつまでも西郷の幻影におびえることになるだろう。実際、西郷の戦死が確認されたにもかかわらず、庶民の間では「西郷は生きている」「ロシアに渡った」「いや、インドにいる」といった噂が飛び交った。仮に西郷の首が見つからなければ、こういった噂はさらに信憑性を増して人々の話題に上ったことだろう。
西郷の首が発見された場面を、司馬遼太郎先生の「翔ぶが如く」で見てみる。
――― ほどなく首が発見され、千田という中尉が、首級を発見した前田恒光という兵卒をつれてそれを持参した。首は泥で汚れていた。山県がそれを付近の泉で洗わせた。

ここに登場する「千田という中尉」が本書における主人公である。「翔ぶが如く」には恐らく数千という人物が登場するが、千田登文中尉が登場するのはこの場面だけである。本書では千田が残した「履歴書」をもとに幕末から明治を生き抜いた一人の軍人の生涯を描いてみせた。
千田登文は、加賀藩士である。藩主の命を受けて戊辰戦争に従軍したのを皮切りに、西郷の首を発見するという大手柄を立てた西南戦争、さらに日清・日露戦争にも参戦した。代表的な明治軍人の履歴である。また四人の息子は全員が陸軍士官学校に入り、娘婿四人のうち三人までが陸軍士官学校、陸軍大学校を優秀な成績で卒業したエリートであった。
千田が残した「履歴書」は、陸軍が将校の経歴書を作成するために提出させたものらしく、事務的に事実を羅列しているに過ぎない。それでも長男登太郎が戦死、三男木村三郎は切腹するなど、波乱に富んだ生涯をうかがい知ることができる。
各方面から千田登文に送られた文書が掲載されるが、「人と為り謹厚瑞厳」「品行端正」「人格高潔識見高邁」「志操堅固」という文字が続く。この人の生き様が透けて見えるようである。
三男木村三郎は、皇太子(のちの昭和天皇)御行啓のもと大演習で敗北する失態を演じ、それを恥じて切腹して果てた。まだ三十三歳という若さで、あとには妻と幼い三人の子が残された。このことについて「履歴書」には「責任観念のため自刃」と事務的に記されているのみである。
木村家では、武家のしきたりそのままに食事の際は、当主、前当主、次期当主だけが膳を並べて食事したという。そのような精神風土だったからこそ、演習の失態という、我々からみれば「それくらいのことで」自分の命を差し出してしまうのである。既に大正の世を迎えていたが、まだ武士の精神が生きていた時代でもあった。


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