(東浦墓地)
従六位伊達邦直之墓
東浦墓地に、伊達邦直、吾妻謙主従の墓がある。この墓地も非常に広い。管理事務所の前に彼らの墓があるので、それを目指して行けば、見つけやすい。
伊達邦直は、仙台藩一門岩出山一万六千石の領主。戊辰戦争後の明治二年(1869)、新政府に北海道開拓の議があるのを聞き、同族の伊達邦成とともに請願し、石狩国札幌、空知弐郡の支配を命じられた。明治三年(1870)、旧臣を従えて開拓に着手し、爾来刻苦相援け経営すること二十余年。開拓千町歩、移民三千余に達した。明治十四年(1881)には准陸軍少尉に任じられ、開拓使七等属を兼任、明治天天皇の北海道行幸の際には、札幌行在所にて謁見を賜った。明治二十四年(1891)没。
伊達家の墓
吾妻謙は、弘化元年(1844)、岩出山領主伊達邦直の家臣の家に生まれ、藩校養賢堂に学んで才能を賞された。維新後、邦直は北海道開拓を請い、石狩の札幌、空知に移住した。謙はその事実上の指導者として明治三年(1870)以降二百余戸を当別に移住させ、経費の調達と開拓に辛酸をなめたが、ついに開拓の模範村を築いた。明治十一年(1878)、開拓長官黒田清隆に意見を具申し、属吏となった。その後も戸長を歴任し、農産の発展に貢献した。明治十四年(1881)、北海道行幸に際し賞せられ、のち邦直の正五位につぐ贈位(従五位)を受けた。明治二十二年(1889)、四十六歳にて没。吾妻謙の死を聞いた邦直は落胆し、その日の日記に「三時三十分吾妻謙死す、悲観す」と記した。
吾妻謙墓
吾妻謙は、本庄睦男の小説「石狩川」の主人公阿賀妻謙のモデルである。
(本庄睦男文学碑)
本庄睦男文学碑
平成二十六年(2014)、石狩川を望む地に建立された本庄睦男文学碑である。本庄睦男が小説「石狩川」の執筆を始めたのは、昭和十三年(1938)であったが、翌昭和十四年(1939)には病が悪化し逝去した。
(本庄睦男生誕地)
本庄睦男生誕之地
文学碑の場所から自動車で五分くらい行ったROYCE(ロイズ)の太美工場前の一角に本庄睦男生誕地碑が置かれている。ロイズというのは、札幌に本社を置く、チョコレートや洋菓子の会社である。

従六位伊達邦直之墓
東浦墓地に、伊達邦直、吾妻謙主従の墓がある。この墓地も非常に広い。管理事務所の前に彼らの墓があるので、それを目指して行けば、見つけやすい。
伊達邦直は、仙台藩一門岩出山一万六千石の領主。戊辰戦争後の明治二年(1869)、新政府に北海道開拓の議があるのを聞き、同族の伊達邦成とともに請願し、石狩国札幌、空知弐郡の支配を命じられた。明治三年(1870)、旧臣を従えて開拓に着手し、爾来刻苦相援け経営すること二十余年。開拓千町歩、移民三千余に達した。明治十四年(1881)には准陸軍少尉に任じられ、開拓使七等属を兼任、明治天天皇の北海道行幸の際には、札幌行在所にて謁見を賜った。明治二十四年(1891)没。

伊達家の墓
吾妻謙は、弘化元年(1844)、岩出山領主伊達邦直の家臣の家に生まれ、藩校養賢堂に学んで才能を賞された。維新後、邦直は北海道開拓を請い、石狩の札幌、空知に移住した。謙はその事実上の指導者として明治三年(1870)以降二百余戸を当別に移住させ、経費の調達と開拓に辛酸をなめたが、ついに開拓の模範村を築いた。明治十一年(1878)、開拓長官黒田清隆に意見を具申し、属吏となった。その後も戸長を歴任し、農産の発展に貢献した。明治十四年(1881)、北海道行幸に際し賞せられ、のち邦直の正五位につぐ贈位(従五位)を受けた。明治二十二年(1889)、四十六歳にて没。吾妻謙の死を聞いた邦直は落胆し、その日の日記に「三時三十分吾妻謙死す、悲観す」と記した。

吾妻謙墓
吾妻謙は、本庄睦男の小説「石狩川」の主人公阿賀妻謙のモデルである。
(本庄睦男文学碑)

本庄睦男文学碑
平成二十六年(2014)、石狩川を望む地に建立された本庄睦男文学碑である。本庄睦男が小説「石狩川」の執筆を始めたのは、昭和十三年(1938)であったが、翌昭和十四年(1939)には病が悪化し逝去した。
(本庄睦男生誕地)

本庄睦男生誕之地
文学碑の場所から自動車で五分くらい行ったROYCE(ロイズ)の太美工場前の一角に本庄睦男生誕地碑が置かれている。ロイズというのは、札幌に本社を置く、チョコレートや洋菓子の会社である。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます