史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

伊達

2020年04月04日 | 福島県

(興国寺)

 

興国寺

 

 文化四年(1807)、松前家は蝦夷の領地を召し上げられ、梁川藩九千石に転封された。蝦夷交易により実質的に数万石の収入があったとされる松前家にとって、改易に等しいものだったといわれる。このころ、幕府は北方警備を強化する必要に迫られており、それを松前家に任せるわけにいかないという事情があったのであろう。転封直後から松前家はひたすら幕府や公家に対して旧領地への復帰を働きかけ、移封から十五年後の文政四年(1821)、国替えの沙汰を獲得した。同時に梁川藩は廃藩となり、幕府直轄となったが、安政年間に松前藩の飛び領地となってそのまま明治を迎えた。興国寺墓地にある松前藩士の墓は、旧松前家支配時代の名残である。

 

松前藩士の墓

 

安岡正煕(藤田克馬)之墓

 

 先日読破した安岡章太郎「流離譚」は、冒頭東北弁を話す親戚が筆者を訪ねる場面から始まる。「親戚に一軒だけ東北弁の家」があったのが、梁川(現・伊達市)である。

この家系は、安岡嘉助の娘・真寿と覚之助の長男・平太郎(松静)との間に生まれた娘・美名吉(みなえ)が藤田家から克馬(安岡正煕)を婿に迎えた家で、安岡章太郎は「本家」と呼んでいる。

 安岡正煕は明治二十年(1887)に発令された保安条例によって東京を追われ、相州(横浜?)に逃れ、そこで東北に行けば蚕卵紙の輸出で非常な好景気にめぐまれているという噂を聞き、仙台へ行って医院を開業したが、うまくいかず。継いで梁川で眼科医を開いたところ、これが繁盛したため、改めて美名吉を妻に迎え、義祖母万喜、養母真寿を伴って梁川に移住した。昭和十三年(1938)、七十六歳にて没。

 正煕の墓の回りには、万喜や後妻安猪らの墓もある。

 

(保原町金原田)

 

菅野八郎の生家跡

 

 今回の旅の最大の眼目は、伊達市保原(ほばら)町金原田の菅野(かんの)八郎関係の史跡を訪ねることにあった。

 菅野八郎は文化七年(1810)伊達郡金原田中屋敷の名主を務める家に生まれた。儒者熊坂宇右衛門の門下で朱子学を修めた父和蔵の膝下で成長し、自然道を学び、水戸藩士の義弟太宰清右衛門に「おくった書状「秘書後の鑑」および「異人征伐海岸防備」が幕府役人の目にとまり、安政六年(1859)水戸密勅事件と同一視されて捕らえられ、万延元年(1860)四月、八丈島に流された。文久三年(1863)九月、許されて帰村したが、代官所から要視察人とされていた中で「誠信講」という農村自衛と教化を目的とした講を組織した。慶應二年(1866)六月、農民約五万人が生糸蚕種役御免・高利貸付御免・伝馬助郷御免を要求して世直し一揆を起こした(信達騒動)。八郎は「世直し大明神」と称されるほど農民の中に入って活躍した。同年七月、一揆指導者として再び捕らえられたが、慶応四年(1868)三月、赦免。金原田村に帰り、明治二十一年(1888)、七十九歳で没した。

 

(吾妻山)

 

菅野八郎自刻の碑

 

 生家跡の一本西の道を南に進み、最初の分岐を左に行くと昇り坂となり、山頂近くに屋根に覆われた自刻碑が現れる。安政四年(1857)、八郎自ら「八老、魂を留此而祈直(ここにとどまりてただしきをいのる)」と刻んだ岩である。

 

留此而祈直

 

(崖谷共同墓地)

 

大寶軒椿山八老居士(菅野八郎の墓)

 

 google mapで訪ねる場所をネットで疑似体験することが可能となり、おかげで菅野八郎の生家跡や自刻碑などの位置も概ね把握できた。ただし、google mapだけで墓を特定するのは不可能で、こればっかりは現地を歩かないと発見できるものではない。

菅野八郎の墓の所在地は、「明治維新名辞典」(吉川弘文館)によれば、崖谷共同墓地となっている。しかし、崖谷共同墓地という場所はネットで検索してもヒットせず、これもgoogle mapで生家近くにある墓地を探し出し、おおよその見当をつけておいた。生家跡から二本西側の道を南に進んだところである。

行ってみると、地元の二人連れのおばさんが墓参り中で、珍しいよそ者の出現に興味津々であった。「菅野八郎の墓を探している」と答えたところ、お二人ともご存じないようで、「近所の物知りの人に聞いてみたらわかるかもしれない」などとおっしゃっていたが、だったら墓地内をしらみつぶしに歩いた方がずっと早い。早々におばさんたちと別れて墓地内を歩き回ったところ、菅野家の墓所に自然石の墓を発見した。「明治維新人名辞典」に記載されているとおり、表面には「大寶軒椿山八老居士」という戒名が刻まれている。

 

(仙林寺)

 

仙林寺

 

 仙林寺には、太宰清右衛門の供養塔を訪ねた。簡単にみつかるはずであったが、残念なことにいくら探しても出会うことができなかった。太宰清右衛門の妻が、菅野八郎の妻と姉妹だったことから、両者の緊密な交流が始まり、太宰の影響を受けて八郎は水戸思想に染まったといわれる。太宰清右衛門の供養塔がみつからなかったので、その代わりに、仙林寺境内で見つけた熊坂適山・蘭斎兄弟の合作画碑や蘭斎の墓などを紹介しておく。

 

熊坂適山・蘭斎合作画碑

 

 熊坂適山は、寛政八年(1796)、陸奥伊達の生まれ。梁川に移封された松前藩家老蠣崎波響に絵画を習い、京都に出て浦上春琴から文人画を学んだ。元治元年(1864)、六十九歳にて死去。

熊坂蘭斎は、寛政十一年(1799)の生まれ。長崎で蘭学、医学を学んだ。のちに松前藩に仕えて藩医となった。明治八年(1875)、七十七歳にて死去。

 

熊坂蘭斎翁墓

 

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