史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

古河 Ⅱ

2015年01月24日 | 茨城県
(古河本陣跡)


古河城下本陣址

 少し時間があったので、電車で古河まで往復してきた。駅前で無料のレンタサイクルを手に入れ、市内を一時間ほど散策した。
 JR古河駅近く、線路に平行して南北に走る道が旧日光街道で、周辺に昔の風情を残す建物が点在している。商店街のちょうど真ん中辺り、足利銀行の前に古河宿本陣の石碑がある(古河市中央町1‐2‐37)。その向いには、高札場の跡もある。古河宿は日光参詣の旅人の往来などにより賑わった。


史蹟 古河城下高札場址

 ここから少し北に行くと、尊勝院というお寺の角に「日光道中古河宿道標」が往時の姿のまま立っている(中央町1‐10)。


日光道中古河宿道標

 この道標は文久元年(18861)に太田屋源六が願主となり、八百屋儀左衛門ら十一人によって建てられたもので、常夜灯形式のものである。正面には「右江戸衛」右側面には「左日光道」と刻まれている。

(神宮寺)
 日光道中古河宿道標の向い側が、神宮寺の境内である(古河市横山町1‐1‐11)。墓地に水戸藩殉難者追悼碑が建てられている。


神宮寺


水戸藩元治甲子之變殉難追悼碑

 那珂湊では、元治元年(1864)十月五日より幕府軍と筑波勢、大発勢、潮来勢の連合軍が交戦し、激戦の末連合軍が勝利を収めた。ところが、筑波勢らと同一視されることを恐れた榊原新左衛門は、幕府側からの接触に応じて、十月二十三日に投降した。武田耕雲斎、山国兵部らはこれに強硬に反対したが、榊原新左衛門の意思は変わらなかった。
 投降した旧頼徳軍は、佐倉藩や高崎藩、関宿藩に預けられたが、簡単な取調のあとは、投降時の密約とは裏腹に罪人扱いであった。その後、彼らは佐倉、高崎、関宿三藩と、古河、忍、福島、大多喜等二十二藩に分割して預けられた。さらに同年十二月十一日には、榊原新左衛門ら百人余りは古河藩に引き渡された。
 翌慶応元年(1865)四月、榊原新左衛門らのうち四十三名は古河藩牢獄内にて切腹・斬首に処された。神宮寺墓地の追悼碑はその霊を慰めるために建立されたもので、傍らの墓標に切腹した十七名と斬罪に処された十二名の俗名と法名が記されている。その中には、榊原新左衛門(三十一歳)、谷鉄蔵(三十一歳)といった幹部や、大胡聿蔵(四十三歳)の名もある。大胡聿蔵は、早くから尊攘活動に参画した志士で、井伊直弼襲撃にも関与したといわれる人物である。

(東片町自治会会館)


鎮火稲荷神社

 東片町自治会会館の前に小さな稲荷社がある。この辺りが古河藩藩校盈科堂の跡である(古河市大手町4‐19)。


古河藩盈科堂及教武所趾

 古河藩盈科堂は、宝暦十二年(1762)、六代藩主土井利益によって開かれた藩校である。土井家は古河から鳥羽、鳥羽から唐津、そして唐津から古河へと国替えの多い大名であった。利益が唐津時代に城内に学館を建て盈科堂と名付けたという記録が残る。土井氏が再び古河に移り、盈科堂も城内梅町に置かれ、幕末まで存続した。

(水戸藩勤王志士殉難之地)
 盈科堂址から西へ百メートルほどの住宅街の中に水戸藩勤王志士殉難之地碑がある(古河市西町2‐2)。


水戸藩勤王志士殉難之地碑

 榊原新左衛門らが切腹、斬刑に処された古河藩牢獄跡である。背面には、切腹した十七名と斬首された十二名の名前が刻まれている。

(鷹見泉石生誕之地)


鷹見泉石生誕之地碑

 古河第一小学校の北側に鷹見泉石生誕の地碑がある(古河市中央町3‐10)。
 鷹見泉石は、天明五年(1785)六月、土井氏代々の家臣鷹見忠徳の長男としてこの地に生まれた。十一歳のときから藩主の側にあり、利厚、利位の二代に仕えた。江戸家老として敏腕を奮った。取り分け藩主土井利位の大塩平八郎の乱の平定、京都所司代から老中への昇進、幕政への参画など、利位の活躍の蔭には常に泉石の補佐が預かって大きかったといわれる。

(永井路子旧宅)
 直木賞作家永井路子は東京で生まれたが、結婚するまでの約二十年間を母の郷里である古河で過ごした(古河市中央町2‐6‐52)。旧宅は江戸末期に建てられた二階建て土蔵造りである。
 永井路子というと、中世を題材にした小説家というイメージが強いが、近年、『岩倉具視‐言葉の皮を剥ぎながら』(文春文庫)では岩倉具視を中心に幕末維新史を取り上げた。


永井路子旧宅

(河鍋暁斎誕生之地)


河鍋暁斎誕生之地碑

 永井路子旧宅と同じく江戸町通り沿い、二百メートルほど駅寄りに行ったところに河鍋暁斎誕生の地碑が建てられている(古河市中央町2‐3‐50)。
 河鍋暁斎(ぎょうさい)は、天保二年(1831)古河藩士の子に生まれた。七歳のとき歌川国芳の画塾に入門し、父の命で十歳から狩野派の洞白陳信に画法を学んで頭角を現した。明治に入って書画会で高官批判の画を描いて投獄され、以後暁斎と名乗るようになった。暁斎の画業は、伝統的な日本画から錦絵、狂画、漫画など多彩である。個人的には上野戦争や西南戦争を描いた錦絵が印象に残っている。明治二十二年(1889)没。五十九歳。

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