夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

お山参詣準備作業本格化 その1 語り部

2012-07-23 06:44:52 | 私と福祉とであいの旅
7月21日(土)

 きょうから子供たちは夏休みです。朝6:30町会の集会所に集まって来ました。
 そしてこの日、「語り部」という町会の長寿会の代表者から子ども会の皆さんに、町会の歴史と文化について語り聞かせをする機会を持ちました。
 65年ぶりの昔ながらのお山参詣復活を企画した時の一番の狙いは、次世代の人たちへの文化とコミュティ再生の力をつなぐことでした。
 私の家の隣の家が、たまたま町会長さんの家であったこと。そしてこの町会長さんは、町の傑出の人物であったこと。社協の会長もやられていて、私は度々この会長と一緒に活動をしてきたことなどがあって、お山参詣を私の引退記念として実施したいので力を貸して欲しいということで、町会住民がこぞって賛成をしてスタートしました。
 この町会は170世帯ほどありますが、古来よりまとまりの良い町会だったようです。そしてこれまで、地元には小学校や保育所、JA支所、神社、造り酒屋、バス通りなどもあって、毎年ねぷた祭りには町会でねぷたも出し、お山参詣も出し、獅子踊保存会も子供たちから高齢者まで参加して賑わった時代もあったのです。
しかし、高度成長期が過ぎてから、次第に少子化や経済の低迷期にかかると、JA支所や小学校などが統廃合され、消えてゆきました。
 この町会長の町民からの信頼度は抜群で、これからこういう方が果たして出てくるだろうかというくらいです。だからこの方のいるうちに、ぜひとも一つの実績を残したいという思いがありました。
 市のまちづくり事業に応募し、企画書を出し満額を獲得できたのも、そういう背景があるのです。
 40名の実行委員が主体となって、170人が参加することになりました。本番まであと40日を切って、準備活動も後半になって来ました。
 きょう最初のプログラムは、長寿会長と副会長の語り部からスタートです。


 長寿会長(80歳)からは、国民学校時代の生徒の様子や、昔の人々の暮らしぶり、災害などについてもお話を聞くことができました。写真をスライドで見ると本当に、暮らしぶりそのものの変化も感じられました。

結婚観

2012-07-17 06:50:18 | つれづれなるままに
 結婚披露宴に招待され、出席した。私はそもそも格式というものが苦手で、式と名のつくものは、極力避けたいと内心思っている。
 形は大切だと思う人はいるだろうが、中身こそ大事だと思う人もいる。
 あなたはどんな服を着るのかということと、そんなに違わない。個々の生き方の違いとでも言ったらいいのではないか。戦前は軍国主義真っ盛りの頃、他人の生活のあり方にまで口を挟む時代があったようだが、今や時代は変わって自由な気風が尊重されている。
 無宗教の私は結婚式など無用と思う時代があり、両家の最も身内の者だけで顔合わせの食事会をしただけである。
 そうしたから結婚生活の質が違うかといえば、そんなに感じられない。
 私が一番肝心なこととして強調したいのは、「世間体」であるとかはどうでもいいということである。そして、自分の力量で生きることができることが、結婚の第一歩だと思う。親から散財してもらってまで、見栄をはった結婚披露宴は望まなかった。そもそも、あのセレモニー自体が私には気に入らない。どう考えても、あの式場の言いなりになった中に自分らしいものを感じることなどできないのだ。
 他人はともかく、私は結婚というこれまで全く別の暮らしを生きた双方が、同じ家・空間で価値観を共にして生きていくのだ。並大抵のことではないことが、時間とともに感じられることだろう。
 まして相手方の家族と同居するということは、体内に見しらに行きものが巣食うようなものではないか。通常の体であっても発熱し、時には膿み、病んだりもする。それが普通だろう。長い年月で、慣れていくしかない。慣れと言っておかしければ、学んでその共同体に同化していくしかないのではないか。
 所詮人間で、完全なる結婚などありはしない。それこそが40年近い結婚生活の、実感にほかならない。
 一番大切にしたいことは、その家ごとの個性的な生活である。
 

まとまった雨ようやく

2012-07-16 06:01:33 | つれづれなるままに
7月16日(月)

 空梅雨と思われた青森県は、ダムの水も干上がってしまっていた。水田を始め、畑の土もカラカラに乾ききっていた。
 ようやく昨日くらいから本格的なまとまった雨が降り、植物も潤っていることだろう。

 昨日は家族4人で、弘前交響楽団の「2012サマーコンサート」に出かけた。市民会館に開場30分前に到着したがすでに駐車場は満車になっていた。
 コンサートにはできるだけ娘たちを連れていきたいと思っているので、招待があれば必ず出かけることにしている。でもこれがまたわが娘たちにとってはバリアが多いので、連れて行くことを躊躇してしまう。
 一つ目のバリアは、市民会館は昭和39年(東京オリンピックの開催年=1964年)に竣工した建物で、なおかつ著名な建築家「前川國男氏」の設計である。そのためにか未だに車椅子の方を始めとして、障がい者や高齢者には特にやさしくない建物を改善できないでいるのだ。
 私が弘前市民になって最初に市民会館に足を運んだのは、忘れもしない筋ジスの方の「車椅子の青春」という映画を見る機会がこの会場であった。主人公の青年が舞台に上がって公演する時、私もその電動車いすを持ち上げる一人になった。階段から舞台の上まで持ちあげるのだ。電動車いすにはモーターなどが装備されていて、それに本人の体重がプラスされるので、半端じゃない重さだった記憶が残っている。
 当時の課題は未だに、ほとんど残っていることになる。強いて変わったことを言えば、車椅子トイレだけはあるということくらいだ。歴史的建造物を大切に思うことは理解できるが、市民会館という名前がつく以上はこの高齢社会にあって、いつまでも排除する人々が大勢いることを放置するというのはいかがなものだろうか。
 
 招待を頂いて会場に入場してから、車椅子の娘を座らせるスペースはあるが
、付添の椅子すら準備されていない。結果昨日は空いていた上の客席4段目に娘を座らせるデモンストレーションを行った。「車椅子だぞー」というパフォーマンスを大勢の市民に見せつけてやることになったのだが、4段の階段を車椅子ごと後ろ向きで引き上げた。家内にも手伝ってもらわなければとてもではないが狭い座席には50キロを超える娘を座らせることはできない。その時会場にいた弘響の会場担当の方がそれを見て走りよって手伝ってくれた。会場の座席が跳ね上げ式だったらどんなに楽に座らせることができるだろうと思った。階段の幅が狭いために前輪キャスターは上げっぱなしにしないといけないので、結局3人のてをわずらわさないと車椅子の人の移乗は無理である。汗をかいてようやく二人の新対処会社を座席に座らせることができた。
 もう一つのバリアは発達障害者(知的障がい者・自閉症者)の喜びを始めとする声や動作による意識レベルの問題である。
 私の娘も他人の迷惑になるといえば、様々な言葉に変わる声を出す。それに加えて座席のスプリングを利用して座ったままでジャンプしたり前後に体を揺すって動きまわる。結果48年前の狭い座席がギシギシと音を立てることになる。娘は恥ずかしいなどということはわからなし、まして他人さまのことなど考える力はない。結果的に周辺からの「何だこいつらは、うるせーな・・・」という意識が付添者に刺さってくるのだ。
 こういう環境下にあって、「あー連れてきてよかった、楽しかったねえ」などとはとってんも思えないのだ。次女はでも音楽が始まれば耳を澄ませて聞こうとしているし、楽しさだって理解できるのだ。でも苦手なのが演奏が始まる前の挨拶や、演奏の音が離れすぎて聞こえないと、つい様々な音を楽しんでしまうことになる。
 先日の招待でもなんとか我慢して1時間で退場を、今回は20分で退場と記録更新してしまった。新記録だって決して喜んでばかりではいられない。前回は結局公園の中を歩いてベンチに座ったらたちまち娘は、静かになった。そして今回は会場の外でもスピーカーから開場の演奏の音は聞こえるようになっているので、そこで聞くことができた。娘はそれでもそこではそんなに声を張り上げることもなく、結構楽しんでいたのが救いだった。
 結局3時30分に開演したコンサートは5時30分まで続き、会場の観客が退場するのを待って長女と家内の咳に迎えに行った。長女を車椅子に乗せる際に、娘を二人で介助していると、最初に介助の手伝いをしてくれた弘響の会場係の方がそれを見つけて駆け寄ってきた。それも弘響の団長を突き飛ばす勢いだった。あとで家内に聞いたら、コンサートの途中でも、ワタシと次女が海上から消え、更に車椅子もないのできょろきょろ探していたようだったとのこと。気にかけて下さったこの会場担当者の心配りが、今回のコンサートでのなによりのおみやげとなった。名前は知らないが、そう、フランク永井(かなり古い)風の黒い蝶ネクタイと黒スーツの方だった。ありがとうございました!
 わが町旧岩木町にある文化ホール「あそべーる」と五所川原市の「オルテンシア」の会場には、赤ちゃん連れや障がい者が声を上げることは当たり前というコンセプトで、開場の上にガラス張りの防音室で、スピーカーからも音が聞こえるような配慮をしている。そういう場所でしか許されないエリアのものもいることをいることを、多くの方に知ってもらいたい。
 忘れもしない弘前文化センターでのこれも招待コンサート。一番前の咳を確保していただいて楽しんでいたら、観客の男性から『うるさいから出て行け。みんなの迷惑だ」と言われ、退場したことがあった。招待してくれた主催のサエラさんが、私達がいないのを気づき第二幕のはじめに、私達を舞台にあげてくれて説明してくれた。
 結局後日サエラのお二人がわが施設まで来て、その際のお詫びを言ってくれた。私がサエラさんにわびを言われて喜んだと言うよりもその時のエピソードとして、会場にいた観客で、車椅子のお年寄りの気持ちを聞いて喜んだのだった。アンケートにその方の気持ちが書かれていたというのである。
 それは「自分がコンサートに車椅子で行くしかない状態なので、めぐさい(はすかしい)ので行きたくなかった。でも会場に来たら車椅子の方がいてホッとしている自分がいた。おかげで私も音楽を堪能することができた」というのである。
 「様々なバリア」それは「お互いの思いやりや気遣い」で解消できるバリアだと、今回もまた思うこととなった。
 私達親子はこれからもそれでも、会場に足を運ぶだろう。そうすることで少しでもこの2つのバリアが改善されることになると信じているから・・・。
 

soul

2012-07-15 20:14:04 | 創作(etude)
形ではなく

そう気づくまでに
人は
何年かかるのだろうか
気付けない人

優しさよりも
厳しさの中に
あると
気づく
具体的な
愛だ

刀鍛冶のように
打たれないと
不純物は
離れない
それと同じ
夫婦の人生

避難

2012-07-15 10:28:57 | 創作(etude)
福島原発事故
放射能汚染禍で
東京近郊の人々が
子どもを連れて
南方の
沖縄へ
避難したという
話を聞く
東京の
先輩家族も
毎日
買い物に
あちこちの店に
出入りして
汚染されている
可能性の
最も少ない
食材を
探すのが
一苦労だと
こぼしていた
放射能は
目に見えない
だから
あらゆるものに
疑いの目を持つ
それが
習慣化されて
身構えている
日本だけではなく
周辺海域に
おびただしい量の
汚染水が
たれ流された
あるいは
原子炉の
爆発で
空中に
飛散した
おびただしい量の
放射能、放射線は
地球規模での
汚染ではないのか
私たちは
本当に
この地球環境で
身を守ることなど
可能なのだろうか
少なくとも
私達が
同じ過ちを
繰り返さないと
誓った
ヒロシマ
ナガサキの
原爆の
経験は
何処に
生かされて
来たのだろうか
東京や大阪に
なぜ
原発は
ないのだろうか
瓦礫を
東京や大阪を
はじめとする
人口の
多い場所に
処理しないのだろうか
そこにこそ
ものごとの
本質が
隠されている
東北の人々の
歴史には
古来より
中央政権の
都合のいい
収奪関係があり
苦難の暮らしが
堆積されている



心に残る言葉

2012-07-15 10:18:21 | 創作(etude)
わたしは
クリスチャンではない
でも
クリスチャンの
W氏が
30年前に
講演で
言われたことが
今でも
記憶に
残っている
忙しいという
言葉は
心が滅びるという
言葉です
慌ただしいという
言葉は
心が荒れるという
言葉です
そして
一人ひとりの
いのちは
使い切ること
それが
神からの
ミッションです

急逝

2012-07-15 09:38:21 | つれづれなるままに
7月8日(日)⇒7月10日(火)

 野田村旅行に行く前の日、東京の職場で一緒だった友人の奥さんが急逝したとの報が入った。家内の大学時代の同級生であり、これまで30年以上の家族づき合いもしてきた。二年ほど前から酸素ボンベを引きながら通院していたと聞いた。
 家内が旅行をキャンセルし、私は火葬には間に合わなかった。
 久しぶりにノクターンという夜行バスに乗った。片道9,900円。でも1時間前に出るパンダ号は5,000円だという。そちらのバスはほぼ満員だったが、何も知らない私の方のバスは6人しか乗っていなかった。
 いくら座席を倒しても、結局足が下になっていると翌日浮腫んで、結局靴が入らないことがあって、お客が少ないことをいいことに両足を前の座席の上に上げていた。それでも結局何度も夜中に目覚めては、何度も寝返りを打った。
 翌朝5時30分には目覚め、お日様も明るく快晴の東京。写真のスカイツリーが突然道路からニョキッと立っている姿があった。思わず写真をとった。
 東京駅で朝食をとり、友人の家を目指した。途中事故があったのか、電車が遅れていた。

 東京ではいつも定宿にさせてもらっている先輩のお嬢さんと先行の家内が駅に迎えに来てくれた。Kさんのお宅まで乗せてもらって、友人宅を弔問した。
 密葬を望んだ奥さんらしく、葬儀はなかった。友人はクリスチャンでもあり、子供たちも3人それぞれ福祉や医療関係の仕事についているという。友人も千葉県の施設で施設長を続けている。
 お線香をあげさせてもらって、少し奥さんの病状や亡くなるまでを聞いた。彼も家族もみなこんなに早く逝くとは思っていなかったらしい。急逝肺気腫という病に苦しんでいたらしい。
 友人と私はこれまで距離もあって、彼がその後どんな経過で今日にあるのかわからなかったが、思想上のことなのかかつての職場のメンバーとは断絶状態であったらしい。だからか、近郊に棲む仲間たちには知らせはなく、青森に知らせが届いた。これは家内と奥さんの関係での娘さんへの遺言だという。亡くなることを覚悟していたのか、なくなったら家内には連絡して欲しいと言い置いていたという。
 そういうことなど想像もしていなかった私は、昔のメンバーにどうなっているのかを聞いたが、誰も知らなかった。結果、メンバーのうち比較的関係に頓着しない連中が商工に弔問した。それが良かったのかどうかは分からないが、そういう複雑な人間関係は、誰にでもあることを改めて思った。

 先輩夫婦のお宅におじゃまして、久しぶりに再会を懐かしんだ。先輩のお嬢さんが出産していたことは、気づかずにいた。初めてお子さんを抱かせてもらったが、結構重たかった。

 あっという間に別れの朝が来て、家内と新幹線の人となった。ホームで新幹線の車体に、ご当地コマーシャルが描かれていたので、写真をとった。
 

 車中家内も連日徹夜で先輩や友人たちと話した疲れか爆睡していた。私は先輩からお借りした、かつて同じ職場にいたことのあるKさんという方の出版された書籍を読みふけった。施設職員をされた後で養護学校教諭に転職して、障害児教育に携わった30数年間を振り返った貴重な記録だった。
 都教委が関与して管理強化していくさまなど、日本の教育のあり方についても考えさせられるものがあった。私の職場でまだ手を付けていないジャンルの貴重な実践には、思わず敬服していた。
 先輩のお宅の二階からは、夜になると、すぐそばの沢を見るとちょうどホタルがたくさん舞う季節だったことも驚きと感動のひとときだった。
 青森に到着する前に書籍を完読した。子供たちを雑木林に例えていた本だったが、金子みすずの「みんなちがってみんないい」も同じことのように思った。



野田塩工房見学

2012-07-14 11:07:09 | 東日本大震災
7月7日(土)

 「野田塩工房」は、東日本大震災の際に、津波に襲われ壊滅した。
 現在地の「えぼし荘」のすぐそばには、5月に移転したらしい。

 昔の製塩の再現をしているが、この方法は海水を汲んできて、鉄釜で煮る方法である。


4日間もかかってできるという。だから全くの観光用で、結構高い値段がついている。
 市販されている国の塩とは違って、舐めると後から甘みが出てくる。


 久慈市から平日は、障がいのある方が二人ほど働きに来ていると聞いた。

 昔は塩は貴重品で、10日間もかかって、ウシに背負わせて塩の道を歩いて盛岡市や雫石まで行ったという。

 昨年塩の道を歩いたが、結構な坂道で往時の大変さが実感された。のんびりとした時代でもある。陸中野田駅前には、その当時の塩を運んだという牛の像が建っていた。

 翌朝一路また八戸に向かって、三陸鉄道に乗り込んだ。

たまたま・・・生きている

2012-07-13 14:12:22 | 創作(etude)
毎日
お願いをしている
わけでもないのに
心臓は
勝手に動き
おかげで
血液は
体内駆け巡り
きょうも
わたしは
いのち
永らえ
暑いだの
寒いだの
うまいだの
まずいだの
退屈だの
不自由だの
勝手なことを
ぶつくさ
言っている
60年間も
心臓も
臓器も
みなみな
わたしに
お中元も
お歳暮も
差しあげた
記憶もないのに
不平不満も言わず
60年間も
動き続けて
わたしはまた
目が覚めている
いつ
心臓が
止まろうと
契約したり
金を払ったりも
していないから
断りなく
止まろうと
休もうと
くだをまこうと
知ったこっちゃ
ないはずなのに
私はきょうも
生きている
いや
そんな
主体的なことではなく
生かされているに違いない
この
わ・た・し