7月7日(土)
「岩木ふれあいボランティア会」の7名で、三陸鉄道・北リアス線に乗って野田村へ出かけました。
これまではボランティアとしての訪問が主体でしたが、今回は観光客としての訪問です。米田地区の産直・安来(あんくる)店の代表・米田(まいた)やすさんを訪問しました。この日はあいにくの天候で、ヤマセで太平洋側は霧状態で景色がよく見えませんでした。
午後12時45分陸中野田へ到着し、今夜の宿舎「えぼし荘」のマイクロバスをチャーターして、産直の店「安来」へと向かいました。プレハブ造りのこのお店は床屋さんなど3店舗が入居していました。
早速米田さんにお目にかかりながら昼食を済ませました。
米田さんのお話で強く印象づけられたのが、米田さんのリーダーシップです。去年の東日本大震災で、誰に言われたわけでもないのに自分が何をしなければならないのかを強くわかっている人だなと思ったのです。
米田(米田地区)は国道45号線と、三陸鉄道北リアス線が海沿いを走る一つの沢のような水田地域です。それだけに津波が高く襲ってきたのかもしれません。津波は防潮堤と国道、三陸鉄道の線路も超えて米田地区を襲いました。野田村全体で37人の方がなくなった中で、この地域だけで8名の方がなくなったことや、3月30日に最後の行方不明者がこの地域から出たということも初めて知りました。
米田さんの現在の仮店舗からも海が眺めることができます。
米田さんのお話では、津波が国道を走る車を遅い流される光景も見たということでした。そして、震災津波の後、海側から米田地区に入る道路はがれきなどで遮断されて、食糧やガソリンなども途絶したそうです。野田村役場自体も津波で機能が低下し、自分達の生活は自分達で守るしかない1週間が待っていたのです。避難所にいる方々へ、米田さんはありったけの米や食糧を運んで、生活支援をしたそうです。
米田地区には一本の道路が山側でもつながっていたので、他のとも行き来ができたのです。でも、ガソリンが少なかったことや、停電で寒い3月には暖房が必要だったそうです。
あちこちからかき集めた、だるまストーブが結局大きな役割を担うことになりました。米田さんは人間として、アタリマエのことをしたという自負心だけで決してそれ以上自慢をするような方ではないことに気づきました。
地震や津波さえなければ、米田さんたちが国道沿いで「豆腐田楽』を販売することができるのに、今は国道から結構離れた仮設店舗で営業を細々と続ける以外に道はないのです。
米田さんたちと我々弘前市の有志がこれからどんな連携協力ができるのだろうかというテーマで、少しお話をしました。
米田さんたちの作る豆腐田楽は塩発祥の街「野田村」だからこそ、苦汁を使って生きるのかもしれません。
孫の「ゆめちゃん」たちの未来に、野田村を背負って生きていけるブランドとなれるように活性化できることを祈りながら、米田さんのお店を後にしました。
「岩木ふれあいボランティア会」の7名で、三陸鉄道・北リアス線に乗って野田村へ出かけました。
これまではボランティアとしての訪問が主体でしたが、今回は観光客としての訪問です。米田地区の産直・安来(あんくる)店の代表・米田(まいた)やすさんを訪問しました。この日はあいにくの天候で、ヤマセで太平洋側は霧状態で景色がよく見えませんでした。
午後12時45分陸中野田へ到着し、今夜の宿舎「えぼし荘」のマイクロバスをチャーターして、産直の店「安来」へと向かいました。プレハブ造りのこのお店は床屋さんなど3店舗が入居していました。
早速米田さんにお目にかかりながら昼食を済ませました。
米田さんのお話で強く印象づけられたのが、米田さんのリーダーシップです。去年の東日本大震災で、誰に言われたわけでもないのに自分が何をしなければならないのかを強くわかっている人だなと思ったのです。
米田(米田地区)は国道45号線と、三陸鉄道北リアス線が海沿いを走る一つの沢のような水田地域です。それだけに津波が高く襲ってきたのかもしれません。津波は防潮堤と国道、三陸鉄道の線路も超えて米田地区を襲いました。野田村全体で37人の方がなくなった中で、この地域だけで8名の方がなくなったことや、3月30日に最後の行方不明者がこの地域から出たということも初めて知りました。
米田さんの現在の仮店舗からも海が眺めることができます。
米田さんのお話では、津波が国道を走る車を遅い流される光景も見たということでした。そして、震災津波の後、海側から米田地区に入る道路はがれきなどで遮断されて、食糧やガソリンなども途絶したそうです。野田村役場自体も津波で機能が低下し、自分達の生活は自分達で守るしかない1週間が待っていたのです。避難所にいる方々へ、米田さんはありったけの米や食糧を運んで、生活支援をしたそうです。
米田地区には一本の道路が山側でもつながっていたので、他のとも行き来ができたのです。でも、ガソリンが少なかったことや、停電で寒い3月には暖房が必要だったそうです。
あちこちからかき集めた、だるまストーブが結局大きな役割を担うことになりました。米田さんは人間として、アタリマエのことをしたという自負心だけで決してそれ以上自慢をするような方ではないことに気づきました。
地震や津波さえなければ、米田さんたちが国道沿いで「豆腐田楽』を販売することができるのに、今は国道から結構離れた仮設店舗で営業を細々と続ける以外に道はないのです。
米田さんたちと我々弘前市の有志がこれからどんな連携協力ができるのだろうかというテーマで、少しお話をしました。
米田さんたちの作る豆腐田楽は塩発祥の街「野田村」だからこそ、苦汁を使って生きるのかもしれません。
孫の「ゆめちゃん」たちの未来に、野田村を背負って生きていけるブランドとなれるように活性化できることを祈りながら、米田さんのお店を後にしました。