夢発電所

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記憶の断片~幼少時の記憶

2010-01-28 06:37:39 | つれづれなるままに
 私が小学校に入学するころまでは、祖父母や父の兄弟姉妹なども養蚕をしていた時期がある。一階の勝手口を入り直ぐの部屋には。お蚕様の食事をさせる部屋だった。桑の葉を蚕がむしゃむしゃと食べるさまは、今でも忘れられない光景である。部屋中に蚕の桑の葉を食べる音が響いていた。
 そのほか一階には座敷、奥座敷(仏間含む)、父母の部屋、祖父母の部屋があり、トイレ、浴室、台所である。
 二階には階段を上がると、父の兄弟の部屋や、蚕の繭になる部屋があり、繭を糸にする作業部屋となっていて、結構な広さである。
 この家には当時祖父母、両親、両親の弟姉妹3人、母方祖母、そして私たち兄弟妹3人。そして農繁期には近郷から食をつなぐ若者が4,5人住み込んで働いていたから、15,6人が暮らしていたので、食卓も賑やかであった。水田の数も結構あったのだろう、田植えや稲刈り時にはこうしてそれがしまうまでこの大所帯が暮らすことになる。教員をしていた母の生活も当然その影響を受けて、朝も3時ごろから食事準備をしなければならない生活だったような気がする。したがって幼かった私と妹は、母に甘えたくてもかなわず事情を理解できるまではかなり聞き分けなく泣いていた記憶がある。そのためか母に甘えたり、抱きしめてもらったという記憶もない。私と兄は両親ではなく、祖父母と一緒に寝ていたので、祖父の昔語りが唯一の寝物語で楽しい記憶でもある。
 隣の家とは親戚ではなかったが、親戚以上のお付き合いをしていて私も寂しさを紛らすために、ほとんど毎日出入りし、時には隣の家に泊まることも結構あった。隣には祖母と夫婦、姉妹の5人で、夫婦には子はなかったので、いつも本当の子どものように可愛がってもらった記憶は両親以上にある気がする。隣のおばあさんは囲炉裏で笹竹を曲げ、手かごを編む名人であった。一本の刃物を根元に切り込んで、あとは自分の手で細く開いていく様やその細く裂いた竹を今度は編み上げていく様などは、まさに芸術的でもあった。
 我が家には牛や豚、鶏、ウサギ、ヤギなどの家畜がいて、父の一番下のKが世話をしていた。私もこのKから世話の仕方や、ヤギの乳絞りを教えてもらった。このほか、我が家にはあちこちに錦鯉を養殖していた時期もあり、真鯉などは冬にさばいて鯉の洗いや鯉こくなどでいただいた記憶もある。台所にはつば釜を炊く竈、そして水は山から弾いてきた水や井戸水が使用され、台所の隅には水をためる貯水槽のようなものがあって、こんにゃく玉などが浮いていた。そして私の遊び場の一つは、我が家が所有する水車小屋であった。当時は結構水量もあって、祖父がこの水車の動力を使って粉を挽いたりするのを珍しそうに見ていた。
屋敷の裏手には小高い山があり、その山は孟宗竹の林となっていて、この山の下をくりぬいた横穴はひんやりとした横穴で、主に穀類などの貯蔵庫として使用されていた。中は薄暗くて、木の扉を開けてはいるのだが、洞窟の天井には蝙蝠が住み着いていて驚かすと大騒ぎとなった。家の前を通る私道には石垣が高さ1メートルくらいに詰まれ、その上に松、紅葉の木、お茶の木、つつじの木などが植えられていた。
 庭には深さ3メートルほどの深さの井戸が掘られていた。
 忘れもしない小学校一年生のころ、妹と一緒に井戸端で遊んでいてその事故が起きた。妹がのどが渇いたというので、私が井戸から水を汲んでつるべを落とし上に引き上げる際に、私が井戸の中に落ちたのだった。私がいどに落ちたのを見た妹が驚いて泣きわめいてくれたおかげで、ちょうど近くの水田の草取りをしていた近所の叔父さんに助けてもらって命拾いをしたのである。庭先の木々の根が井戸の中にも幾本か出ていて、その根につかまって助かったわけである。二人が私の命の恩人ということになる。
 

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