夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

2009-02-14 16:57:32 | つれづれなるままに
 温かな小雨の朝
 ひとときの
 お日様のショー
 見事な半円
 虹が広がりました
 韓国の留学生が
 私は5歳の時に見て
 それ以来初めて
 そういって
 携帯電話に撮影して
 喜んでいた
 春は近いなって
 きょう感じました

POEM/立春

2009-02-14 09:01:44 | 創作(etude)
 
 風立ちぬと
 早朝のコーヒーを
 目を細めながら
 きみは
 ふとつぶやいた

 え? なんて云ったの?
 ぼくが尋ねると
 雪の庭に舞い上がる
 数枚の枯葉を
 黙って指さした

 「風立ちぬ」って
 もしかして堀辰雄?
 ぼくは学生時代に 
 立原道造が好きだったけど
 みんな夭逝だったよね

 39才で死ぬって
 今の時代じゃ
 癌じゃなきゃ
 ないよね?
 死に急ぎかな?

 でもわたしも
 年をただ積み重ねるくらいなら
 早く死んでも良いかな?
 時間じゃないよね、やっぱり
 目標があることなのよ

 そうきみは
 自分に語りかけるように
 つぶやいていた
 この激しく吹き抜ける
 春風はきみだろうか

 ぼくも一時期
 中原中也とか、宮沢賢治だとか
 その純粋な生き様を
 その凝集的な死に
 憧れた時期があった

 宮沢賢治のように
 自分の凝縮した
 いのちの作品を
 トランクひとつに詰め込んで
 死にたかった

 ぼくたちは
 今変わろうとしている季節を
 視覚的に確認しながら
 僕たち自身も変わっていくことを
 どこかで感じていた
 
 

 
 
 

別れが近づいてきた

2009-02-13 17:07:52 | つれづれなるままに
 韓国留学生朴さんの、帰国の日時が決まった。初めはソウルの宋先生が来日することで、私はハングル教室に通い始めたのだ。そこで朴さんと出会い、結局通訳をお願いして宋先生と旅行をしたりソーシャルワークセミナーの記念講演を開催したのだった。そして9月に宋先生をお見送りをした後も、朴さんとの交流は続いた。朴さんは同じ留学生で、8月まで滞在予定の留学生ミンジさんを同行した。そして、朴さんが帰国後もミンジさんが後を継いでくれることになっている。
 それにしても別れというものは、こんなにも切なく辛いものであるかと感じている。これで会えなくなるわけではないのだが、これまでにおつきあいをしてきた日々を振り返ると切なくなってくる。切ないという言葉は大切なものが消えることでもあるのだ。切というのはキリストの愛が輸入される前の日本の言葉ではなかったか。朴さんはそういう意味での僕の大切様なのだ。

ボランティア精神

2009-02-12 13:47:14 | つれづれなるままに
 ぼくはボランティア会に所属してもう20年になる。しかし、ボランティアという杓子定規な範疇に縛られているのは、本意といえない気がしてこのところ憂鬱な日々だ。組織的なボランティア活動で、確かに成果は上がる場合もある。しかし○○でなければならない式の活動は、私の性分には合わないことのほうが多い。他人が喜ぶから、ぼくはボランティア活動をしているわけではない。感謝してほしいと思って、動いているわけではないのだ。私の人間の良心に従って、動かないとどうにも精神的な具合が悪いのである。それをしたから、認めてほしいと言うのも違う。むしろ、風とともに去りぬ式の関係を好んでいるのである。あの人はお金持ちだとか貧乏だとかで、それを元に動きが変わるようだったらぼくは余りやりたくないのだ。活動後に人生が楽しいと感じることや、清々しさこそがぼくのボランティア魂みたいである。

母への手紙 その2

2009-02-10 11:53:56 | 創作(etude)
 母さん、お元気ですか?
 きょうも弘前は青空が広がって最高気温も6℃で、雪は降りそうにもありません。これからは三寒四温で、徐々にお彼岸頃までには春らしくなりそうです。
 今、弘前城公園では、雪灯籠祭りが開催されています。弘前に来たばかりの頃は、娘たちと一緒に見に行ったことがあります。夜になると日中と違って、灯籠の明かりと雪の絶妙な明かりのバランスが妙にこころ踊らせるものがあります。
 さて、冬の記憶といえば幼い頃は、しみ渡りという雪面が凍って、その上を歩いてどこまでも遊び場が広がっていたことを思い出します。ぼくは小学校の一年生くらいだったでしょうか、父さんにひどく叱られた記憶があります。あの時ぼくは父さんに買ってもらったばかりのランドセルを、お尻の下に敷いてソリ代わりにして遊んでしまいました。結局愉しく遊んだ後で、僕の心も凍りついていたのでしたが・・・。新しかったランドセルのカバーが、あっという間にひび割れ状態になってしまいました。ぼくはこのランドセルを隠していましたが、結局父さんの知るところとなって、きつく叱られたのです。あの頃の僕の頭にはいつも父さんのげんこつをもらって、こぶだらけだったような気がします。それも僕が想像以上のやんちゃ坊主だったからですが。
 母さんとの冬の思い出では、5才くらいの頃の悲しい記憶があります。それは母さんが妹を背負い、兄さんを連れておばあちゃんの家に出かけたときです。ぼくは一人残されたので、三人を追いかけて家を出ました。1時間かかってようやくたどり着くと、今度は家に帰る時間だったのかぼくだけおばあちゃんの所に泊まるように言われたのです。ぼくは仕方なく夜を待ちましたが、結局おばあちゃんのいびきがうるさくて眠れませんでした。忘れもしない寒い2月頃の、月夜の晩でした。僕は決心して夜道を、三人のいる実家を目指して家を抜け出しました。結局その時は母さんの弟のTおじさんが気づいて、僕はあっという間につかまって連れ戻されたのです。
 ぼくはそういうことをあれから何度も繰り返して、すっかり「天の邪鬼」と言われるようになっていました。何度おばあちゃんに夜中に、心配をかけたことでしょう。未だにその当時のことを思い出します。あの暗い夜道を怖さよりも、寂しさが勝っていたのですから・・・。
 大きくなってからも、おばあちゃんが僕に「おまえは可愛そうな子だ」と、何度も言われたことはそんなことがあったからでしょうね。おばあちゃんには悪いことをしたと、心の中でいつも手を合わせていますよ。
 きょうは幼い頃のことを書いてみました。たぶんもっと沢山母さんとの思い出は記憶にあるような気がしています。今度はもっと違うことを思い出してみたいと思います。母さんの記憶の中の僕はどんなこどもだったのか、今度教えてください。
 インフルエンザやノロウイルスが流行っています。手洗いやうがいを忘れないでください。それではまた、お元気で!
 

ウインターコンサート

2009-02-09 09:27:54 | つれづれなるままに
 2月8日(日)PM1:00から文化センターあそべーるで、岩木地区自主実行委員会主催の「ウインターコンサート」が開催された。私もその実行委員の一人でもあり、お昼のスパゲッティ・ナポリタンづくりを手伝ってから出かけた。パスタは7分間ゆでると書かれてあるが、実際は自分でパスタのゆで加減を確認しないとそのできが左右する。村上春樹も少雪の中で手料理をしょうかいしているが、私もパスタは大好きなので時々つくって食べる。パスタをゆでるときには、塩の代わりにたっぷりとしたお湯の中にお寿司屋さんがつけるだし汁を入れている。
 バージンオイルをフライパンに敷き、肉を入れ炒めて白ワインでアルコールを飛ばす。
 (あ、余計なことを書いてしまった。)自分の手作り料理を急いで食べ、会場に向かった。
 雪が午後から降り始めて、お客の入りが心配された。自主事業実行委員会の行事は、地域のボランティアが10名ほど手伝っている。私は受付担当だった。受付はプログラムやアンケート、鉛筆などをセットにまとめる仕事が待っていた。今回のコンサートは結局500名ほどの観衆が入り、最初のNHK全国学校音楽コンクールで銀賞の小沢小学校の生徒たちの合唱で始まった。さすがに全国で2位ともなれば、まとまりもありうまいものだと感心しきり。盛大な拍手を受けていた。きょうのメインステージの主役は、島口和子さんの率いるバッハアンサンブルのみなさんの合唱と演奏である。島口さんは家内と同じ中央高等学校出身で一級上の方だと聞いた。予定の時間を30分もオーバーして、盛会のうちに終了。演奏中に準備した抽選番号の当選者を決め、商品を飾った。
 自主事業実行委員会の今年度の事業はこれでおしまい。委員長も盛況のうちに終えて、一応納得のようであった。毎回こういうイベントを企画し、チケットを売りさばくのは並大抵のことではないと毎回痛感している。
 会場の後かたづけを終え、娘と私の誕生会のためのケーキをお菓子屋さんで受け取り帰宅した。31年前のきょう、娘は私と同じ誕生日に生まれてきたのだった。
 

春よ来い!

2009-02-06 16:25:37 | つれづれなるままに
 きょうは昨日よりも気温が下がって、雪も少量だが積もっていた。車が少しスリップするのかなと感じながら、職場に行くと我が施設の送迎車の事故報告が第一報であった。事務方はきょう休みで、保険屋さんと連絡を取ったり自動車修理工場とのやりとりなどが嵐のように押し寄せる。そうした中で、見学者が2団体重なって入っていた。お昼までその対応で追われ、午後は韓国の留学生を迎えやバスリフトの入荷と続いた。幸いなことに事故での負傷者はなかったが、損害状況は最悪である。たちまち利用者の送迎に影響が出始めている。
 夜は北海道からの来訪者の接待で、飲み会となっている。
 「春よ来い!早く来い」という心境がまさにきょうであった。

母への手紙

2009-02-04 13:09:54 | 創作(etude)
 母さん
 昨日は節分でした。施設では豆まきをして、みんなでわいわいとにぎやかでした。みんなの健康やあらゆる災厄がこれで退散してくれるといいのだけどね。
 弘前は2月に入ってからも、本当に雪が少なくて今年は生活そのものはすごく楽です。でも、ある程度降るときには降っておかないと夏の水不足も心配になります。
 2月8日はぼくとマミの誕生日です。ぼくも57歳、マミは31歳になります。偶然にも同じ誕生日に生まれて、ぼくの誕生日を忘れ得ないものにしてくれています。マミは昨年は岩木川でカヤックという二人乗りのボートに乗って楽しんだり、韓国の友人と国際交流の役を果たしていました。娘たちが元気で愉しく過ごしていてくれることが何より幸せなことなんだと、今更ながら親として思うことです。
 母さん
あれから病院生活も3ヶ月目に入ったわけだけれど、その後具合はどうですか?病院はあったかいでしょうが、生活の変化がなくてさぞや退屈でしょうね。
 リハビリは今どんなことをしていますか?痛いところはありませんか?職員の方は優しくしてくれていますか?リハビリといえば、左肩の亜脱臼防止用の補助具をリハビリの先生から母さんにっていただきました。今度行くときに持って行きます。きっと痛みも軽減してくれるかと思います。
 あ、そうそうそう云えばこの間、父さんが夢に出てきました。きっと母さんのことを頼むぞと言いたかったんだと思います。
 兄さんは面会に行っていますか?
 2月の末にはカミサンと一緒に帰ろうと思って、チケットを買いました。今回は夜行バスで東京に行き、新幹線に乗継です。28日の午後には着くと思います。今度は2泊しかできないけれども、前に会ったときよりも母さんの具合がよくなっているといいなと思っています。妹もそれに合わせてそちらに行くと云っていました。
できるだけ、動いてください。自分のことで、できることはやることが今の母さんの一番のリハビリかもしれません。退院後の母さんの生活をみんなで相談したいと思います。
 それから去年の京都での甥のサー君の結婚式に続いて、今年は5月に東京で美緒ちゃんの結婚式が予定されています。それまでに何とか、車椅子を動かせるようにして置いてください。一緒に出席して、美緒ちゃんの門出をお祝いしましょう。
 ぼくも母さんのために退院までにできるだけのことは、準備してみたいと思います。あと1ヶ月もすれば少しは温かくなるでしょう。暑さ寒さも彼岸までといいますからね。
 それではそれまでお元気で

 

重いひとりの「いのち」として

2009-02-03 14:24:05 | つれづれなるままに
 重いしょうがいを負ってこの世に生まれ
 そしてだれかの支援なしには
 決していのち永らえることのできない
 ひとりのいのち
 そのいのちに
 大きな影響を与える
 保護者
 保護者がどう生きようとするかは
 そのいのちの生き方をも左右するのだ

 わたしも
 そのいのちが
 あまりにも
 当たり前から離れていて
 どう向き合えばよいのかをわからずに
 苦悩の日々が続いたのだ
 そのいのちを
 どう支えたらよいのか
 わからないままに
 いたずらに日々が過ぎ
 そうしたある日
 専門医を尋ねた

 なぜこういうしょうがいの子が
 わたしに授かったのか
 その原因が知りたいと言うと
 医師はきっぱりした口調でこう言うのだった
 「なぜ生まれたかを考えるよりも
 どう育てるのかを考えなさい」
 私はしょうがいを
 しょうがいのいのちを
 受け入れられずにいたのだった

 やがて
 わたしは
 同じ立場の先輩の親たちから
 笑顔のすばらしさを
 もらうことができた
 くよくよしないで
 愉しく生きよう!
 そういわれているようだった
 病気の治療と
 療育の日々が続く

 私は
 なぜ笑顔の美しい
 際限もない明るさを備えた
 女性をそばに置こうとしたのか
 はじめてそのとき思った
 そうだったのか
 このことのために
 準備された
 私たちの出会いだったのかと
 私は強く感じたのだ
 
 てらいもなく
 背伸びする必要のない
 気楽で
 庶民的な
 日々が
 そこに続いた
 焼き魚定食と
 おいしくて温かな
 団欒がそこにあった

 この子に
 私たちがしてあげられることは
 なんだろうか
 私にしてあげられるのは
 それは
 一つでも多くの
 楽しみに触れさせて
 あげることだった
 毎日子が喜んで
 笑ってくれる
 絵本を探した

 毎日朝目覚めから
 まぶたが重くなるまで
 子が好きになってくれるような
 素敵な音楽を聞かせた
 自分でいつか
 その楽しみを
 自分の手で
 爪弾けるように
 キーボードを
 ギターを
 絵本を
 心行くまで触れさせていた

 こうして
 私たち家族は
 成長してきた
 重い制約の娘は
 社会の
 心ある人々に
 いのちの
 重さと大切さを
 存在として
 メッセージにした
 共感の思いが
 やがて
 社会の
 連帯を
 生み出した

 ぼくたち家族が
 そのとき
 はじめて
 社会の中で
 存在意義を
 感じた時だった
 わたしたち
 そして
 かけがいのない
 いのちが
 そこに
 花開く瞬間だった

 私たちには
 お金はなかったが
 理想があった
 夢があった
 希望があった
 せっせと7年間
 種をまき
 水を与え
 そして
 花が咲いたのだった
 
 願えば叶う
 そう言った人がいた
 願いは
 必ずや
 叶う日が来ると
 今はじめて
 実感する
 神は
 内なる神は
 今まさに
 私たちに祝福を
 与えてくれたのだ
 そして
 次に来る人のために
 希望の種を
 蒔かれたのかも知れない

 かつて
 一人を感じた私だが
 決して一人ではないと
 今はじめて
 実感している
 あるときには
 道案内の人が
 あるときには
 重さを分け負う人が
 あるときには
 風雪をさえぎる人が
 不思議と
 そこそこに現れたのだ
 「あなたは一人ではない」
 何も言わない
 制約の娘が
 わたしの
 内なる神として
 わたしに
 ほほえみを与えるのだった