音楽は語るなかれ

音楽に関する戯れ言です。

オフ・ザ・ウォール (マイケル・ジャクソン 1979年)

2009-06-30 | ソウル・アフロアメリカン・ヒップホップ等


あのビートルズの名曲「レット・イット・ビー」をシングルチャート1位から引き摺り下ろしたのが、ジャクソン・ファイヴのデビュー2枚目のシングル「ABC」であったことが、私とマイケルとの出会いである。その後、「アルビーゼア」もヒットし、気がつけば、デビュー曲から4曲連続の1位を獲得し、この快挙はすでにスーパースターであった。しかし、マイケルは、この後暫く私の情報源になる場所から忽然を姿を消してしまった。ネット社会の現代と違い、当時はアメリカの音楽シーンですら簡単には分からなかった。テレビでも、たまに当時としてはぶっ飛んだディレクターが1年の1回くらい深夜枠でアメリカの音楽シーンの番組なんかを企画するのだが、ビデオリサーチの週報で※印という調査不可能という刻印を2週連続続けられ、いつのまにか番組が終わってしまう。そんな時代であった。その後、ラジオにシフトしていくと、AMもFMも、結構新しい情報をもっていて、とりわけ湯川れいこの「全米トップ40」は最高の番組だった。そして、1979年7月、このDon't Stop 'Til You Get Enoughはそれまでのマイケルとジャクソンファミリーの知らなかった事実とともに、一挙に音楽ファンの間に広まった。そう、いつのまにかジャクソンファイヴはモータウンから去っていて、エピックに所属していたこと、モータウン社長令嬢と婚姻したジャーメインが契約の関係でグループを離脱し、変わりにマイケルの弟ランディが入り、ジャクソンズと改名していたこと、そして、最新アルバムはクインシー・ジョーンズが手がけていること。兎に角ひとつひとつの情報が新鮮であると同時に、当時のダンス・ソウルミュージック隆盛時代に、一段も二段も格上のミュージシャン、ホンモノが、真打ちが出てきやがったなという強烈な印象だった。当時、まだガキだったのに、六本木の某所で皿まわしのアルバイトをやっていたので、この曲はやたらとかけまくったが、不思議と全く苦情もなく、また、休憩している輩もすぐホールに舞い戻ってきた。そして皆口々に質問してきた「おにいさん、この活かしている曲は誰の曲だい」って。

暫くして、日本でも発売された。当アルバム「オフ・ザ・ウォール」は、恐らく、私が最も多くターンテーブルにのせたソウル音楽のレコードだろう。スティービー・ワンダーの「トーキング・ブック」や「キーオブライフ」、ダイアナ・ロスの「アップサイドダウン」よりも何度も聴いたであろう。マイケルはこの次のアルバム「スリラー」が全世界で1億400万枚売れたといわれており、これは天文学的数字であるから、こちらの方に興味が行ってしまうが、当時でも全世界で1900万枚を売りまくったこのアルバムも大変なことであって、ソウルミュージックの大きな節目となった。また同時にマイケルという人は、黒人音楽という引け目が全くないほど堂々としていた(というよりサバサバしていた)から、逆にソウルという音楽の中でダンスミュージックの立場を上げた人でもあり、さらには黒人音楽自体をそれまでよりもずっとポピュラーなものにしたといえる。これは、スティービーやダイアナロス、マービンゲイにも出来なかったことである。だから、逆に言えば、彼が「ソング・フォー・アフリカ」でも主要メンバーとして全体を引っ張る役割だった際にも多くのミュージシャンが彼に賛同しているのである。

マイケル・ジャクソンの追悼の意味でのレビューになってしまったが、このアルバムは黒人音楽歴史に残る1枚である。


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