音楽は語るなかれ

音楽に関する戯れ言です。

ホイットニー・ヒューストン (ホイットニー・ヒューストン/1985年)

2012-02-18 | ソウル・アフロアメリカン・ヒップホップ等


1980年代の中盤以降、私は殆どといってポピュラー音楽を聴かなくなった。理由は色々ある。一番大きい理由はロックの勢いが無くなったことだろうか。勢いというのは、60年代から連なってきたあのロックンロールの明解さ、単純さ、そして闊達さがロックになくなってきた。勿論そういうバンドもあったにはあったが、ニューウェーブでロックは様々な音楽とも融合を試み、その殆どが成就した。しかしその成就のされかたの殆どがロックという音楽の定義では完結できなかった。そこが解せなかった、だから去った。私はその融合を成就させなかった音楽の方にと興味を持ち、あとジャズだけは聴き続けた。とは言っても、日本の鎖国時代に長崎の出島だけは一部外国人の出入りが許されていたように、全く絶ち切った訳ではなく、ヒットチャートだけは一応抑えていた。

ホイットニー・ヒューストンがそんな出島への出入りを許されたのは「当たり前」の話である。私はこのアルバムは何故か随分早くに買っていた。実はこの頃、ソウルも可也行き場が難しくなっていた。私が82年、二度目のN.Yに行った時に、もう既にラップ音楽はあった。で、ヒップホップの四大要素のひとつとして、かなり先んじて脚光を浴びてきた。そして一旦下火になっていたブレイクダンスが復活していた。黒人音楽の流行りはヒットチャートからは生まれない。いつの時代にも彼らの生活から生まれてくる。まだ、はっきりとその完成形を確認できなかったが、ヒップホップはかなりブロンコスの黒人の間には浸透していた。しかし、商業音楽は彼らを中々認知しようとしなかった。これは60年代のモータウンの台頭以前に状況がそっくりであった。そして商業音楽は「USAフォーAfrica」で、マイケル、スティーヴィー、ライオネル、ダイアナ、クインシーを中心に置いて、黒人主体の発信を試みた。アメリカン・アフロがアメリカを制したのは、実はこの一瞬だけだった。なぜなら、このイヴェントの最初はボブ・ゲルドフだったし、アメリカ版はたしかに売れたが所詮二番煎じ。ボブ・ディランが出ていたのが唯一の救いだった。何故、ここにイギリス人、例えばポールとミックという二人の偉人を、或いはエルトンを、スティングを、ロッドを、ボウイーを出さなかったのか? また、もっとアメリカの白人でも、マイケル・マクドナルドを、ドン・ヘンリーを、ロビー・ロバートソン、ジャクソン・ブラウン、リンダ・ロンシュタットという成功者を出さなかったのか・・・? この間違いは大きく、これがアメリカン・アフロを終わらせるところであった。そこに出てきたのがこのホイットニーだった。ホイットニーはまさに救世主だった。アメリカン・アフロの、ソウル・ミュージックの、そしてポップ・ミュージックを救ったのが彼女であった。そういう意味でもこの作品は歴史的な名盤である。バラッドの声はまだ若さが先行しているのは致し方ないが、アップテンポは実に見事。この当時、N.Yのクラブでも、可也白人の音楽が席巻していた。マイケルジャクソンと、せいぜいティナ・ターナーが頑張っていたという感じであろうか。更にいえば、この作品は然程「ソウル色」というのか、アメリカン・アフロの色が濃くなく、とてもエンタティメントを意識した作品になっている。これは彼女のファン層が黒人だけでなく白人や様々な層に向けられている現れでもあった。だから、あらゆる層に支持されたのである。

彼女の訃報を聴いた日、自宅で追悼として何度も聴いていた際に、"Greatest Love Of All"を聴くと、あのエディーマーフィーの「星の王子ニューヨークへ行く」の、ランディ・ワトソンを思い出して不謹慎にも笑ってしまったが、そんな皆に愛された存在だったのであろう。80年代において、正直「スリラー」よりも印象に残っているアルバムである。


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