音楽は語るなかれ

音楽に関する戯れ言です。

レイジング・ヘル (ランDMC/1986年)

2012-08-15 | ソウル・アフロアメリカン・ヒップホップ等


ここのところ以前は苦手だったジャンルを努めて聴いているようにしているが、やはり筆者は典型的な聴かず嫌いであることが判明している。中でもヒップホップはその代表で、実は最近このジャンルのソフトも買い漁っているし一日に聴く頻度もかなり高い。残念なのは語学力でスラングがイマイチ分からないのがあってリリックの面白さをすぐに察知できないことがある。そんな状況なのに、考えてみたらこの作品のレビューを書いていないことに気がついた。このランDMCのアルバムこそ、ヒップホップ音楽の登竜門であるのに・・・

そもそも、ヒップホップの元素はNYにいたときに体験済み。70年代末、黒人の友人仲間は皆既にこの音楽に傾倒していた。皆が一番精通していたのはスクラッチだった気がするが、練習で随分針をダメにしたり、彼らはそもそもリッチではないから、結構レッスンは苦労していたけどDJはやはり花形。ブレイクダンスは結構女性陣が多かったがこれは後に映画「フラッシュダンス」でブレイクする。グラフィティはみんなやっていた。筆者も仲間にいれて貰ったが、流石に教会の壁の落書き?制作には心が痛んだが、よく考えたら彼れは皆教徒だったからこれは信仰も手伝っていたらしい。そしてラップなんだが、勿論これは絶対皆試みる。しかし韻の踏み方が難しい。ジャパンは「韻カルチャー」なんだから教えてくれなんてよく言われたが、スラングは当時から理解不能。英語以外に違う言語を二つくらい話している感覚だった。今考えると恐ろしくってよく彼らと寝食を共にした時期があったと思うが、筆者が居たのはトライベッカだったから文化だけでなく当時は第2のソーホーとして倉庫街からカルチャー発信地に変わっていた時期で、皆、仕事も持っていたし、クイーンズ辺りよりはインテリな黒人が多かった。

回顧はこのくらいにして本題に戻ると、前述が所謂「オールドスクール・ヒップホップ」であるとしたら、このランDMCの功績はヒップホップを次のステージへとステップアップさせてことにある。オールド時代のそもそもの成り立ちはソウルやダンス音楽の合間に相の手をいれる感覚だったし、黒人の先天的なリズム感はそういう点においては卓越していたから、ある意味日常としてそれが彼らの生きるエネルギーでもあった。この時代、漸くアフロアメリカンは生活の場においてもその存在が高まりつつあったものの、まだこの時代に音楽は彼らの隠れ簑であったのも事実。政治や社会でのし上がって来られるのはほんの一部であるが、特に差別の残る東海岸側においては、音楽という人間の五感に訴える部分、つまり、人として嘘をつけない部分への訴求は、彼らにとっても数少ない安楽の場所であったに違いない。しかし、そのレベルアップを図ることで、黒人のものだけでなく誰もが共感できる音楽を理想としたのがヒップホップの社会的向上であり、だから彼らはこの作品においてそれをやってのけた。無論、エアロスミスとの共演は歴史的な衝撃(筆者にとっては感動だった)であるがそれだけでなくこの作品ではそれ以外にもオールドを集大成しつつ、新領域であるゴールデンエイジ・ヒップホップの提言を行った。いうまでもなく、この作品があったからこそ、後のウィル・スミス(DJ・ジャジー・ジェフ&ザ・フレッシュ・プリンス)や、白人バンドのビースティ・ボーイズ、そしてローリン・ヒルなどにも多大な影響を与えた。無論、リスナー側、特に白人音楽ファンに認知された点は大変大きい。

1999年にエミネムが登場。ヒップホップは全世界的な音楽になるが、この間、東西の対決があったり数々の事件があったり、確かに負の部分も多かったが、エミネム以降、ヒップホップは若い世代が自己主張するインテリ音楽のひとつとされるまでその地位を向上させた。黎明期、このユニットの功績は大きいが、惜しむらくは2003年にメンバーのジャム・マスター・ジェイが射殺されたことにある。なぜ、彼の名前はこのユニット名に列記されなかったのかという当初からの疑問が、妙な形で証明されたことは本当に残念である。


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