音楽は語るなかれ

音楽に関する戯れ言です。

ピアノ協奏曲第3番ハ長調 (セルゲイ・プロコフィエフ)

2009-11-27 | クラシック (協奏曲)


少し前にラフマニノフの映画が公開されて鑑賞した時に「ラフマニノフって随分我儘な奴だったんだなぁ」という感想しか残らなかったが、よくよく考えてみると、このプロコフィエフという人も同じセルゲイって名前だからかどうかは知らないが、そういう意味では随分色々な明言(?)を残している。特に、「ドビュッシーはいんちきだ」発言は確か来日した際のインタビューだったと思う。そう、このくらい近年の音楽家だと、日本に来ていたりするから凄いと思う。勿論、私の祖父母の話だが、1900年代の序盤からこの国にもクラシック音楽がかなり浸透していたのだから、日本人の西洋文化の吸収速度というのはとてつもない速さだったのだと思う。

プロコフィエフは音楽家であり、また、ピアノの演奏家でもあった。一般的にもそうであるが、彼のコンチェルトの中で音楽的にも、また人気も群を抜いているのがこの「ピアノ協奏曲第3番」である。私も最初に聴いたときは、所謂クラシックではなく、現代音楽的感覚で聴いていたから、何か、ピアノの早弾きばかりが印象にのこってしまったが、アルゲリッチの演奏版を聴いて、この音楽家の曲の奥の深さを感じるようになった。それは彼女の演奏姿勢にもよるものかもしれないが、要所要所に入ってくるフレーズがとても情熱的であることであったり、また、不協和音の使い方が実に自然である。私はまず第1楽章の序奏がやたらと好きである。クラリネットの独奏からに重奏になる予感と、オケ全体の問いかけに発展し、ヴァイオリンがそれを見事に繋いで、ピアノが応じて入ってくるこの僅か45秒間は、同時にこの楽曲が名曲であるという予感を見事に凝縮している。一方、この第1主題を再びひっくり返すようなピアノの独奏による第2主題。この同じピアノによる和音と打鍵の掛け合いがピアノ協奏曲の新しい名曲を象徴していると思う。また展開部と再現部の融合と第1主題のさりげない再現、さらには型通りの第2主題の再現と、色々な捻りが効果的であり、最後は華麗なアレグロで終わる。この時点で拍手をしてしまいそうである。第2楽章も実に興味深く、5つの変奏がつく。しかもここはアンデンティーノの指定である。そしてプロコフィエフ本人が、「独奏者とオーケストラの討論」と呼んでいる第3楽章も呈示された主題に対してピアノがいきなり対立的な主題で割り込んでくるという面白い構成に、またまた拍車をかけるような管弦楽器とのやりとりでスピードアップしていくところは実に臨場感に溢れている。まさに「朝まで生テレビ」(古い? 今もまだ放送しているのか知らない)の様子を思い出させる。ラフマニノフ的な同じ旋律の繰り返しもあるが、でもラフマニノフほどしつこくない。そして中盤から後半では、ピアノと弦楽器のユニゾンによりクライマックスに到達するところが圧巻である。しかもこれで終わるのではなく、最後にはピアノとオケでもう一波乱あるというのがオマケのようで嬉しい。

私にとってはプロコフィエフを理解するきっかけとなった曲である。私もピアノ出身だからかもしれないが、このピアノとオケとの葛藤は良く分かる。勿論、ピアノコンチェルトはみなそういう部分があるが、この曲の現代的な音は、20世紀に生まれたものとしては、モーツァルトは勿論、シューマンやブラームス、グリーグよりも分かり易いのかもしれない。そして、マルタ・アルゲリッチの演奏もまた然りなのである。


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