すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

「母は遠しも」(続き)

2019-10-24 19:09:36 | 
 それでは、ぼくの大好きな夢二の詩ふたつ。

   かへらぬひと
 
 花をたづねてゆきしまま
 かへらぬひとのこひしさに
 岡にのぼりて名をよべど
 幾山河は白雲(しらくも)の
 かなしや山彦(こだま)かへりきぬ。

 先日挙げた「どんたく」の中の「日本のむすめ」という章に「宵待草」などと並んで入っている(「みしらぬ島」もここに入っている)。この詩については、十年ほど前に書いている。それをおおむね転記したい。

…「宵待草」を作曲した多忠亮(おおのただすけ)と、もう一人、山本芳樹という人が「花をたずねて」の題名で曲をつけている。多の曲は憂いに満ちた、転調を伴う優美なワルツだが、ぼくは悲しみを直截に歌い上げた山本曲のほうが好きで、時々歌っている。
 死んでしまった恋人を思う詩だ。
 「幾山河は 白雲の」は、恋人の名を呼んでも、山や川は白雲が立ち込めて、というのと、知らぬ気に・知らん顔で、というのの掛詞(かけことば)だ。
 「花を尋ねて 行き(逝き)しまま 帰らぬ人の 恋しさに」、死んでしまった、というのを、桜の花を尋ねて奥山に分け入ってしまった、と表現している(感じている)。
 万葉集の頃から、日本人は、愛する人が死んでしまった時、彼女(彼)は山に入っていってそこで暮らしている、と感じる感じ方があったようだ。
 十市皇女(とおちのひめみこ)が亡くなった時に高市皇子(たけちのみこ)が詠んだ、 

  山吹の立ちよそひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく

というのも、柿本人麿が、妻に死なれたときに詠んだ、

  秋山の黄葉(もみじ)を茂み迷(まど)わせる妹を求めむ山道(やまじ)知らずも

というのも、同じ発想から書かれている(よそふ、は、風情を添える、飾る)。二つとも心に沁みる。
 つまりこの詩では夢二は白秋や牧水を越えて、古代からの日本人の感性に寄りそって書いているのだ。
 この歌に詠まれたといわれている女性は、笠井彦乃。十二歳下の画学生。先日紹介した短歌「青麦の~」も、彼女を歌っている。
 ここで、ちょっとすごいな、と思うことがある。
 夢二の詩は、大正六年に作曲されている。たぶん、その少し前に書かれたのだと思う。
 大正六年、夢二は最愛の女性、彦乃と京都で同棲し、北陸を旅行して回っている。翌年九月、彦乃は発病し、父親に連れ戻され、入院する。二人はその後会うことなく、彦乃は九年の一月に亡くなる。
 夢二の詩は、彼女の亡くなる前、どころか、発病する前に書かれている。
 優れた芸術が時に人間の運命を先取り・予見してしまう、一つの例だ。

   母

 ふるさとの山のあけくれ
 みどりの門(かど)に立ちぬれて
 いつまでもわれ待ちたまう
 母はかなしも

 幾山河遠く離(さか)りぬ
 ふるさとのみどりの門に
 いまもなおわれ待つらんか
 母はとおしも

 これはもう、説明は要らない。味わうだけで胸がいっぱいになる。小松耕輔(「芭蕉」「泊り船」「沙羅の木」など)が作曲して、日本歌曲中の名曲として今も歌われている。(表記は歌曲の方の表記。原典は旧仮名遣いと思われるが原典にはあたっていない。)(旧仮名って、良いですね。)
 夢二は明治十七年、岡山県生まれ。母は昭和三年、夢二が四十四歳の時に死去。夢二自身は昭和九年に五十歳になる直前に亡くなった。「竹久夢二歌曲集」がけっきょく見つからないので、この詩が何時つくられたのかは、わからない。

 ところで、ついでに少し。
 「宵待草」は、女性の心を歌ったものと一般に思われているが、もちろん女性の歌い手が女心を歌ってぜんぜん異論はないのだが、もともと夢二が書いたものだし、相手の女性もわかっているし(笠井彦乃とは出会う前)、約束した女がやってこないのを待ちわびている男心の歌として歌って良いのではなかろうか。
 女々しい? 「さくら貝の歌」も本来は男の歌だし、日本の男は女々しい一面を持っていて、それが魅力でもあるものですよ。
コメント
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