すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

牧野富太郎

2021-08-10 11:06:20 | 自然・季節

 練馬区大泉学園にある牧野記念庭園に行った(5日)。昭和の始めから30年ほど牧野が亡くなるまで住んだ住居跡で、60m×40mほどの小さい施設だ。駅から暑い道を5分ほど行ったところにある。
 住居の門をそのまま再現したのだろうか、落ち着いた感じの良い門を入ると、右に管理室と休憩室(研修室)の棟。左奥に胸像。武蔵野の林を残した庭はいくつかの小道で区切られ、林床にはキツネノカミソリとヤブランがたくさん咲いてゐる。小さな庭だが、当時は庭の外の周り中が武蔵野の自然の中だったのだろう。
 庭の奥に真新しい展示室。その右奥にコンクリートの建屋の中に保護された、書斎と書庫の建物。書斎は3畳。障子一枚隔てた書庫は8畳(書庫は3つあったうちのひとつ)。古い和室で、当時は棚も畳も資料や標本が足の踏み場もないほど積み重ねられていたのだろう(彼はその標本の山の中のどこに何があるかすべて記憶していたそうだ)。書斎の坐り机は小さく、ひどく低い。ここで何時間も、あるいは幾晩も、背を屈めて研究していたのだろう。
 展示棟は彼の生涯をコンパクトにまとめた常設展示室とその奥の企画展示室。そちらでは船崎光治郎という画家の南樺太の植物画展をやっていた。
 常設室で、若い男性が学芸員の女性に質問していた。「彼は研究のためとはいえ、親の財産を食いつぶし、妻や子にひどい貧困生活をさせ、なぜ勘当も離縁もされず、勝手放題をできたのですか?」というようなことを。学芸員は「彼の研究が素晴らしいものだということを家族は理解していたからでしょうか」というようなことを、躊躇いながら答えていた。
 その質問の仕方に腹が立って、呼び止めて話をしようかと思い声をかけたのだが、ぼくの声が尖っていたためだろうか、彼は振り向きもせずに出て行ってしまった。ぼくの言いたかったのは、以下のようなことだと思う。
 牧野がものすごく真摯で研究一筋であれば、そして誰もがその人柄を愛さずにはいないような人物であれば、彼の生きていた時代ならば、酷い苦労の中で時には反発もあったにしても、家族は彼を理解することができ、支えることができた、ということはあり得たのではないだろうか? 家族の人たちは、そういう選択をしたのだ。今の時代ではどうか分からないが。

 記念庭園を出て、歩き足りないので、隣の駅で降りて石神井公園の池をのんびり回って帰って来た。暑い日ながら、池の畔の散策のあいだ、彼の小さな庭園の与えてくれたさわやかな思いにぼくは包まれていた。

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