すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

「ボブ・ディランの7つの詩」

2018-05-23 22:41:45 | 音楽の楽しみ
 昨夜、東京都交響楽団の演奏会を聴きにサントリーホールに行ってきた。演目は第一部がメンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」で、第二部がジョン・コリリアーノという名の現代作曲家の歌曲集「ミスター・タンブリンマン-ボブ・ディランの7つの詩」。
 都響の演奏会には割とよく行く。料金がリーズナブルだし、シニア割引もあるので行きやすい。演奏は、ぼくは素人だが、時により少しばらつきがあるかもしれない。1月に聴いたオリヴィエ・メシアンの「トゥーランガリラ交響曲」は、あの大曲が日本で聴けるということで大いに期待していったのだが、大曲過ぎたせいか途中からやや混沌に陥ってしまったように思う。音が濁っていた。家に帰ってから小澤征爾指揮のトロント交響楽団のCDを聴きなおしてみたら、その方がはるかにクリアな音だった。
 今回は、ディランの詩に新たに曲をつける、というので、若い頃からディラン大好きなぼくは、どうなることか、期待と興味が半々で行ったのだが、感動のステージだった。ディランが曲を作ったときに無意識に表現しようとしていたものを現代クラシック音楽という全く別の形で明晰に表現し、かつ増幅していると思う。
 第一曲「ミスター・タンブリンマン」は、異世界へ導くための導入の役割を果たしている。いや、異世界ではない。ぼくたちは、この世界がある時点から突然、今まで慣れ親しんでいたものとは別の貌を見せるように感じる、という体験をすることがある。自分がいる世界がスッと見知らない世界に変わってしまう。この曲は、その変化の時間を表現している。
 「夕べの帝国は砂に戻り/この手から消え」というのはその変化で、タンブリンマンはその道案内だ。現代音楽の不思議な響きとヒラ・プリットマン(ソプラノ)のクリスタルな声が、その変化してしまった世界に響く。
 第二曲「物干し」では、日常の世界に突然不可解な事態が発生し(「副大統領が昨夜ダウンタウンで発狂」)、家族や隣人との会話が意味をなさなくなる。
 第三曲、有名な「風に吹かれて」は、変わってしまった世界、じつはこの世界、の問題に直面して、苦しみと問いかけの叫び声があげられる。
 第四曲「戦争の親玉」では、その苦しい世界を牛耳っている人々への、非難と反抗とが爆発する。
 にもかかわらず、第五曲「見張り塔からずっと」では、世界はすでに壊れて荒れ果てているようだ。
 にもかかわらず、第六曲「自由の鐘」では、悲惨な状態に置かれ、挫折し、傷を負い、苦しみながらも希望を捨てない者たちの上に、鐘が鳴る。鐘は鳴り続ける。ここがクライマックス。
 終曲「いつまでも若く」は、アイルランド民謡のような素朴なメロディーで、ほとんどアカペラで静かにゆっくりと歌われる。祈りの歌だ。思わず涙が出てしまった。
 プリットマンは折れそうに細い長身で、指揮者の周りを歩きながら全身を使って歌い、怒り、叫び、身もだえし、拒絶し、何かをつかもうと手をのばす。圧巻だった。声は舞台前方の天井からつるされたマイクで拾ってスピーカーで増幅しているのだが、そのためにいわゆるオペラ的発声ではなく、自然な声で囁いたりつぶやいたり問いかけたり、から、怒りの爆発や絶望までを表現できる。「なるほど、マイクというものはこうした表現のためにあるのだな」、と認識した。
 都響の演奏も、昨夜はとてもよかった。ぼくの後ろの席の人が、連れの人に「感動のコンサートだね」と言っていたが、ぼくもそう思った。
 現代音楽って、良いね。
コメント
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