すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

ふるさとの山

2018-05-31 10:47:50 | 音楽の楽しみー歌
 ぼくは甲府盆地の東北部、いまの甲州市塩山というところで生まれ、5年生の終わりまで過ごした。ブドウや桃の産地で、当時のあのあたりとしてはかなり広いブドウ畑を持っていて、父はワインを造っていた。
 棚掛けの葡萄畑は、棚をブドウの重みに耐えてぴんと張るように、畑をぐるりと囲んで斜めの支柱を立てる。現在はどこもコンクリートの柱になっているようだが、当時は丸太を使っていた。柱はなるべく寝かせて建てる方がテンションは得られるので、子供でも楽によじ登ることができた。青々とした葉っぱのあいだから身を乗り出して棚の上にまたがるのが大好きだった。ぼくは、屋根の上とか塔の上とかとにかく高いところが好きだった。そこに立つと、ぼくの知っている世界の周囲に、まだ知らない世界がどこまでも広がっていて、あこがれを胸に覚えた。
 棚の上に座ると、ぼくの周囲には同じように緑の棚が斜面に沿って少し傾きながらずっと広がっていて、その向こうに甲府盆地が、さらにその周囲には盆地を取り囲む山々が連なっていた(それが南アルプスや奥秩父や御坂山塊だということは、後になってから知った)。そしてその中に周囲の山から一つだけ高く、富士山が見えた。
 それが、ぼくの慣れ親しんだふるさとの山だ。

 古賀力さんが亡くなった。
 古賀さんの功績と言えば、シャルル・トレネやジャン・フェラやジョルジュ・ブラッサンスやレオ・フェレを日本のシャンソン愛好家たちの財産にした、ということにあるだろうが、ぼくが第一に挙げたいのは、かれの“字余り訳詞”だ。
 以前に書いた(「訳詩について」4/13)が、日本語は西欧語に比べて音節の構造がシンプルなので、音符に日本語の音節を単純にのせていくと、歌に盛り込める内容自体がシンプルなものになってしまう。だから日本では短詩形に直截な叙情や叙景を盛り込む文学が発達した。
 シャンソンを日本語に訳詞しようとすると、中身が単純なものになってしまうという困難が付きまとう。だから、常套的な恋の歌が多くなる。
 古賀さんは、この困難を乗り越えるために、元の歌の1音にたくさんの日本語の音節を詰め込むことを試みた。これは、メロディーの美しさやリズムの明快さを損ないかねないので、リスキーな作業だ。
 彼はそのリスクを乗り越えただけでなく、その作業を通じて独特の歌の世界を作り上げた。シャンソンを好きな者ならだれもが知る彼のあの語りかけるような味わいのある、ペーソスとユーモアを帯びた歌唱はそうして生まれたものだ。
 「シャンソンはフランスの演歌だ」というのが、歌い手にもお客にも通念になっているようだが、それは全然違う。日本人が勝手に演歌のようにして取り込んでいるだけのことだ。
 古賀さんの訳詩は、そして歌唱は、シャンソンが演歌のようであることを嫌った。そして演歌とは全く違った文化であることを示した。少なくともシャンソンが演歌になだれ込んで呑み込まれてしまうのを阻む防波堤の役割を果たした。
 これも彼の独特の訳詩にかける情熱の功績だと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする