釣鐘(つりがね)について想うこと
7月3日のことでした。
釣鐘の下で物思いにふけっていた。
難しい漢字を読み解いていたら、金属回収令なる文字を発見
当時に思いを浸した。
① 鐘楼建設に当たり寄付された人の名前(S41年竣工)
② 釣鐘と第2次世界大戦と金属供出
③ 諸行無常・・・・。
釣鐘の下に立ちて、しばし考えを巡らした。
① 鐘楼建設に当たり寄付された人の名前
多額を寄付された方は50万円、一般的に5千円が多かった。
昭和41年↓建設とありますから、当時の物価を調べてみた(対比)
中華そば 64円(559円):8.73倍
マヨネーズ(500g) 44円(292円):6.64倍
コーヒー(喫茶店) 76.5円(445円):5.8倍
豆腐(100g) 7.17円(33円):4.6倍
タクシーの初乗りが100円の料金でした、現在は760円。。
② 第2次世界大戦と釣鐘
太平洋戦争時の金属供出により梵鐘が無くなってしまったため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 兵器の製造に必要な金属資源の不足を補う目的で公布された金属類回収令(昭和16年9月1日施行)により、官民所有の金属類は、装身具、鍋・釜から門扉、銅像、梵鐘などあらゆるものが根こそぎ回収された。
日本刀までその範ちゅうに入ったことを、子どもながら憶えています。
③ 諸行無常・・・・、について調べ、意味を知った。
≪仏法の大網である『三法印』の一つ≫
「諸行無常
是生滅法
生滅滅已
寂滅爲樂」
説いていることは、
この世の中のあらゆるものは変化・生滅してとどまらないこと。この世のすべてがはかないこと。全てのものが変化するものであることを知れば、安楽の境地に至ることが出来ると述べています。
読み方は
・ 諸行無常 (しょぎょうむじょう)
・ 是生滅法 (ぜしょうめっぽう)
・ 生滅滅已(しょうめつめっち)
・ 寂滅為楽(じゃくめついらく) と読むそうです。
ウィキペディアから出典
鍋釜類まで出させられて
困惑していた母の表情をありありと覚えていますね。
猟銃や日本刀も持って行かれました。
松の幹にのこぎりで斜めに傷を付け
下に缶詰のカラをくくりつけ松ヤニを集めて学校に持っていきました。
松根油を作り、飛行機の燃料にするのだと教えられました。
今思うと欧米大国に勝つはずのない無謀な戦争でしたよね。
アイスとか10円~30円でした(*^_^*)
戦争時兵器の製造に必要な金属資源の回収の
話はいろいろ聞きました
3歳くらいの時いつも前のおじいちゃん家に
遊びに行って、そのおじいちゃんにいろいろ聞きました
おじいちゃんは兵隊経験者だったのでしょうね。。
子供の頃よく聞かされました。
金偏の付くものなら、どんな小さなものでも供出させられたそうですね。
今思うと馬鹿げた戦争でした。勝てる筈も無いのに。
戦後、焼け跡から焼けた鍋釜やヤカンが盗まれたそうですね。
子供たちは焼けた釘など金偏の物を拾い集めて売りに行ったそうです。
今の子供達には想像も出来ない事でしょう。
まず最初に疑問にお答えします。
・ 梅雨明けの空晴れて青酷暑らし
朝から青空が広がっていました。
見渡す限り空は青、ラジオ体操で身体を動かした人、それぞれに、今日は暑くなりそうですね、「酷暑ですね!」
そんな言葉がささやかれた。
そこで作った、即興5・7・5です。
・ 梅雨明けの 空晴れて青(あお)、酷暑らし
朝での今日の願望を読みました。
≫困惑していた母の表情をありありと覚えていますね。
猟銃や日本刀も持って行かれました。
確かにそうでした。
学校の近くに、橋が有ります。荒川の支流です。
ここの橋から落ちないように金属が沢山はめ込まれていた、転落防止策。
これをば取り去って、「日本魂、勝つまでは・・・・・・・、の戦争」
に、つぎ込まれたことは、惨めと言おうか、
日本軍の最後のあがきと見て取り、…………悲しい、引き起こしてはならない第2次大戦の、幼き子らが見た、
原風景でした。
≫ S41年!妹が生まれた年で私は3歳
アイスとか10円~30円でした(*^_^*)
若き人にこのような第2次大戦の現状に引き込んでしまい、
相済まない。
おじいちゃんから聞き得た戦争の話を聞けただけでも、
コメント、貴重なことと受け止めました。
・ 戦争は 遠くなりにし ダメヨ駄目
戦争と言う二文字が消え去ろうとしています。歴史から消え去ってはなりません。
紅さんも日光へ疎開でしたか!?
1昨日、隅田江東地区の「街歩き」をしてきました。
平和橋通りと言うのが水戸街道~京葉道路」が有りますが、この辺一帯江東地区は爆撃に合い、震災記念堂(これは関東大震災)が有ります。
第2次世界大戦で、総てが焼け野原、
そのことから「平和橋通り」が出来たと聞きました。
年を経ると、徐々に忘れ去られて行きますね!!
、
「こんな事じゃ日本(戦争)も長くは持たないな」
と
父は思ったそうです。私は終戦間際の生まれ戦争の事は
ほとんど知りませんが、物がない事は経験しました。
私が会社員になって上司がラーメンご馳走してくれました。
その時のラーメン代金30円でした。給料が1万円弱の
時代でした。昭和は遠くなりにけりで、物で溢れかえる
時代になり、それが本当に幸せな事か?と思ってしまう私です。
小学校2年で終戦でしたから、それなりに戦争と言うものを見てきました。
物、街をメチャメチャニシ、人間の心までもづヅタヅタに引きちぎる。
子ども心に見てきましたが、なんせ山の中でしたからそれほどに、都会の人たちは、計り知れない苦しみであったでしょう。
あちこちの寺を回っていますが鐘楼は、各寺にあるようです。
平和の証でしょう。