富山マネジメント・アカデミー

富山新聞文化センターで開講、教科書、参考書、講師陣の紹介、講座内容の紹介をいたします。

日本人の実質賃金の低下とアジア系の方の日本企業での賃金上昇

2019年05月10日 | Weblog

日本人の労働者は、法律により過保護にされていた時代、近隣のアジア諸国の労働者との競争にさらされることはなかった。そのような良き時代の記憶が不満を言わせている。企業の眼で見ると、製造業、情報産業では、日本人の生涯賃金は、周辺のアジア系の方との差異は、かなり差があった。現在、その差異が狭まりだした。周辺のアジア諸国では生活の消費者物価と生活水準は低いので、賃金を消費につかう際の購買力では、日本人の実感よりもゆとりがあるように感じられている。特に、ベトナムの方が優秀なので、日本人の職域を埋めている。なぜかというと、日本に働きにくる方は、外国語として日本語の学習に耐えられるかたである。つまり、暗記・暗唱の能力がある。このかた、日本人は教育社会のゆるみがあるので、暗記・暗唱の能力が、学力の中・下層では鍛えられていない。近隣のアジア系の方と、日本人の学力中・下層の方と公平に比較すれば、後者が負け組となっていく。それは、安倍政権の責任ではない。労働市場という場で、経済学でいう市場原理が、国境を越えて作用しているからである。それなのに野党系の論客は、政府与党の責任として、政治宣伝や選挙運動に利用している。では、個々の企業が、日本人だけを大切にしたいと思い、日本人だけに賃金を上げることができるだろうか。もうすでに、日本企業は海外工場を含めると、構成は多国籍化している。例えば、製薬業の武田薬品では、日本人が主要なポストを奪われている。反対に、富山のいくつかの製薬企業では、外国の薬品企業のために、原料体や中間体を製造している。「地球的規模の人種別を超えてワークの輪」が出来上がっている。もう孤立国の日本には、後戻りできない。野党系の論客は、外国人の労働者に対し、ヒューマニズムの感性が働くので、その面では、大局的には、正しい議論をしている。ただし、さまざまな社会保障の制度などの周辺のケアーを含めると、実質の賃金の他に、企業はさまざまな労働者保護の分担金があり、賃金統計と物価統計だけで議論するメディアの論客は、ことがらを単純化することで、かえって実態から離れることになる。


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日本の国家財政の赤字を考える(補充)

2019年05月10日 | Weblog

今日の報道によると、<財務省は10日、国債や借入金などを合計した「国の借金」が、2018年度末時点で1103兆3543億円になったと発表した。17年度末に比べて15兆5414億円増え、3年連続で過去最大額を更新した。13年度末から6年続けて1千兆円を上回っている。>という。これを視ると、誰もが大変だとおもう。「借金」という卑俗なたとえが、俗論を再生産する。僕は、日本の企業・国民の貯蓄資産の積立金という「貯え」として、国債を買っており、国民経済の健全性を表わしていると解釈している。余りに古い話で恐縮だが、大正時代、関東大震災のあと、財政難もあり、単年度ごとの均衡予算を続け、さらに世界恐慌に際しても、財政均衡主義を貫き、それが行き詰まり、今度は戦争景気を準備するため、国債発行と財政の単年度均衡主義を廃棄する。その結果が、日中戦争、対イギリス戦争、対米戦争となる。この後遺症が1945年以後も意識のなかで持続し、国債の発行がタブーとされた時期が長く継続した。そのうえ、国力にみあった不動産の価格上昇をバブル経済というレッテルで、一気に金融引き締め、日本はそこから不動産を主体とする資産デフレが加速し、いわゆるバブル崩壊という景気の後退が常態化した。戦争を誘発した間違いからのインフレと、経済成長の成果にともなう不動産インフレとを同じような景気過熱と考えた。こうして、日本の財政政策は、2度も世界の大勢の逆こうする失敗を犯した。こうした極端な経験を経て、国民は「節約、倹約しておれば、最悪の事態は避けられる」という孔子の「約」の思想の伝統を自然に信奉するようになった。この結果、国民はどんな苦しい生活者でも、こつこつと貯金をして、家屋や車、電気製品の「減価償却の積み立て」を行い、地道な生活防衛を基本とするようになった。また、製造業を中心とする企業は、バブル崩壊後の銀行の貸しはがしを経験し、かつ、リスクのある運用で内部留保を運用することを避けてきた。その結果、国家は地道に積みあがる国民の貯蓄を運用する装置として、国債発行により、国家財政の赤字を積み上げてきた。国家の財政赤字は、同時に、国民や企業の貯蓄や保険金の債権の積み上げと同時並行するわけである。国家が債務者、国民や企業が債権者という日本国の内部での貸借の関係が出来上がった。それで、国民や企業の貯蓄の積み上げを抑え込むために、預金金利を実質マイナスに転じても、さらに勤労者の賃金を相対的に引き下げても、有利な運用先がないために、国債の発行をしなくてはならないので、貯蓄の受け皿として、やむを得ない赤字財政の積み上げがなされる。これを単年度の均衡財政の思想で論じたら異常な事態にみえる。しかし、国債は償還と、新規発行を循環させ、それで利子が賄えるので、国家財政はあくまでも日本の国民経済の部分であり、日本銀行と政府保有資産の総額とを全体としてみると、日本の現状は破綻に向かっていない。というのは、日本企業の海外投資が2001年ころから上手く機能し始め、外国への資本投資が大きな利益となって日本国内へ送金されてくる稼げる国家になっているからだ。こうして、外貨から日本円に還元される流入するマネーは、無利息でも目減りしない日本円として保有される。こうして、日本は天秤にたとえると、国民の蓄積と国家の財政支出の膨張とが釣り合う関係なので、基本的には、次世代に負債を肩代わりさせるという議論があるが、そうではなく、次世代のために国家は先行投資をしているのである。特に教育投資を先行させると、次世代こそ現世代の資産の恩恵に今という瞬間に与かっていることになる。


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Toyamaに武道館アリーナの建設が期待される(完結)

2019年05月10日 | Weblog

山運動公園、部市、そこから「桃黒」→「ももくろクローバーZ]というアイドルのために「聖地」を思いついた黒部市の関係者には、敬服したい。2日間で2万人近い集客イベントに成功している。個人的には、ももくろのフアンではないので、行かなかったが、このイベントは、トヤマ・ガールズ・コレクションとともに、富山県のエリアでアリーナ型の「武道館」の設立が可能であることを証明している。観客席8000人というのは、箱の適正規模をしめしている。僕が主張するのは、富山人の一体感の育成である。いまだ、県会議員が東西に分かれて喧嘩している。8000人の座席数は、富山県民の一学年齢のエイジグループが8000人平均であるからだ。合同の入学式、合同の運動会、合同の音楽祭、さらに本命の武道の大会である。武道場と武道館とは、一字違いとはいえ、前者は鍛錬の場所。後者は、観客を主体とするイベント・ホールである。さて、富山駅周辺で、徒歩で5分から8分の範囲では、それだけの土地はない。観客は、新幹線利用だけではない。福井、石川、岐阜、新潟、長野からの集客では、基本、自動車利用が最大となる。そういう条件と満たすとすれば、新幹線の駅周辺で、なおかつ3000台くらいの駐車場ということになると、答えは、黒部か、高岡となる。

人口減の社会だからこそ、過去には不可能だった全県一体の教育ができる。長野県は、明治を期して県民意識の統合にとりくんだ。富山では、男子のみが兵役のために富山五福の35連隊で、富山男子としての一体化の教育を受けた。富山大学の全学生・院生の総会を開く場所がない。それでどうして、他府県からの入学生を県内企業への就業を促進できるというのか?人口減の社会だから、幼児、児童、生徒、学生、院生のために、ひとてま掛ける教育の質の向上ができる。それは、企業の働くひとも同じである。県内企業が、「ゆるスポーツ大会」で若い世代を会社を超えて交流する聖地があれば、婚活促進にもなる。もう一度、述べるが、武道館とイベント・ホール、アリーナは矛盾しない。見せるという価値に絞れば、武道館でも、バトミントンでも、フロアーの仕立て替えで成立する。

 


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