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◆わたしの心だ。

2016年09月04日 09時56分00秒 | 聖書
きよくなれ。(マルコ一・四一)
 
初めの暗黒は、全能者の「光よ。あれ」との命令を聞いて、ただちに逃げ去り、そこに光が現れた。主イエスのみことばも、権威において、その古い力あることばといささかも変わらない。贖いは創造と同様に、力あることばをもつ。イエスが語られると、事はたちまち成る。主が「わたしの心だ。きよくなれ」と言われるとすぐに病は逃げ去った。
この病気には希望も回復のしるしもなく、自然の力をもっては全くいやすことができなかった。しかし主のただ一言によって、その場でいやされた。罪人はこの病よりももっと悲惨な状態にある。彼にこの病人のように、「イエスのみもとにお願いに来て、ひざまず」かしめよ。信仰が乏しくても、それを働かせよ。「お心一つで、私はきよくしていただけます」という程度の信仰でもよい。信仰を働かせることがよい結果をもたらすのは、疑う余地がない。イエスはみもとに来る者をことごとくいやし、一人も退けられなかった。
今朝の聖句の前後を読む時、イエスがこの病人に触られたという点に敬虔な注意を払うべきである。この病人は、律法にある規則を破って家の中に入った。しかしイエスは、彼を叱責されるどころか、彼に会うためにご自身も律法を破られた。イエスはご自身と病人を交換された。イエスは病人をきよめられたが、彼に触ることによってレビ記中の律法に定められた汚れを受けられたのである。そのように、イエス・キリストは罪を知らない方であるのに、私たちのために罪となられた。私たちが主にあって神の前に義とされるためである。
あわれな罪人がイエスの幸いな身代わりのみわざを信じてみもとに行くならば、すぐに御手の恵み深い力を知るであろう。パンを増やし、また沈もうとしているペテロを救い、悩んでいる聖徒を支え、信者に栄冠を授けるその同じ御手が、すべての求める罪人に触れると、彼はすぐにきよくされる。イエスの愛は救いの源である。主は私たちを愛し、ながめ、触れてくださる。こうして私たちは生きるのである。
 
 

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