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●協約自治の原則●

2012年01月28日 10時36分18秒 | 労働法

 これは労使が交渉を通じて労働協約を締結することによって、労働条件を決定し、その内容を尊重するというものです。労働条件が労使の対等な立場から話し合いによって決定しているのならば、その合意した労働条件に対しては、法的にどうこう言う筋合いのものではない、ということです。
 これが就業規則の場合には、会社が一方的に作成できるものなので、果たしてこれが適切なものなのか、法的に「合理性」の有無を確認し、その労働条件が有効なのかどうかを判断する余地がありますし、その合理性判断そのものに意味があります。
 しかし労働協約は、両者が合意しなければ締結できない点で就業規則とは異なります。とはいうものの、労基法などの強行法規や公序良俗に反する場合には、無効となる可能性もあります。


出エジプト記33章17-23節

2012年01月28日 06時14分45秒 | 聖書

33:19 主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」
  イスラエルの民は、罪の汚れに染まっていました。
そのままでは、すべての人々が皆、その罪のために滅ぼされてしまうことでした。
また、モ-セでありましても、後に分かりますように、主の御心に従わなかったために、約束の地に入る直前に、天に召されてしまいました。
従って、神の前では、どのような者でありましても、そのままで受け入れられるような人はいないのです。
皆、神の前では、罪人であることが分かります。
 ところが主は、モ-セを祝福をして下さり、また、このモ-セの執り成しによって、イスラエルの民に恵みを注いで下さる約束をして下さいました。
何故でしょう。
 その理由は、人の側にあるのではありません。
人の内には、滅び以外にないのです。
主がこの民を恵んで下さる理由は、一方的な主御自身の好意に寄るのです。
主の一方的な意志による以外に、その理由はないのです。


◆神の愛を知る

2012年01月28日 06時03分42秒 | 聖書

わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。
その叱責をいとうな。
父がかわいがる子をしかるように、
主は愛する者をしかる。       (箴言三11―12)

「健康な生き方」とは何でしょうか。
・ 愛されているという満足・喜び・平安に満ちている。
・ 愛するという力・希望・忍耐にあふれている。
この二つのことは、ぜひ必要です。これは神からだけ来ます。神は愛だからです。
この神の愛を知る一つの大きな方法は、人生の苦しみの中に、私たちが神の愛の涙と血を知ることです。
新聞の「父の日」特集の中に「父を語る」として、「私のお父さんはよく叱る人だった。もうその叱る人はない。今になって父の愛をしみじみ感じている」と記されていました。
また、ある人は告白しています。とんでもない踏みはずしたことをした時、お父さんが烈火のように怒ったそうです。自分を引きすえて、お前のようなものは死んでしまえと涙ながらに言って、ナイフを渡しました。そしてもう一本のナイフを取り出すと、お父さんは手のひらをたたみについて、ぐさっとその手にナイフを突き刺したそうです。「さあ死ね」と。血があふれ流れました。その父の愛と力に私の心は粉々にくだけたと、その方は述べていました。
キリストの十字架の血潮は、これではないでしょうか。罪とわがままに満ちた自分勝手な私たちは、十字架に引き立ててこられました。しかし、「キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ五8)。
神は愛しているので、叱り、苦しめ、こらしめます。ですから、しらけてはならないのです。その前に引きすえられ心をくだいて神の愛を受け止め、神の愛に満たされる時、人は変わります。

 


◆キリストにあって完全な者……。

2012年01月28日 06時02分25秒 | 聖書

(コロサイ一・二八欄外注)

あなたは、自分のうちには完全がないことを、たましいのうちに感じないだろうか。日々その感じを深くしないだろうか。両の頬をつたう涙の一滴ごとに、「不完全」という嘆きを聞かないだろうか。ため息をつくたびに、「不完全」という叫びを聞かないだろうか。あなたのくちびるから荒いことばが出るたびに、「不完全」という思いがしないだろうか。あなたは心で夢見つつ、自分自身の中に完全を得ようとしばしば考えた。だが、この悲しむべき不完全の自覚のうちに、あなたに対する慰めがある。あなたは「キリストにあって完全な者」である。神の目から見れば、あなたはキリストにあって満たされているのである。
今もあなたは、愛する御子によって受け入れられている。しかし、まだこれから実現される第二の完全がある。それはすべての信者に保証されているものである。信者からすべての罪の汚れが取り去られ、しみや、しわのようなものの何一つない、聖く傷のない者となって立たせられる時を待ち望むのは、喜ばしいことではないか。キリストの教会は、その時、神の全知の目でさえも、なんらの傷もしみも見いだせないほど純潔な者となり、神聖で栄光に輝く。そのためハート氏の言った次のことばも決して言いすぎではない。
 私の救い主の衣をまとい
 聖者のように聖くされる
その時私たちは「キリストにあって完全な者」という短い聖句の喜ばしい意味を理解し、また体験する。その時までは、私たちはイエスの救いの高さ、深さを完全に理解することはできない。このように考える時に、あなたの心は喜びに躍りはしないか。黒いあなたがいつか白くされ、汚れたあなたがいつかはきよめられる。ああ、なんという驚くべき救いであろう。
キリストは黒い傷のある者を取り、栄光のうちにきよい無比の者とされる。その美において並びない者、天使セラフィムの友としてふさわしい者とされる。ああ、私のたましいよ。立って、このキリストにある完全という喜ばしい真理を賛美せよ。