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出エジプト記29章35-37節

2012年01月08日 18時05分57秒 | 聖書

29:37 「七日間にわたって祭壇のための贖いをしなければならない。あなたがそれを聖別すれば、祭壇は最も聖なるものとなる。祭壇に触れるものもすべて聖なるものとなる。」  神殿で神様のご用に当たる大祭司アロンとその子供たちが、神様の前に立って奉仕ができるように、彼等のためにすべき務めを、モーセに命じました。それは彼らを聖めて、奉仕に当たらせるためでした。本日の箇所では、彼ら祭司が、その中心的な奉仕の働きとなる、幕屋での奉仕のために用いられる祭壇を聖めよ、と告げています。聖めるというのは、聖なる方の前に奉仕ができるように、主の前に分離するということです。そのために、祭壇を7日間にわたって、贖罪の業をしなさいと命じています。それは、雄牛1頭を主に捧げることでした。このように罪のための犠牲を、主に捧げることによって、主はその祭壇を聖いものとして受け入れてくださり、主の前で仕えるために用いられるものとされたのです。ここでは特に、聖めるということが語られています。それは、主は聖なる方ですから、主の前での奉仕に用いられるものをも、聖められる必要があったのです。


◆叫ぶ声が聞こえない時

2012年01月08日 10時31分35秒 | 聖書

恐怖があらしのようにあなたがたを襲うとき、
災難がつむじ風のようにあなたがたを襲うとき、
苦難と苦悩があなたがたの上に下るとき、
そのとき、彼らはわたしを呼ぶが、
わたしは答えない。
わたしを捜し求めるが、
彼らはわたしを見つけることができない。(箴言一27―28)

きのうに続いて悲しいことばです。
第二次世界大戦前後に、「呼べば答えるめんこいぞ」という軍馬の歌がありました。「あなーた なーんだい 空は青空 二人は若い」なんて、流行歌もありました。呼べば答える。それこそ、愛の姿・幸福のしるしです。
神は聖書の中ではっきりと何回も、「わたしを呼び求めよ、そうすればわたしは答える」と約束していらっしゃいます。イエス・キリストも、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」(マタイ七7)、こうおっしゃいました。これこそ、いま与えられている確かな福音です。
死と滅びの恐怖・災難・苦難がつむじ風のようにあなたを連れ去る時が来ます。それは、永遠の暗黒のかなたで「神さま、助けてください」と叫ぶ声も、もはや神の耳に聞こえない時なのです。この警告を、けっしてむなしくしてはいけません。今、罪を悔い改め、くだかれた魂となって「神さま」と呼び求めなさい。そうしたら、わたしはあなたに耳を傾け、あなたに手をさし伸べるのだと、神はおっしゃっているのではないでしょうか。
神は、心くだけた魂にいと近くいてくださいます。うめき声や小さな叫びにも、耳を傾けてくださる方です。
「わたしは、……心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである」(イザヤ五七15)。

 


◆聖なるささげ物に関しての咎……。

2012年01月08日 10時29分32秒 | 聖書

(出エジプト二八・三八)

このみことばによって、どれほど驚くべき事実が暴露されたことだろう。この悲しい現実を見つめるなら、私たちは謙遜にされ、また、教訓を与えられる。
礼拝における罪、偽善、形式主義、不熱心、不敬虔。礼拝の時、私たちの心は迷い、神を忘れている。なんと多くの罪が存在することか。主のためになす私たちの働きのうちに、尊大さ、利己心、不注意、怠慢、不信仰などの驚くべき多くの汚れがある。私たちの個人的な礼拝にあっても、放縦、冷淡、怠慢、不活発、虚栄など、まるで泥が山のように積み重なっているようだ。これらのものをよく観察すると、見かけよりさらに悪いことがわかる。
ペイソン博士は、弟に送った手紙でこう述べている。「私の伝道地は、ちょうど私の心のように、まるで怠け者の庭だ。さらに悪いことは、その両者をきよめようとする私の思いが、高慢か、虚栄か、または怠惰から出ていることである。私はこの庭に繁茂した雑草を見て、それを取り除こうと熱烈に願っている。だが、なぜそう願うのか。動機は何であろうか。庭を散歩しながら、『うちの庭は、なんとまあ手入れが行きとどいているのだろう』とひとり言を言うためかもしれない。これは高慢である。あるいは、隣人が垣根越しにのぞいた時、『お宅の庭は立派ですね』と言ってもらいたいためかもしれない。これは虚栄である。または雑草取りに手がかかるから、根絶やしにしたいと思っているのかもしれない。これは怠惰である。私たちが聖潔を願う時すら、その思いは悪しき動機により汚されがちである。少し眺めていると、美しい緑の芝生の陰に毛虫が隠れていることがすぐにわかる。」
大祭司が聖なるささげ物に関しての罪を担った時、その額には「主への聖なるもの」と書いてあった。このことはなんと喜ぶべきことか。そのように、主イエスは、私たちの罪を担われる時、私たちの汚れを神の御前に提出されず、ご自身の聖潔をささげてくださるのである。ああ、信仰の目をもって、私たちの偉大な大祭司を見る恵みが与えられますように。