最近急に寒くなりましたね、こないだ雪が降ったり、雨が降って寒いです、おでんが食べたいです。ね。
32:29 そこで、モーセは言った。「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らっても、きょう、主に身をささげよ。主が、きょう、あなたがたに祝福をお与えになるために。」 主が、人々の罪のために、イスラエルの民全体を滅ぼすと言った時に、モ-セは主に執りなして、民全体の滅びは免れさせて戴きました。しかし、その罪を犯した民の一部に対して、モーセは裁きを加えました。3000人の人々が倒れたと語られています。この後、モ-セは民に向かって、自分の子どもや兄弟に逆らったとしても、自分は主の側につくと思う人々は、主に自分の身を献げるようにと求めました。自分の身を献げるというのは、主のみ言葉に聞きしたがって生きようと、決心をすることです。つまり、自分の今までの罪を悔いて、新しい思いで主の御心に従って行こうと、決意を持つことです。親とか子どもとかではない、自分が従うかどうかだ、というのです。そうした人々に対して、主は赦しを与えて下さって、新しい歩みへと導いて下さるであろうというのです。罪を犯した時には、悔い改めによる、新しい歩みへの決意が要求されるのです。
心を尽くして主に拠り頼め。
自分の悟りにたよるな。 (箴言三5)
この大好きなことばは、私のモットーの一つです。ただ、このとおりに実行しているかいないかが問題です。
第一に、自分の限界を知って、自分の悟りにたよらないことが大切です。クリスチャン哲学者エーメラーは、こう言いました。
変えられない現実は静かに受け止めること
変えられるものは勇気をもって取り組むこと
神よ
そしてこの二つを見分ける力をお与えください。
自分のはげ頭・身長・顔つき、また与えられた環境は変えられません。これを知って、素直に受け入れることが大切です。受け入れないなら、いらいらしたり失望するばかりです。平安もなく、力もわいてきません。ですから、ほんとうに努力することもできないのです。ところが、自分の目だけでそれらを見極めようとしたり、他人がどう見るかで決めようとしたりすると、卑屈になって安心感が失われます。
しかし神の目は、この私をどのように見ておられるでしょうか。神の目、それは愛の目です。私たち一人一人が、神に愛され、関心を持たれ、期待されています。神は、人の心を中心から変えてくださる方です。
私の友人で、ポンコツ車を買ってきて、エンジンやその他をすっかり入れ替えて走らせた人がいます。心を尽くして神によりたのむなら、神は、あなたの心のエンジンを入れ替えてくださいます。そして、新しい力があなたにわいてくるのです。
(エゼキエル一五・二)
このみことばは、神の民を謙虚にする。彼らは、神のぶどうの木と呼ばれている。しかし彼らとて、生まれつき他の者にまさっているだろうか。神の助けにより、彼らは良い地に植えられ、実を結ぶに至ったのである。主は彼らを聖地の囲いの中に成長させ、御栄えのために実を結ばせられた。しかし、神なくして彼らは何者なのだろう。絶えず彼らを感化し実を結ばせておられる聖霊なしに、彼らは何者であり得るのか。
信じる者よ。あなたにはなんら誇るべき理由がないことを知り、高慢を退けよ。あなたが何者であろうと、誇るべきものはない。あなたが多くを所有すればするほど、あなたは神に対して負債をもつことになる。だから、あなたを債務者にすることになる富を誇るべきではない。あなたの素姓を考えよ。あなたがどんな者であったかを顧みよ。神の恵みがなかったなら、あなたがどんな者になっていたかを思え。現在のあなた自身を考えてみよ。あなたの良心があなたを責めはしないか。あなたの多くの罪過があなたの前に立ちはだかり、「おまえは神の子と呼ばれる価値のない人間だ」と告げはしないか。また、もしあなたに少しでもとりえがあるならば、あなたをそのようにしたのは恵みではないか。
主にある友よ。神がもしあなたに変化を与えられなかったら、あなたは大罪人になっていただろう。真理のために勇敢な者よ。もし恵みがあなたを捕えなかったなら、あなたは虚偽のために勇敢な者となっていただろう。だから高慢になってはならない。あなたは広大な恵みの所有地をもつが、罪と苦痛のほかには自分のものだと言えるものを何ももっていないではないか。あなたはすべてのものを借りていながら、なお自己を高めようとする奇怪な妄想を抱くのか。あなたは救い主の恵みにすがる居候であり、イエスから来る新鮮ないのちの流れがなければ、死んでいた者であった。それなのに、なおあなたは高慢になるのか。ああ、なんとあなたは見下げはてた心をもっていることか。
従業員と会社との関係において、重要な役割を果たすものは、個別に交付される「雇用条件通知書」とももに、「就業規則」がきわめて重要です。それは就業規則は労働契約内容とほぼイコールだからです。そして重要な内容のほとんどは、就業規則に記載されています。しかし就業規則は会社が一方的に作成しているもので、従業員の意見が反映されたものではありません。にもかかわらず就業規則が契約内容とされるのは、膨大な労働条件について契約締結の度にお互いの話し合いによって決めてていたのでは、あまりに非効率ですし、多数の従業員を雇用する会社では、すべての従業員を公平に処遇する観点からも、一律な内容とすることが、労使双方のメリットとなります。このため、雇用条件通知書に記載されていない条件については、就業規則によることとなるのです。しかし就業規則が無条件で労働契約内容となるわけではありません。会社が一方的に作成するものであるため、違法な内容や不適切な規定があることもあります。こうした問題のある就業規則の規定は、法的な判断によって個別に修正が加えられることになり、合理的な内容ののみが有効とされるのです。