今日は気分がいいので1日中瞑想していました。
熱々の肉まんが食べたいです。
33:9 モーセが天幕にはいると、雲の柱が降りて来て、天幕の入口に立った。主はモーセと語られた。
この時は、まだ、聖所と呼ばれる正式な幕屋が作られておりませんから、神様は、モ-セが宿営の外に設置した天幕で、彼と接して下さいました。
民は、モ-セがこの天幕の所に行く時には、自分たちの天幕の入り口に立って見守りました。
そして、モ-セがその天幕に入ると、雲の柱が降りてきました。
そのことは、主がそこにいて下さるという印でした。
そして、その雲の柱が立った時、民は皆、伏し拝みました。
そして神様は、その時モ-セに幕屋で語り、その御心を告げて下さいました。
主はモ-セと、友と語るように語って下さいました。
また、顔と顔とを合わせて話して下さいました。
神様は霊ですので、人の目には見えないお方ですが、このような親しいあり方で、モ-セと語って下さったのです。
それは、主がこのモ-セを御自分の所に召して下さったからです。
主の恵みの故に、モ-セは主と親しくまみえることが許されたのです。
私たちも同じです。
イエス様に寄る恵みによって、主と交わることができるのです。
あなたの財産とすべての収穫の初物で、
主をあがめよ。
そうすれば、あなたの倉は豊かに満たされ、
あなたの酒ぶねは新しいぶどう酒であふれる。(箴言三9―10)
「あなたの倉は豊かに満たされ、あなたの酒ぶねは新しいぶどう酒であふれる。」いかにもユダヤ的表現です。しかし「あなたの心が、愛される喜びで満ち、あなたの心から愛する力があふれる」と言い換えるなら、これこそ健康な生き方そのものではありませんか。
「そうすれば、あなたの倉は……」、いったいどうすれば、そんなに満ち足りた健康な生き方ができるのでしょう。「あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ」そうすれば、……なのです。
このことを、神がおさい銭を要求していると考えないでください。そう考える私たちの考えがさもしいのです。
今の高校生がお母さんに言うことばが三つある、いや三つだけしかないということを聞きます。「お母さん、お金!」「お母さん、メシ」「ウルセエ」。しかしこれこそ、現代の人間関係の姿を象徴していると思います。みんなが、カネ、メシ、ウルセエでやっていませんか。神に対してもそうです。お金がもうかりますように、自分の商売だけ繁盛しますように、安全でありますようにとは祈ります。けれども、神の言われることばには聞く耳を持たず、ウルセエです。寂しいむなしいエゴイズムです。
あなたの財産・あなたの収入・あなたの持っているもの、その中に一つでも神から与えられなかったものがありますか。頭がよくて努力したから私のものになったと言うでしょうか。しかし、その頭のよさ・その努力できる力はどこから来ましたか。
神に初物をささげ、賛美をささげ、感謝をささげているうちに豊かに満たされてきます。これこそ満ち足りた健康な力強い生き方なのです。
(マタイ六・二六)
神の民は、二重の意味で神の子どもである。彼らは創造によって神の子孫であり、またキリストにあって養子とされたことにより、神の子どもなのである。したがって、「天にいます私たちの父よ」と呼ぶ特権を与えられている。
父! なんという尊いことばであろう。ここに権威がある。「もし、わたしが父であるなら、どこにわたしへの尊敬があるのか。」もしあなたが子であるなら、従順はどこにあるか。ここには権威とともに愛情がある。その権威は反抗する気にはならせないものである。神の子たちの神への従順は、愛による従順でなければならない。神の御用を務めるのに、雇い主の命令に従う奴隷のような気持ちであってはならない。かえって、それが父のみこころであるゆえに、喜んでその命令に従うようにせよ。あなたのからだを義の器としてささげよ。なぜなら、義はあなたの父の御旨であり、父の御旨は子の志でなければならないから。
父! このことばの中では、王の性質が愛のべールに包まれているので、その顔のため王冠が忘れられ、笏は鉄のむちではなく慈愛の銀の笏になっている。優しい手に持たれた笏は、それとは気がつかないほどに忘れられている。
父! ここに名誉と愛がある。子に対する父の愛はどんなに大きいことであろう。友情や、単なるあわれみからではできないことを、父の心と手はその子のために成し遂げる。彼らが子である以上、父は彼らを祝さなければならないし、彼らを強く保護しなければならない。もし地上の父が不断の愛と注意をもってその子を見守るとすれば、私たちの天の父は、どれほど行きとどいた顧みを与えられることであろう。
アバ、父よ! こう言える者は、ケルビムやセラフィムよりもはるかに美しい音楽を奏でる。父ということばの奥には天がある。私が求めることのできるすべてのもの、私の要求し得るすべての必要、私が望むすべての願望がある。私が「父よ」と言い得る時には、すべてのものを永久に所有しているのである。
労組法14条では、労働協約は書面に作成し(労使)両当事者が署名し、又は記名押印することで効力が生ずる、と規定しています。
しかし労働協約は会社と労働組合の間の契約です。契約は当事者の合意があれば成立するものですが、労働協約には、組合員全員の労働条件を規定するという強い効力が認められています。これを規範的効力と言いますが、そのためその内容を明確にする必要があるため、書面に作成することが要件となっています。
では書面に作成されなかった合意は、どうなるでしょうか。労働協約としての効力は否定されるとしても、契約としての効力は認められる余地があるものと思われます。しかし実際にはその合意を裏付けるものが必要ですから、契約の存在を認めることが困難かもしれません。