労使の問題を規定する民法の条文があまりに少ないのは、民法が前提としているのは、労使の立場は対等であり、その中で決まったことは、お互いの納得の上なのだから、何でもOKというものです。契約自由の原則は、契約の法的解釈の大前提なのですが、労働契約に関する場合、そのすべてを「契約自由の原則」として考えることには問題があります。それは労使の立場は、実際には決して対等とはいえないからです。用時に労働契約締結に当たって、労働条件を話し合いによって決めることなどまずありえません。会社が一方的に決めた条件を受け入れるかどうかの選択肢しかないのですから、とても対等とは言えません。そこで法律上でも、立場の弱い労働者を保護するための規定が登場します。
32:8 「彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道からはずれ、自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえをささげ、『イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。』と言っている。」 主の戒めは、十戒に記されています。そして、その戒めはすでに20章のところにあるように、民にはわかっていたことです。ところが、モーセが主に召されて再びシナイ山に上っていった時、主からの長い戒めを与えられていたので、なかなか麓に戻ってきませんでした。そこで、指導者が見当たらなくなった民は不安になり、自分たちに先立っていく神を作ってくださいと、アロンに申し入れました。これは、今までは、神様がモーセに語りかけて、モーセから神の導きを受けていたのですが、それができなくなったと思ったからです。そこで、自分たちの導き手として、目に見える形の神の像を造って、それを拝んで、導きを得ようとしたのです。それは明らかに、十戒の戒めに背くことでした。彼らは、もう、神の戒めである十戒に背き始めたのです。戒めが、心にとどまっていなかったのです。
思慮があなたを守り、
英知があなたを保って、…… (箴言二11)
「思慮があなたを守る」とは、どんなことでしょうか。神を心に迎え入れ神を恐れかしこむと、思慮分別が生まれるのです。
分別とは、表面だけでなくて、中味が分かる心です。あの人はカンカンに怒っているけれど寂しい人だ。あの人はいばっているけれど、不安な人だ。愛してあげよう、ゆるしてあげよう、助けてあげようと、中味が分かる心です。
C・H・トイという人は、思慮とは「物事を計画する心である」と言いました。究極的な目的を見極めて、それに向かって手を打っていく心です。
こんな話を聞きました。アメリカのニューオーリアンズで孤児院を経営していたアルゲリートという勇敢な女性の話です。
孤児院の経営は大変なことでした。ある日彼女は、町の酒場へ寄付をつのりに行きました。一人の酔っぱらいが「うるせぇ。人がせっかくいい気持ちでいるところへ、そんな不景気なつら出すな」と叫んだとたんに、コップが飛んできました。アルゲリートの額に当たりコップは割れ、額は血だらけになったのです。彼女は血をハンカチでぬぐい、壊れたコップをハンカチで包みました。そして、「ありがとうございました。このコップは私への贈り物としていただきました。さて、身寄りのない孤児のために何をいただけるでしょう」と、にこやかに話しかけました。人々は先を争ってお金を出し始めました。その酔っぱらいは席を立ちましたが、「孤児のために」と書いた多額のお金がテーブルの上に残されていたそうです。
私たちは、かっとなってすぐ怒ったり、ちょっとのことで失望してしょげかえります。しかし神を心に受け入れるなら、思慮が与えられ、人生ががっちりと守られ、生きがいが分かってきます。
(黙示録一四・一)
使徒ヨハネは、天国の門の内部をうかがうことを許された。彼は自分の見た光景を述べるにあたって、「見よ。小羊が……」ということばで始めている。このことは天国の情景の中心的対象が「世の罪を取り除く神の小羊」であったことを教えている。使徒ヨハネの注意は、その血をもって私たちを贖ってくださった子なる神の人格に集中していた。小羊こそは栄化された霊ときよい天使たちの賛美の主題である。
主にある友よ。ここにあなたの喜びがある。あなたは小羊を知り、また見た。涙に曇った目で、世の罪を取り除く神の小羊を見た。だから喜べ。やがてあなたの目から涙がぬぐわれる時、同じ小羊が王座に座しておられるのを見るだろう。日ごとにイエスと交わるのはあなたの心の喜びであるが、天においてさらに深くその喜びを味わうだろう。あなたは絶えずイエスの御前にあり、永遠にイエスと共に住むのである。
「私は見た。見よ。小羊が……立っていた。」それもそのはず、小羊は天そのものであられる。ラザフォードが言ったように、天とキリストは同じである。そして、キリストと共にいることは天にいることであり、天にいることはキリストと共にいることである。主のために囚人となった一人の人は、その熱情あふれる手紙の中で、次のような美しいことばを記している。
「私の主キリストよ。もし私があなたなしに天上にあれば、それは地獄です。もし私が地獄にあり、あなたと共にあるならば、そこは私にとって天国です。あなたが、私の求めている天国であられるからです。」
これは真理である。主にある友よ。そうではないだろうか。あなたのたましいはそう言わないのか。
神がその住居を移されたら
またその御顔を隠されるなら
天上のすべてのたてごとも
そこを天国にすることはできない
あなたを幸福にするために必要なものは「キリストと共にある」ことである。