座間コミニティー

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出エジプト記29章29-30節

2012年01月05日 06時56分16秒 | 聖書

29:29 「アロンの聖なる装束は、彼の跡を継ぐ子らのものとなり、彼らはこれを着けて、油そそがれ、祭司職に任命されなければならない。」  アロンの働きは、大祭司としての働きでした。それは、ただ一人の働きです。しかし、彼が年を取ってきたり、死んだりしますと、その働きが出来なくなります。そこで、彼の後を継ぐ人が、その働きに就かなければなりません。その人々は、主に、アロンの家族の長男が引き継ぎました。この引き継ぎの時には、どうするのかということです。まず、その大祭司としての身分の印は、その着けている聖なる装束にありますので、それを引き継ぐと語られています。継承する人は、この装束を身に着けて、その職務に就かせ、神からの任職の印である油を注ぐことを命じています。この油そそぎは、王様もそうですが、神様からその職務につくようにと召された印でした。この次にその人がすべきことは、7日間この装束を身に着けるということでした。働きは1日ですが、服は7日間着けよというのです。職務の任職に対する清さと、大祭司としての自覚を持つように、させたのです。


◆あざけらない生活

2012年01月05日 06時46分49秒 | 聖書

あざける者は、いつまで、あざけりを楽しみ、
愚かな者は、いつまで、知識を憎むのか。(箴言一22後)

「あざける生活をやめよう」と、聖書は語りかけています。
もし神が私たちの罪深さ・きたなさ・偽り・愚かさをあざけられるなら、どうなるかを考えてみましょう。「へん、あんなやつ」とせせら笑われるとしたら、いてもたってもいられないほど恥ずかしい嘲笑を受けるはずの私たちではないでしょうか。
しかし神は、ただだまってあなたを理解し受け入れて、あなたのために死んでいかれました。それは、十字架の出来事にはっきり示されています。そして人間の中のあざけりの心も、イエスをあざけった十字架上の盗賊の例に明らかに見られます。「ふん、お前は神の子か、神の子なら自分を救ったらどうだ。ついでに、おれも救ってくれ」と嘲笑したことが、聖書の中に出ています。あなたの心や私の心の中に、そういうあざけりの心がないでしょうか。
神に近い生活には、あざけらないことが含まれています。イエス・キリストは、「悪に対して悪を報いるな、善を返せ」と言われました。この方こそ、人の罪や背きを一身に引き受け、十字架の上でそのいのちを与え、あらゆる悪と罪とさばきに、ストップをかけてくださった方です。
 十字架のうえに あげられつつ、
 敵をゆるしし この人を見よ
と讃美歌はうたいます(一二一番)。
私たちも、イエスがしてくださったように、人々を知り理解し、そのあるがままを受け入れて、愛し、ゆるすことです。そのようにあざけらない生活が、神に近い生活といえるのです。

 


◆神はその光をよしと見られた。

2012年01月05日 06時45分18秒 | 聖書

そして神はこの光とやみとを区別された。(創世一・四)

光がよかったのは、「光よ。あれ」という神のよいご命令によって生じたからである。光を受けている私たちは、さらに光について感謝をし、その中に、またそれによって、いっそう神を知るべきである。
ソロモンは自然の光でさえ快いと言ったが、福音の光はさらに無限に貴重なものだ。永遠のものをあらわにし、滅びることのない私たちの性質の益となるからだ。聖霊が私たちに霊の光を与え、私たちの目を開き、主の御顔のうちに神の栄光を見せられる時、罪の真相を見、自分の真の状態を知り、ご自身を現された聖なる神と、あわれみのご計画と、みことばに示された来るべき世界を見る。霊の光は光線が多く、色彩もとりどりだが、それが知識であろうと、いのちであろうと、すべて神から来るものであり、よいものである。
啓示の光でさえ、このようによいものであるなら、神の本質的な光の輝きはどんなにすばらしいものであろう。神がご自身を直接啓示される場所は、どれほど栄光に輝いていることだろうか。主よ。光のこのようなすばらしさのゆえに、さらに多くの光を与え、真の光であられる主ご自身をさらに多く与えてください。
この世界によいものが現れるやいなや、区別が必要になる。光とやみの間に関係はない。神はこの二つを分離された。私たちはこの二つを混同しないようにしよう。光の子は、やみの行い、教え、偽りと関係をもってはならない。昼の子は、主の働きをなすのに、真面目で、正直で、かつ大胆でなければならない。やみの働きは、永久にやみに住む者たちに任せなさい。私たちの教会は訓練によって、光をやみから分かち、また私たち自身を世のものと明確に分かつべきである。判断において、行動において、聞くことにおいて、教えることにおいて、友との交わりにおいて、尊いものと卑しいものとを区別し、主なる神が、世界の第一日になされた区分を守らなければならない。
主イエス様。この一日を通し、私たちの光となってください。あなたの光こそ、人々の光ですから。